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貴心★カリスマの自己紹介

はじめまして。
貴心★カリスマです。
初note投稿になります。
このnoteをお読み頂き、少しでも私の事を知っていただけたら嬉しいです。
年齢的な事もありかなり長いです。

[本記事の目的]
なぜ私が「カリスマ」と名乗るのか?
この辺りが伝わると良いな。と心から願っています。

[はじめに]
私の自己紹介にあたってはどうしても生い立ちとそこから形成された
価値観を書かねばなりません。
最初にお伝えしますね。

ほとんどの内容は、決して明るい内容ではありません。
ですが、どうか不幸自慢と捉えないでください。

なぜ、「貴心★カリスマ」と名乗る事にしたのか?
その点にフォーカスしてお読み頂けますと幸いです。
では、参ります。

◼️出生
1971年生まれ 48歳
千葉県我孫子市生まれ 茨城県取手市育ち
両親は私が生まれて間もなく離婚しているので、
私は母親の顔も名前も知りません。

◼️幼少期
祖母の家に預けられ、そこに住む父の兄の家族と一緒に過ごす
時間が多かったです。
4歳上、8歳上の従兄弟と過ごす時間が多かったのですが。
この頃から実子と他人の子という差別的な扱いを子供ながらに感じる事が
多々ありました。
それでも、優しい祖父と祖母に温かく育てて貰ったことは本当に感謝しか
ありません。

◼️小学生(低学年)
この頃から祖母が私の家に来て、一緒に暮らすようになります。
父と祖母と私の3人で生活をする様になりました。
弱虫なくせに、女子が他の男子に意地悪をされているのを見ると後先考えずに、
正義の味方になった様な気持ちで男子達に立ち向かって行くような性格でした。
当時のあだ名は「カッコつけマン」。
この時はあまり気付いていませんでしたが、きっと周囲からも浮いた存在だった
のだと思います。

◼️小学校(中学年)
小学校3年生の時に大好きだった祖母が他界しました。
この時からいわゆる「鍵っ子」になりました。
同級生は低学年時代の「カッコつけマン」の振る舞いが気にいらなかったのでしょう。この頃から酷い虐めにあうようになりました。
父親にも泣き叫いて相談しましたが、「やられたらやり返せ、ウジウジするな」と言われるばかり。多勢に無勢。さすがにそこまでの勇気も気概もありませんでした。時には見かねた父が、学校の先生に直談判をしてくれた事もありましたが、酷い虐めは収まることはありませんでした。
なので、夏休みや普段の週末は父が営む精肉店にいき、店の手伝いをしたり一人で遊んでいる事が多かったです。

◼️小学校(高学年)
学区再編成の関係で自分の街にある小学校に再編入することになりました。
これは私にとって、とても有り難い出来事でした。
虐めの中心になっていたメンバーとは学校が分かれる事になりました。
もちろん、その虐めグループにいたメンバーの一部も一緒に再編入されましたが
中心メンバーが居なくなった事で虐めは殆ど無くなりました。

そんなある日、価値観が大きく変わる様な小さな出来事が起こりました。
学校で1人廊下を歩いていると、「貴心、最近調子に乗ってるよな。」と
隣にいる虐めっ子仲間にボソッと言ったのです。
周囲には私以外には誰もいませんでしたから、例え小声でも私に向かって聞こえる様に言い放ったのは間違いありませんでした。

これまで、暴力的な行動で虐めを収めようとは思った事はありませんでしたが、
この瞬間だけは頭にカーッと血が上った事を覚えています。
当時、父の仕事の手伝いをしていた私は、毎週の様に10Kgほどもある牛や豚の
骨(ガラ)を1km近く離れた馴染みの飲食店まで歩いて配達する手伝いをして
いたので、同世代の友達と比較して明かに腕力が強い事は自覚していました。

そんな私が瞬間的にその苛めっ子に掴みかかり、腕を思い切り捻り上げました。
相当痛かったのでしょう。
「ごめんなさい!本当にごめんなさい!もう言わないから!」
と泣き出してしまいました。
その大きな泣き声に教室から出てきた同級生も唖然としていました。

苛めっ子は完全に戦意喪失しており、私はその場を無言で立ち去りましたが
後で担任に呼ばれ、暴力はダメだと。こっぴどく叱られた事は覚えています。
一言も口応えもしませんでした。とても晴れやかな気分でした。

翌日から、虐めっ子達は私に近づく事はなくなりました。
近づいてきてもヘラヘラ笑って媚び諂う様な感じです。

嬉しくもなんともなかったのですが、この頃から困っている人を助けたい。
そのためには自分が変わればいいんだ。という価値観を持つ様になりました。

◼️中学時代
虐めもなくなり、小学生6年生から始めたバスケに夢中なります。
当時の朝練では、毎日ロングシュート200本打って、入った数を記録するという
習慣がありました。
週末に他校との練習試合を控えた、ある日の朝練で200本中143本入った日が
ありました。その記録を放課後の練習後に見た顧問の先生が部員全員がいる前で
こんな事をいいました。

「次の練習試合のシュートは基本全て貴心に打たせる。周りはそれに協力しろ。」と。

さすがに中学生とは言え、バスケはチームスポーツであり、そんなワンマンプレーで
勝てる訳が無い。と申し入れしましたが、顧問は譲らず、今のチームでは
誰よりもお前のシュートが正確だ。勝つためにお前に全てのシュートを打たせる。
嬉しさの反面、その時はチームメイトの顔を直視するのは怖かったです。

しかし、チームメイト達はお前に任せる。全部お前にパスするから頼むぞ。と。
あの時の感動は忘れません。努力をし結果をだせば、ちゃんと認めてもらえるという、
極めて貴重で大きな価値観を得ました。

練習試合の結果は、ギリギリでしたが僅差で勝つ事ができました。
チームメイトの協力で本当に殆どのシュートを放ち、自分でも神がかり的な成功率だったと記憶しています。
中学バスケ引退の間際には、近隣中学では他校の女子バスケ部員から声を掛けられるるくらいの、そこそこ有名なシューターとなっていましがたが学校自体が弱小校ということもあり、残念ながら中学生活のバスケで大きく花咲く事はできませんでした。

◼️高校時代
本当はバスケの全国常連の私立校に行きたかったのですが、先にその学校に入部していた
先輩から、身長制限があること(168cm以下は入部できない)を聞きました。
また、家庭の経済的環境もあり私立校は断念しました。
県立の強豪校に行くという事も考えましたが、試合に出られなければ意味がないと思い近場かつ学力的にも余裕があり、バスケに専念できる近場の高校を選びました。
その決め手は、中3の夏にその高校の練習に参加させていただいた時に、俺の方が上手い。
と思った事もあり、その学校ならば1年生からレギュラーになれる。と確信したからです。

しかし、現実はそんなに甘くはなく、より身長の高い野球部出身の同級生が1年からレギュラーに選ばれ、この頃から徐々にバスケ一辺倒の生活から離れていきました。

飲食店でバイトをする様になり、コピーバンドを始め、自分でお金を稼ぎ一晩中バンド仲間と遊びまわる日々。入学当時はTOP2で入った成績も試験の結果、みるみる落ちていきました。3年生になる頃には下から数えた方が早いくらい。

そんな頃、父から。
大学に行かせる余裕はない。卒業したら家を出て行け。家にいる事は許さない。
と言われます。
未だ遅い反抗期が続いていたので。
当時は「あっそ。自由でいいや」としか思っていなかったです。

就活らしいものはほとんどなく、希望だけ担任に伝えました。
大学にはいかない。東京で一人暮らし。スーツを着てできる仕事。
今思えば、とんでもない適当さでした。

◼️社会人(1年目〜8年目)
社員数60名ほどの小さな派遣会社に正社員として入社。
2日程の社会人マナー研修を受け、すぐに先輩社員のいる現場に配属。
仕事の内容は、24/365の夜勤ありのITオペレーター。
配属された現場は超有名企業も含め色々とありますが、単なるITオペなので
マニュアル通りにやるだけ。
自分でいうのもアレですが、飲食店のバイトでもマルチタスクをこなしており
地頭もそんなに悪くなかったので、仕事は楽勝でした。
それだけで給料は貰えたし、好きな遊びもできていたので何にも、疑問や不安は
まったくありませんでした。

◼️社会人(9〜10年目)
2年程離れていた現場からオペレーター時代に私の仕事ぶりを見ていた情報システム部の方から直接指名をいただき営業技術支援(プリセールス)的な仕事を一緒にやらないかと言われます。オペレーターから抜けるのも悪くない、楽勝だと。
深く考える事もなくその仕事に携わらせてもらいました。

この時、ようやく社会人として、相当ヤバいんだという状況に気付かされます。
名刺交換の仕方に始まり、お客様先での立ち振る舞い。技術力の低さ。
私を指名してくれた社員の方から毎日の様に叱責、罵倒されます。

「お前さ、今まで社会人としてなにしてきたの?」

当然なにも努力をしなかった自分が悪いんですが、この一言は本当にキツかったです。いまでもトラウマに近い恐怖があります。
それでも当時は技術支援者として、日々技術の習得に精一杯だったので
理想のビジネスパーソンとは?などという事を考える余裕もありませんでした。

そんな事をしている内に顧客側予算の縮小で契約も解除に。
唯一身に付けたのは、当時は非常に少ないUNIXエンジニアという肩書だけ。
ちなみにこの頃まで、バスケは細々と続けており、社会人クラブのコーチをしていました。

◼️社会人(11〜13年目)
※IT寄りの話でわかりにくいかもしれません。ご容赦を。
当時の世の中はメインフレームが主流だったものが、クライアントサーバーシステムに移行が進み始めた時期で、まさに世の中にはUNIXエンジニアが不足していました。
UNIXのスキルを持った私は運良く、当時世界で5本の指に入る顧客をデータベース保有するとある金融系のお客様でシステム移行担当として勤務することになりました。
ここでビジネスパーソンとしての、基本を現場で全て叩き込まれました。
徹夜も当たり前。
毎日9時から18時まで2時間刻みで打ち合わせ、そこから移行作業。

その上知らない技術領域をいきなり担当させられたり。
あまりの激務に周りの同僚が目の前で救急搬送される姿も幾度となく目の当たりにしてきました。
幸いにも私は頑丈だったのか、心も体も折れる事もなくシステム移行を乗り越え、システム管理者(システム含め若手の管理や育成)を任されるまでになりました。

◼️社会人(14〜15年目)
ようやくお客様や周囲から認められ、仕事そのもので苦労をする事は減ってきましたが。
16年目の春。父の再婚相手である義母がクモ膜下出血で植物状態となりました。
幸いな事に前述の金融系のお客様のデータセンターが地元近くにあり、そちらで仕事を継続させていただきながら、義母の介護と仕事を続ける事になります。
今の妻と結婚をしたのも丁度この頃になります。
結婚と介護を機に、初めて自分のキャリアについて徐々にそして深く悩み出します。

「俺、この仕事一生できるのかな?」

◼️社会人(16〜17年目)
この2年間。本当に自分のキャリアについて悩みました。
何がしたいのか?全く検討もつかず、正直途方にくれてました。
ただ、いまのITの仕事でない事はボンヤリと考え始めているのは間違いない。
では、何をしたいのか?
そんなとき、1冊の本に出会います。

「7つの習慣」

どのように手にしたかは覚えていません。何気なく手に取り貪り読んだ事だけを
覚えています。
自分の価値観を棚卸しし、どんな人生の終わり方をしたいのか?
当時はキャリアカウンセラーなどという存在すら知らず。当然身近にもおらず。

自分のビジョンと価値観を全て言語化するだけで1年掛かりました。
導き出されたビジョンは「人材育成(人助け)」
私の様に高卒低学歴で夢を諦めている人たちを1人でも支援したい。
そんなビジョンを描きました。

しかし、この時すでに34歳。
これから人事の仕事なんてできるのか?
不安しかありません。

なぜ、もっと早く真剣に自分のキャリアを考えなかったのかと、激しく後悔もしました。
当時職場で良くしてくださった(人事部出身の)上司にも正直に相談しました。

言われた答えは。

「無理だよ。大学も行ってないし、専門的な知識も実績も足りなさすぎるよ」
「マジかよ。」

でも、どうしても諦めきれなかったんです。
そんな時、妻が何気なく一冊の本をプレゼントしてくれました。

「もしもウサギにコーチがいたら」

コーチングって仕事があるみたいだよ。
アメリカでは凄く流行っているみたい。この本も貪るようによみました。
得られた感想。

「俺、絶対にコーチングできる(できてる)」

根拠は、社会人になってからも細々と続けていたバスケでのコーチの経験。
とにかくメンバーの話に耳を傾けてチームを纏め上げることに10年近く心血を
注いできたこと。

そのやり取りの全てが本の中にコーチングスキルとして
書かれており、また、仕事においても何かにつけて悩み相談を受けて対応をし、
結果としてチームメンバーを育成できていた事。

34歳の私はどうやって人材育成を仕事にするか、作戦を考えました。
これだけでまた1年。もう35歳です。

当時、SE転職35歳限界説が巷に流れており、迷う事なく下した判断は「転職」。

作戦は。
35歳の人事未経験者はいきなり人事狙いの転職は無理。
人材育成をしていそうな大きな会社にSEとして転職しよう。
そこからどんなに時間がかかってもいいから、人事に成り上がる。
(今、思うとこれも相当なギャンブルでしたが)

◼️社会人(18〜28年目)
ITエンジニア採用の面接官に対し、35歳のオジサンが
「10年後に人材育成のスペシャリストなります」
と、もはや新卒の就活生でもしないような意味不明アピールをしていました。

結果、転職は無事成功。但し当時で年収は120万近く減。
大手とはいえITエンジニア派遣を始めたばかりのベンチャーノリの事業部で派遣で年収1000万稼ごう!という謳い文句ではありましたが、まだまだ成長軌道にも乗っておらず、完全に足元を見られた感じでした。

それでも、覚悟を決めた私は迷いませんでした。
そして正社員型の派遣SEとして、「ヒト問題」で炎上している案件ばかりを希望して配属をしてもらいました。
仕事は得意なコーチングスキルを活かしての配属なのですこぶる順調でした。

年収も請求連動型という仕組みがあり、契約延長やプロジェクト異動する毎に
年収はどんどん上がり、約2年ほどで、転職前の2.5倍ほど稼ぐ様になり社内でもTOP5に入るほどの高給取りになりました。

その後も、ニッチな人材育成系SEとして様々なプロジェクトに参画させていただき、既に人材育成という観点においては周囲の誰よりも上手くこなし、成果を上げ続けていたと言う自負はあります。
そんな中、この10年で起こった出来事です。
これらの出来事のおかげで自分の価値観がより鮮明に磨かれた実感があります。

 ◆転職初日(入社式)
   L 寝たきりだった義母が他界
 ◆転職2年目
   L 父の心臓病と胃癌が発覚、介護と仕事の両立
 ◆転職4年目
   L 現場でのあまりの理不尽な顧客の暴言にて鬱を発症
    2年間メンタルクリニック通院
    ※自分の中で休職するという選択肢はなく、基本的に通常どおり就業
   L なぜ、自分ばかりがこんな不幸な目にあうのかと
    通勤電車へ飛び込みたくなる毎日
   L 2年クリニックに通うが一向に回復せず通院と服薬をやめる
    これで死ぬなら、もうそれでいいや、と決意
   L 結果、開き直ったのが良かったのか、鬱症状消える
    未だに後頭部に円形脱毛のハゲがあります
 ◆転職6年目
   L 父が原因不明の全身癌にて他界。
   L 通勤中に青信号を横断中に車にはねられ、頸椎損傷
    2年間リハビリしながら就業
 ◆転職8年目
   L 勤務中に意識消失。救急車で病院へ。
    過労もあったが、高血圧と糖尿による低血糖での
    ブラックアウトと診断
 ◆転職10年目
   L 社内から人材育成のポジションが空いてるけど、入社当時に
    宣言していた育成はまだやる気があるのか?と上司から声がかかる
   L 「愚問ですね。」と私。何の為にこの10年頑張ってきたと…
 
◼️社会人(29年目〜現在)
転職時の宣言。「10年後に人材育成のスペシャリストになる」
正にそのスペシャリストへの道が、丁度10年で開けた瞬間です。
始めの2年はエンジニア育成担当とはいえ、派遣エンジニアの現場フォローから配属調整とミドルバック業務の基本を徹底的に叩き込まれました。
その中でエンジニアからの悩み相談、キャリア面談や目標設定、評価面談については、新任育成担当とは思えないほどのクオリティで社内のお偉方にも一目置かれる存在に。

当たり前です。
我流とは言え、約20年以上。
その中の10年は顧客からも相応の対価を得つつ、ネイティブなコーチングスキルを活かして「育成」を実践し、結果を残してきたんですから。
そして今は中途採用とキャリア面談、キャリアコーチとして、社内では育成のスペシャリストとしてのポジションを確立する事ができました。
これが、現在までの私の経歴です。

最後に、本題のなぜ「貴心★カリスマ」を名乗るのか?についてですが。

キシンという名前。実はもう一つの意味を持っています。
育成者として、貴い心を持つこと。鬼の様な厳しい心を持つこと。
それで、貴心(鬼心)という名を考えました。
貴心の貴は、本名の一文字でもあります。

人材育成というテーマについて無意識の状態から現在に至るまで。
自惚れ。井の中の蛙。と言われればそれまで。自分でも十分に理解しています。

それでも約20年以上もの間。
私が幼少期から経験した数々の出来事と経験からくる、人としての考え方や育成アプローチは他の誰にも真似することのできない唯一無二の能力をもっていると自負しているからこそ「カリスマ」を名乗る事を決意しました。

故に「プロコーチ」「キャリアカウンセラー」「キャリアコーチ」などとは名乗らずセルフブランディングの一表現として「カリスマ」と名乗らせて頂く事にしています。

ともすれば、傲慢と解釈されても仕方のない表現とはなりますが、決して他のプロコーチ、キャリアカウンセラーの皆さんを誹謗中傷する意図ではない事を何卒ご理解頂ければと思います。

あくまでも、現時点における個人のブランディングとしての表現であり、これからも育成者として、生涯精進し続ける事にはなんら変わりはありません。
「カリスマになるのだ」という私の覚悟とご理解頂ければ幸いです。

今後セルフブランディングがより磨き上げられたあかつきには
「カリスマ」という看板も降ろすかもしれません。

こんな私。貴心★カリスマですが。
これからも末永くお付き合い、ご指導ご鞭撻頂ければ幸甚です。

拙い長文を最後までお読み頂きありがとうございました。
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

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