「帰依三法」を学ぶ(5)

【仏の道:遠望・近見】 (150) 

「帰依三法」を学ぶ(5)

           「帰依三法」功徳を説く
               
   世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。
   衆生いたづらに所逼をおそれて、山神鬼神等に帰依し、
   あるいは外道の制多に帰依することなかれ。
   かれはその帰依によりて衆苦を解脱することなし。


  このように 世尊(釈尊)は、すべての人々のために教え示された。世の人々は、徒に窮迫することを怖れ、山神や鬼神等に帰依したり、外道(仏教以外の教え)を祭る廟などに帰依してはならぬ。彼は、その帰依によって諸苦を解脱することはない。


   「おほよそ外道の邪教にしたがうて、牛戒、鹿戒、羅刹戒、鬼戒、
    瘂戒、聾戒、狗戒、雞戒、雉戒、

 また世尊は、以下のように言われた。
「およそ外道の邪教に従って、牛戒 鹿戒(牛や鹿の行動に習う戒)、羅刹戒 鬼戒(邪悪な鬼神に習う戒)、瘂戒 聾戒(聾唖の如くする戒)、狗戒 雞戒 雉戒(イヌ、ニワトリ、キジの行動に習う戒)を守ったり、


   灰を以て身に塗り、長髪を相と為し、羊を以て時を祠り、
   先に咒して後に殺し、四月火に事へ、七日 風に服し、
   百千億華もて、諸天に供養し、諸の欲ふ所の願、
   此れに因りて成就すといふ。

灰を身体に塗って髪を長く伸ばしたり、羊でもって時の神を祭り、先ず呪いをして後に殺したり、四ヶ月間 火に仕えたり、七日間 風に仕えたり、百千億の華で諸々の天神に供養したりすれば、諸々の願いを成就することが出来ると言うが、しかし


   是の如き等の法は、能く解脱の因と為らんには、
   是の処有ること無けん。智者の讃めざる所、
   唐しく苦しんで善報なし。」


このような方法は、解脱の因縁とはならない。これらは知者の褒めない行為であり、徒に苦しいばかりで善い報いはないのである。」と。


   かくのごとくなるがゆゑに、
   いたづらに邪道に帰せざらんこと、あきらかに甄究すべし。
   たとひこれらの戒にことなる法なりとも、
   その道理、もし孤樹 制多等の道理に符合せらば、
   帰依することなかれ。

  このようなことであるが故に、徒に邪道に帰依してはならないのは明白だ。それを弁えよ。たとえこれらの戒と異なる法であっても、その道理が若し一樹や廟などの神を祭る道理と一致するのであっても、帰依してはならぬ。


   人身うることかたし、仏法あふことまれなり。
   いたづらに鬼神の眷属として一生をわたり、
   むなしく邪見の流類として多生をすごさん、かなしむべし。


人間として生まれることは難しく、仏法に出会うことは希なのである。徒に鬼神の一族となって一生を送り、空しくよこしまな考えの部類として、多くの生を過ごすならば、それは悲しむべきことである。


   はやく仏法僧の三宝に帰依したてまつりて、
   衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。

ですから、すでに「仏陀 仏法 僧団」の三宝に帰依して、多くの苦を解脱するだけでなく、菩提(仏の悟り)を成就するように努めよ。

              【註釈】 
この節からはしばらく、道元禅師は様々な経典を引用しながら「帰依三法」の功徳について説明される。増谷文雄氏の研究によれば、この節の出典は、
  1) 『倶舎論』巻十四
  2) 『希有経』(取意文)
  3) 『増一阿含経』巻二十四、六(取意文)
  4) 『大方等大集経』巻四十四、日蔵分、三帰済龍分 
で、ある。いずれも「帰依三法」の功徳を説いた経典である。
道元禅氏の説諭は、常に教えの根拠を経典に求め、釈尊自身の言葉で教示されている。それ故に、難解な用語も誠実に吟味し受け賜わねばならぬ、と思う。

◯ 外道の制多:梵語の ceitya の漢訳語。「支提」の訳もある。
      ”塔廟”あるいは”廟”を意味する。

◯ 牛戒、鹿戒:ここに言う”戒”は、梵語の sila で、「生き方」「習慣」
      を意味する。ここでは、「牛の生き方」「鹿の生き方」と言う
      意味であろう。

◯  羅刹: 悪魔のこと。
◯  甄究: 「甄」(ケン)は明らかにすること。「研究」と同じ意味。


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