「宗教の”自主的”献金と仏教の布施』


今月8日、奈良市で選挙演説をしていた安倍元総理大臣が銃撃されて死亡した事件で、容疑者の母親が入信していた宗教団体に総額で1億円にのぼる献金をし自己破産し、家庭が崩壊していた事実が判明、これを巡って指摘されたキリスト教系新興宗教「世界平和統一家庭連合」幹部が記者会見し弁明。

更に同宗教団体の被害者救済にあたっている弁護士たちも”強制寄付”の実態と政治家との繋がりを詳細に公開、これに注目したマスコミが一斉に特集番組を組み事件の背景にある知られざる宗教の暗闇解明に乗り出し、大きな社会問題になっている。

宗教と信仰の問題は基本的に信者個人の信条に関わる部分が多く、他人が踏み込みにくいものであるが、今回の場合は、個人の”信心”を巧妙に利用してマインドコントロール。”自主的献金”名目で主婦から1億円という大金を巻き上げる悪どい行為が「神の義」の名の下で行われていたことが暴露されている。

私は、犯人の犯行は絶対に許せないがその動機となった母親の信仰と破綻の悲惨な状況には同情する。このようにナイーブな信徒による悲惨な生活破綻を全ての宗教指導者は、他人事とせず、この機会に改めて自らの教団を顧みて欲しい。

この例だけではない。私は新興宗教に凝っている数名の知人の例を知っており「世界平和統一家庭連合」に似た信者のマインドコントロールで”自主的献金”を搾り取られている実例をいくつも見聞しており、その実態はかなり深刻なものである。

コトの重大さは他人事ではない。我々の家と宗教、家族個々人の宗教活動、それぞれに大小、さまざまな宗教トラブルを抱えている。この機会に我が身に近いあらゆる宗教活動の総点検を一人一人、点検してみるいいキッカケになると思う。

私自身、90歳を超えた晩年に仏教に関心を抱くようになった。では仏教のお布施はどうなのか? このような強制力が働く仕組みがあるのか? どうか? 

私がこれまで学んだ教えによれば、布施は仏道を歩む決意をした者にとって最も基本的な行持である。六波羅蜜の第一番目が布施波羅蜜である。信仰の証である。

道元禅師によれば、釈尊はこう仰られたと言う。
「一銭一草の財をも布施すべし、此世他世の善根をきざす。」
(ほんの少しの財でも布施すべし。現世と来世の善根が芽生えるであろう)

それも尋常な行いではない。釈尊ご自身の言葉によれば、「施身聞偈」「捨身飼虎」(飢えた虎に我が身を施す)と言う実に徹底したものだ。その極地とも言うべき布施のあり方の教え、”純粋な”布施心を説かれたのであろう。

だが、このような”布施心”は指導者の法話によって、信者をどのようにでも導き得るものである。それ故に、仏典は、陥り易い「布施」を次のように戒めている。即ち、「倶舎論」にはあってはならぬ次の「七つの不純な布施」を具体的に挙げている。

一,随至施(しつこく乞われて,仕方なくする布施)
二,怖畏施(応じておかないと,具合が悪そう、とする布施)
三,報恩施(昔に受けた恩を返すためにする布施)
四,求報施(返礼を期待してする布施)
五,習先施(先例があるからしなければ、としてする布施)
六,希天施(その功徳で天界に生まれたいと願いする布施)
七,要名施(自分の名声を高めようとしてする布施)


日本仏教には天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗など13宗があり、いずれも大乗仏教であるが、私は時折、法話で正直に寺院経営の必要上、指摘されている”不純な布施”に頼っている寺院の苦悩を告白しておられる僧侶を見かける。寺院を預かる僧侶と檀家の関係はその不純な布施を醸成する危険性を内包している。

僧侶の婚姻と世襲相続は日本独特の制度・慣習で、世界的には”異端”とする見方も多い。そのために「布施」を行う者も、受ける側も、共にここに指摘されている”不純”な行為を正に「習先施」として行っているきらいはある。だが、直ちに自戒、懺悔している例も多く、自浄作用はそれなりに健全に働いていると思う。

仏教には「三宝」(仏・法・僧)についてより基本的な戒律がある。
道元禅師は「参禅問道は、戒律を先と為す。既に過を離れ非を防ぐに非ずば、何を以てか成仏作祖せん」(禅に参じて仏道を学ぶには、先ず戒律を守ることが大切である。過ちを離れ非を防ぐことなくして、どうして仏や祖となることができようか)と教示された。

即ち、仏に帰依し仏道を歩む決意をした者は必ず戒律を守るべきである、とし、民衆を導く修行者は必ず受戒し、終生、戒律を厳守しなければならない、と説かれている。「三宝を敬う」は仏道を歩む者が厳守すべき黄金律であるが、そこに言う「僧」はその受戒を受けたサンガ(修行僧集団)を意味する。

私は、道元禅師以外の仏教の教えに接したことがないが、道元禅師の教えに関する限り、仏道で民を導く修行僧は全て受戒者であり、布施によって修行する。これまで学んだ「修証義」が明らかにしているように「修行(坐禅)即証し(悟り)」が信仰生活である。

こうした視点から私が最も信頼するのは、曹洞宗の安泰寺である。道元禅師の教えを純粋に行じるために設けられた修行道場で、檀家は一切、取らず、田畑を耕し米と野菜を栽培し、竈の燃料となる薪は山から原木を切り出して自給自足し、年間1800時間坐禅に専念している。無所得の浄信・・誠に宗教本来あるべき姿だと思う。

ここで私は、日本仏教が軽視している「受戒」を少し丹念に学んでみたいと思う。私が知る限り、日本で釈尊の教え通りに出家者の受戒を重視しているのは道元禅だけのように思う。

明日から三回に分けて道元禅師の『正法眼蔵』「受戒」巻を精読・吟味する。

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