6 広島原爆・・・15歳、私の体験

今日は「広島原爆の日」 77年前の8月6日午前8時16分、15歳の私は、広島市の30キロ東にある西條町(現・東広島市)の軍需工場で弾丸のゲージ作りに従事していた。小学校高等科2年生。現在で言えば中学2年生であった。

朝礼が終わり、持ち場に着いたその時、天をつん裂くような大音響が上がった。驚いて外に出ると、西空に大きな白雲が上がっている。咄嗟に私たちは「広島ガスのタンクが爆発した」と大声を掛け合った。

それが大きな勘違いで、アメリカのB-29爆撃機による爆撃で、これまでにない大型の爆弾が落とされたことが夕方になって伝わって来た。近くにあった傷痍軍人療養所に全身、血まみれで傷ついた人々が運ばれて来たからである。何か特殊爆弾が落とされ広島が全滅、とも言う。不安が町民を包み込んだ。

私たちにその異常事態が分かったのは翌日だった。私たちも動員され救援に向かった。傷つき徒歩で逃げ惑っている人々を助けるのだった。だが市街には入れない。途中で傷つき避難している人々を助け上げて療養所に運んだ。

それは文字通り「猛火に包まれた煉獄」であった。息も出来ないあの悪臭は未だに忘れていない。現場近くにありながら何が起こったのか? 全く掴めなかった。この救援は、3日間だけで、私たちは任務を解かれた。だが15歳の子どもの目にも「これが戦場だ」との強い印象を残した。

私たちは、負傷者の救援や死体収容に当たり、猛烈な死臭が焦土の中で無感動にただ”処理”を急ぐ。そして滾(たぎ)らせる復讐の誓いが疲労をふっ飛ばし、疲れさえ覚えることはなかった。

軍需工場に戻った私たちは、隣組班長の力強い演説に耳を傾けていた。 「喜べ! 大久野島で新型兵器が完成した。アメリカの特殊爆弾以上の殺傷力を持つ、これまで見たことのない兵器だ。これで一気に反撃に出る」 

大久野島と言うのは、広島県竹原市の瀬戸内海沖に浮かぶ小島である。そこでは特殊化学(毒ガス)爆弾が作られているのは、この地域では公然の秘密であった。それが、遂に完成し、原爆への報復として一大反撃作戦に出る。広島の惨状を見てきたばかりの我々は興奮した。

いよいよ、本土決戦! 私自身は、身がガタガタ震えるほどの武者震いを覚えたものであった。そして心から誓った。今にみておれ、鬼畜米英。必ずこの仕返しは我らがする、と。そして工場勤務の後、夜、学校に集合して行われていた竹槍訓練に本気で取り組んだ。

物陰に隠れて目前に現れた米兵の脇腹を突く、突くと同時に抉る。それが相手を倒す秘訣だ。「突くと同時にエグる」 本土決戦、間も無く米軍は、この街にもやってくる。小学校長が直々、指導するゲリラ戦訓練は一層、気合がこもったものとなった。

私は、小学校尋常科を卒業しても中学校(旧制)に進まず、そのまま小学校高等科に残ったのだが、数人の学友は、広島市内の中学校や工業学校に進学していた。だが全員、被爆死していた。その日、広島にいた私と同年輩の子どもたちは何を体験したのか? それは、もっと過酷でした。

1庶民、それも15歳の少年が、どのような状況の元で、人類初の原爆に遭遇したのか、あるいは瀬ざるを得なかったのか? 私は、後年、同志社大学で同級生となり、生涯、親交を結んだ、故竹本成徳氏の貴重な体験記で、その詳細を知った。

この竹本体験談ほど忠実に、しかも実に冷静・的確に語られているものを他に見たことがない。今日は、皆さんにも是非、お読みいただき、15歳少年のヒロシマ原爆被災の実際を追体験してもらいたいと思う。


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