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短歌は誰のもの?

短歌サークルに入って、盛り上がっているのでww短歌の話を続けます。

日本の定型短詩文学って、なんの伝統かわかりませんが、歌を持ち寄り、作者を伏せて評をし合うという「歌会」があります。

これ、最初はびっくりするし、けっこうしんどい思いもするんです。だって、作者名を伏せるから、若葉マークの頃も、それは皆にはわからない。ベテランさんと同列に評されるわけで(実際は、初心者の作品だってばればれなんだけど)それも、意図していた読みとチガウ解釈をされたりする。ああ~言い訳したいよぉ・・・実際、我慢できずに言い訳する人もいます・・・

でも、そもそも私が短歌に惹かれたのは、田舎の村の文化協会が事務局として開催した「胆振短歌会」(胆振いぶりは北海道の行政区です)でのことです。歌会の一(いち)会場に事務局員として配置され、歌会の一部始終を見学し、その評の真剣さ、文芸に対する造詣の深さ、評を受け止める真摯な姿勢に、正直びっくりしました。これはすごい!と思い、気がついたら指折り歌を詠んでいました。

その後、文化協会会長さんも会員である、地元の短歌結社に入り、毎月の誌上短歌会に参加するようになりました。なんといってもその結社の主宰者さんが、地元の郷土史家だったこともあり、よくその方のお家での月例会のすみっこに連座して、みなさんの熱い文学談義を聴けました。これはすごーく勉強になったと思います。

その時のいろんなお話の中で、印象に残っているのが「歌会で、自分の作歌意図と違う解釈をされるのはどおよ?」という話題。いや、どんなものでしょう、だねww

ベテランの皆さんが語る「短歌とは」によれば、短歌は「詠み手8割、読み手2割」で完成に至る、というもの。つまり、詠み手の「こう詠んだつもり」だけでは完成せず、読む方が残りの2割を加える。そういう文学なんだよ、と。「どう詠まれるのか」「詠み手の思いは伝わっているか」を考慮して、歌を作る。自分の意図とは違う、うれしい意味での「異なる解釈」もあったりするから、面白い。その面白さを味わうには、何年もかかったけど。

まったくのド素人で始めたことに加え、会員のみなさんとの年齢差もあり、「わからないわねえ、この歌は」と評されることの多かった私ですが、この話はいつも念頭にあって「わかってもらえないのね」「いいの、この歌は作者である私のものだから」と思わずに済みました。

でも、いつのまにか、みなさんの共感を得て、票をたくさん集めて「今月の特選歌」に選んでもらいたい・・・と思うようになり、なんだかつまんない歌を詠むようになったので、短歌と距離を置くようになっちゃったけど。

今回、参加したサークルは、寸評のレベルが途方もなく高い@@

私の歌は、どんな評をされるのかしら。

それより(ほかの方の歌の)気の利いた寸評なんて、私書けるの?

初の詠草を、先ほどメールで送りました。

どきどき。

また明日。

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