「弁道話」を学ぶ(7)

[ 4儀の「坐」について ]

とうていはく、
「仏家なにによりてか四儀のなかに、
ただし坐にのみおほせて禅定をすすめて
証入をいふや。」

しめしていはく、
「むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し
証入せるみち、
きはめしりがたし。ゆゑをたづねば、
ただ仏家のもちゐるところを
ゆゑとしるべし、
このほかにたづぬべからず。

問うて言う、「仏祖の家門では、なぜ行住坐臥(ギョウジュウ ザガ)の四儀の中で、坐だけを取り上げてその禅定を勧め、悟りに入ると言うのか。」

教えて言う、「昔からの諸仏が、相次いで修行し悟りに入られた道は、熟知することが困難だが、その理由を尋ねられれば、ただ仏祖の家門が用いてきたことが理由である。このほかに尋ねることはない。

ただし、祖師ほめていはく、
「坐禅はすなはち安楽の法門なり。」
はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。
いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、
諸仏諸祖にみなこのみちあり。」

但し、祖師は褒めて仰った。「坐禅は安楽の教えである。」と。推察するに、行住坐臥の四儀の中で安楽なためであろう。まして坐禅は、一人二人の仏が修行した道ではない。すべての仏や祖師たち皆が、この道を通ってきたのだ。」

[ 修証一等ということ ]

とうていはく、
「この坐禅の行は、いまだ仏法を
証会せざらんものは、
坐禅辨道してその証をとるべし。
すでに仏正法をあきらめえん人は、
坐禅なにのまつところかあらん。

しめしていはく、
「痴人のまへにゆめをとかず、
山子の手には舟棹をあたへ
がたしといへども、
さらに訓をたるべし。

問うて言う
「この坐禅の行は、仏法を悟っていない者は坐禅修行して、その悟りを手に入れればよい。だが既に仏の正法を明らかにした人は、この上、坐禅して何を待ち望むというのか。」
教えて言う、
「痴人の前で夢を説かぬ、山の樵に舟と棹を与えても仕方がないと言う例え通りだが、更に教えよう。

それ修証はひとつにあらずとおもへる、
すなはち外道の見なり。
仏法には、修証これ一等なり。
いまも証上の修なるゆゑに、
初心の辨道すなはち本証の全体なり。

そもそも修行と悟りは別のもので一つではないと思うのは、外道の考えである。仏法では、修行と悟りは同一なのだ。この坐禅も悟りの上の修行なので、初心の修行は悟りの全体をなす。

かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、
修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。
直指の本証なるがゆゑなるべし。
すでに修の証なれば、証にきはなく、
証の修なれば、修にはじめなし。

それ故、修行の用心を授ける時にも、修行のほかに悟りを待つ思いを持ってはならないと教える。修行は悟りを直ちに指し示すものだからだ。既に修行そのものが悟りなので悟りに終わりは無く、悟りは修行そのものなので修行に始めは無いのである。

ここをもて、釈迦如来、迦葉尊者、
ともに証上の修に受用せられ、
達磨大師、大鑑高祖、
おなじく証上の修に引転せらる。
仏法住持のあと、みなかくのごとし。

これによって、釈迦如来や迦葉尊者は、共に悟りの上の修行をされた。達磨大師や大鑑高祖(六祖慧能)も、同じく悟りの上の修行をされたのである。仏祖の仏法護持の足跡は、皆この通りである。

すでに証をはなれぬ修あり、
われらさいはひに
一分の妙修を単伝せる、
初心の辨道すなはち一分の
本証を無為の地にうるなり。

既に悟りを離れない修行であるのだ。我々は幸いにも、優れた修行の全体を伝えられているので、初心の修行は悟りの全体を無為の地に得ることが出来るのである。

しるべし、修をはなれぬ
証を染汚せざらしめんがために、
仏祖しきりに修行のゆるく
すべからざるとをしふ。
 妙修を放下すれば本証
手の中にみてり、本証を出身すれば
妙修通身におこなはる。」


知るべし。修行を離れない悟りを汚さないために、仏祖はしきりに修行を緩くしてはならないと教えられた。修行を手放せば悟りは手の中に満ち、悟りを抜け出れば修行は全身に行われる。

「又まのあたり大宋国にしてみしかば、
諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、
五百六百、および一二千僧を安じて、
日夜に坐禅をすすめき。
その席主とせる伝仏心印の宗匠に、
仏法の大意をとぶらひしかば、
修証の両段にあらぬむねをきこえき。

 「また、私が直接 大宋国で見たのは、諸方の禅院が皆 坐禅堂を建て、五百人六百人また千人二千人の僧をおいて、日夜に坐禅を勧めていたことだ。その道場の主となっている仏の悟りを伝える宗匠に、仏法の根本を尋ねたところ、修行と悟りは二つではないという回答であった。

このゆゑに、門下の参学のみにあらず、
求法の高流、仏法のなかに真実をねがはん人、
初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、
仏祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、
坐禅辨道すべしとすすむ。

このために、仏祖門下の修行者だけでなく、仏法を求める優れた人々や、仏法の中に真実を求める人々、初心や古参を選ばず、凡人聖人を論ぜず、皆仏祖の教えにより、宗匠の道を追って坐禅修行に励めと勧めるのである。

きかずや祖師のいはく、
「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ。」
又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。
しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。」

祖師のこの言葉を聞いたことはないか。「修行と悟りはないことはないが、それを汚してはならない。」と。また「道を見るものは道を修する。」と。知るべし、悟りを得た中で修行すべきことを。 


[ 上代の人師について ]

とうていはく、
「わが朝の先代に、教をひろめし諸師、
ともにこれ入唐伝法せしとき、
なんぞこのむねをさしおきて、
ただ教をのみつたへし。」

しめしていはく、
「むかしの人師
 この法をつたへざりしことは、
時節のいまだいたらざりしゆゑなり。」

問うて言う、
「わが国の先代に教えを広めた諸師は、皆、唐国へ渡って学び日本に法を伝えたのに、何故この坐禅を差し置いて、専ら教えだけを伝えたのか。」
教えて言う、
「昔の師となる人が、この坐禅の法を伝えなかったのは、まだその時節が熟していなかったからである。」

とうていはく、
「かの上代の師、この法を会得せりや。」
しめしていはく、
「会せば通じてん。」

問うて言う、
「その昔の師は、この坐禅の法を会得していたのか。」
教えて言う、
「会得しておれば伝えていたであろう」

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