「行持」を学ぶ(1)

【仏の道:遠望・近見】 (160) 


    初めに一言 

 仏道を学び始めると、「行持」(ギョウジ)の大切さが強調される。常に持続して修行に務めることを意味するが、その教えの典拠は、道元禅師の『正法眼蔵』「行持」巻(上・下)である。すなわち「行持」上巻巻頭に道元禅師自身によって規定されている禅語である。

「行持」巻は、『正法眼蔵』の中でも最も長文である。何故、このように大部のものを執筆されたのか? それも道元禅師ご自身が、最初に述べておられる。

「仏祖の大道、必ず無上の行持あり。道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり」

修行の本質「行持道環」それを具体的に諸々の仏祖たちの実践例を取り上げ、詳細に説諭するためまとめられたものである。釈迦牟尼仏に始まり、摩訶迦葉尊者、六祖慧能など35仏を取り上げ、なぜ、これらの方々が仏祖であられるのか? その根拠・所以を具体的に説いておられる。

仏道とは何か? それを行持し、現成を認識するには「道は無窮なり」と仰られた道元禅師のご遺志に添いながら仏祖たちの”行持道環”を学ばねばならぬ、と思う。これより約2ヶ月、題して【「行持」を学ぶ】 じっくりと学ばせていただきたいと思う。

「行持」を学ぶ(1)


   仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。
   発心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、
   行持道環なり。

 仏祖の大道には、必ず無上の行持(修行の持続)があり、それは輪のように循環して絶えることがない。仏道に発心し、仏道を修行し、仏道を悟り、仏道を成就する、これらのことが、少しの間隙もなく循環して修行が持続されるのである。

   このゆゑに、みづからの強為にあらず、
   他の強為にあらず、不曾染汙の行持なり。
   この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。


 このために、この修行は自ら強いて行うものでも、他に強いられて行うものでもない。何物にも汚されることのない行持の修行である。この行持の功徳は、真実の我を保持し、他を保持するものである。

   その宗旨は、わが行持すなはち十方の帀地漫天、
   みなその功徳をかうむる。
   他もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。


 その教えの要旨は、自分の行持はこの世界全体に及んで、皆その功徳を受けるのである。そのことを、他人も知らず、自分も知らないとしても、そうなのである。

   このゆゑに、諸仏諸祖の行持によりて、
   われらが行持見成し、われらが大道通達するなり。
   われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、
   諸仏の大道通達するなり。


 このために、諸々の仏や祖師が行持されたことによって、我々は今行持することが出来ているのであり、我々は仏祖の大道に通ずることが出来るのである。また、我々の行持によって諸仏の行持が行われ、諸仏の大道が世に行き渡るのである。

   われらが行持によりて、この道環の功徳あり。
   これによりて、仏仏祖祖、
   仏住し、仏非し、仏心し、仏成して、断絶せざるなり。


 また、我々の行持によって、このような大道循環の功徳が現れる。仏祖は仏として道場に住持し、仏を否定し、仏の慈悲心を起こし、仏を成就して、大道は絶えることがない。

   この行持によりて日月星辰あり、
   行持によりて大地虚空あり。
   行持によりて依正身心あり、
   行持によりて四大五蘊あり。


 この行持によって太陽や月や星があり、この行持によって大地や大空があり、この行持によって今の身心があり、この行持によって万物の四大元素(地水火風)や物質と精神の五蘊世界(色受想行識)がある。

   行持これ世人の愛処にあらざれども、
   諸人の実帰なるべし。


 行持は世の人の愛し好むところではないが、人々の真実に帰すべきところなのである。

   過去 現在 未来の諸仏の行持によりて、
   過去 現在 未来の諸仏は現成するなり。


 過去 現在 未来の諸仏の行持によって、過去 現在 未来の諸仏は現れるのである。


           【語義と解釈】

◯ 依正身心:過去業によって受けたる身心を「正報」(セイホウ)と
      いい、その身心の依りて止まる世間を「依報」(エホウ)と
      言う。ここでは、その世界と身心を意味する。

◯ 四大五蘊:「四大」は、「地・水・火・風」のこと。
      「五蘊」は、身心を構成する「色・受・想・行・識」である。
          
            ・・・行持とは・・・

 先ず、冒頭、「行持」の意味について、道元師自身による言葉の解説で始まる。つまり、仏祖の大道には最高の「行」がある。その「行」は、常に連綿として断絶することがない。「発心-修行-菩提-涅槃」といささかの間隙なく続く「大道循環」である。これを持って「持」と言う。


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