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昭和下町DIARY(第18話):経済成長のかげで

第十八話  嫁ぐ

 昭和三十一年十一月三日、明治天皇誕生記念
日(明治節)に、結婚の日取りも決まり、私の下宿先の小島さん宅は、大忙しの大賑わい。

小島さんは、私を下宿させてくれた後も、もうお産婆さんの看板を下ろしているのに、妊婦さんの世話や、赤ちゃんの産湯を使わせるためなど、毎日忙しく働いていた。
そしてその他にもいろいろな人の悩みの相談にも乗ってあげ、近所でも評判の人格者だ。

その小島さんが長い間、人の世話をしてきた中、自分の家から花嫁を送り出せるなんて、ほんとに嬉しいと喜んでくれ
「清子さん、何の心配も要らないからね。全部私に任せて頂戴」
と言ってくださり、花嫁衣裳から今日の美容師の先生の手配から、すべて細かいところまでお世話を頂き、その上このよき日、親代わり仲人代わりもしてくれるのだ。

 また、青木家からは結納代わりに、桐たんすとミシンが届けられ、その箪笥に
「清子さん、着物、少しでも多いほうがいいでしょうから」
と和、洋裁、茶、花の先生の宮本さんがご自分の着物を、何枚もそっと入れてくださった。
今まで授業料の一切も受け取らず、私にいろいろなことを教えてくださった恩師である。寒い夜などは、温かい飲み物やお食事などもご馳走になった。縫い物の針が進まない時は、
「清子さんここまで一寸やっておきましたからね」
と、さりげなくお手伝いもしてくれた、心優しい宮本さん。

今日の晴れの日、是非出席をとお願いしてある。
それから用務員の中野のおばさん、私の入署当時から手とり足とりすべて教えてもらい、私が二十歳になった時
「清ちゃんもう二十歳になったんだから、お下げ髪はやめてパーマをかけたら」
といって美容院に連れて行ってくれた。
私が自分のスカートを縫うのに、中野さんの家まで押しかけてミシンを借り、あつかましい事をしてしまったこともある。

ほんとにいろいろお世話になった方達。今日はお赤飯やご馳走をたくさん持ち寄ってくれ、祝いの膳が一段と賑やかになる。中野さんにも同行していただく。

そして私がやはり父親のように慕う金井警部さんが、多くの署員の代表として、お祝いの席に出てくださる。
私のみでなくたくさんの人が、この警部さんを慕う。博学で賢明で庶民的。苦労や難問をものともせず、署長さんの女房役をばっちりこなし、治安維持と三百人の部下をきっちりと見守る。今日は私のお父さんだ。

署員の皆さんのカンパによって,鏡台、針箱、下駄箱などなど心のこもったお祝いの山。

私はなんて幸せ者だろう。
たくさんの、たくさんの方の慈愛によって、こんにちまで生かされ、今日又人生の門出にこんなお祝いを頂いて…
このお返しはこれからの私が幸せになることが、皆さんへの返礼になるのかもしれないと、感謝の念で一杯だった。


やがて花嫁衣裳の着付けも終わり、文金高島田に、目も沁みるほどの真っ白な、綸子の角隠しが巻かれる。
あなたの意志に染まります、あなたの家の家風に染まりますとの、花嫁の心意気をしめすこの瞬間、緊張をおぼえる一瞬であった。

「さあ、姿見の前にどうぞ」と美容師の先生。
まあ、鏡の中には黒の中振袖の裾模様の豪華な衣装を身につけ、金襴緞子の帯も鮮やかな、あでやかで美しい花嫁さんが、鏡を覗きこんでいる。

女の子なら誰しも夢にまでみるこの花嫁姿。
ほんとうにみなさんありがとう。
そしてあの世にいる、お父さんお母さん見て頂戴。この美しい花嫁さんは、あなたの娘の清子なのよ。

心は自分で姿は何か借り物のような、落ち着かない気持ちで、やがて式場である小菅の青木家へ向う。

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 雲ひとつない澄み切った青空のもと、黒光りの二台のハイヤーは、西新井から旧日光街道を千住方面へ軽快に走る。

高砂町五さ路に差し掛かったとき、つと、小島さんはあの汽車ポッポ長屋の店に、私の叔母ナツがいるのを見て
「車を止めてください」
と運転手さんに頼み
「清子さん、叔母さんがいらしたから、ご挨拶しましょう」
と言い、私の手をとって車を降り叔母の前に立った。
勿論後ろの警部さんたちの車も停車し、様子をみていた。
「叔母さん、今日清子さんがお嫁に行く事になりました。この花嫁姿をみてやってください」
すると叔母は、じっと下を向いたまま身動きひとつしない。
人通りの多い道のこと、
「あら、お嫁さんだ、きれいだね」
またたくまに人だかりができる。

私たちは何秒位、何分位立っていただろう。
相も変わらず微動だにしない叔母の態度に、小島さんもやがて諦め
「清子さん、行きましょう」
と車の中。

何たる叔母の情の剛さ。普通人情として、良くも悪くも六年も七年も一緒に暮らした姪が、今花嫁姿で目の前に立っているというのに、私がどんなに憎くても、他人様への義理としてなぜおめでとうの一言が言えないのだろう。
それが情けなく涙が止まらない。

「清子さん悪かった。
私が余計な事をしたばっかりに、清子さんに悲しい思いをさせてしまった。
もう泣かないでお化粧が落ちるから」
小島さんは優しく涙を拭いてくれる。

いいえ、私は小島さんに申し訳なくて、こんな親にも及ばないお世話になっていながら、礼のひとつも言えない叔母が情けなくて。
声にならぬ声で私は小島さんに謝りつづける。

 いよいよ青木家に到着。
家全体が、人でごった返しているといった感じ。十坪ばかりの庭を控え室がわりに、私たちの到着を待っていた多くの親戚の方たちだ。
父方、母方の兄弟が多いと聞いていたから出席の方もたくさんいるのだろう。
でも私の方も引けはとらない。善意と好意の塊のような、小島さん、金井警部、宮本さん、中野さんだ。

庭に面した廊下には、先ほどの花嫁道具がところ狭しと並べられ、白鶴の柄の夜具の隣には、小島さんから贈られた、立派な座布団が十枚も高々と積まれている。


 やがて床の間を背に、新郎新婦が座り、式が始まる。
とにかく私たちは、緊張のしっぱなし。   隣家の萩原さんの可愛い姉弟の、雄蝶雌蝶による三々九度の杯によって、いよいよ私はこの青木の一員になったと実感。
でも私ほんとうにうまくやってゆけるのかしら、親戚だけでもこんな溢れる、人、人、人。一抹の不安もよぎる。

家で行う結婚式も大変なものがあったであろう。
祝膳のものは仕出しにしても、お赤飯を蒸したり、煮物、汁物、配膳、酒類の飲み物から、引き出物とお祝の席のご招待は家族も気を使う。 
ほんとうに家族の人、ご近所の皆さん、この日手伝いにきてくれた私の友だち二人、ほんとにありがとう。


 礼の心もそこそこに、夜中まで続くであろう祝宴の席を抜け、畳四枚が並ぶ自分の部屋で新婚旅行の支度をしていると、
「清子さん着物を着て行きなさい」
と お義母さん
「あの私、帯がよく結べないものですから」
自分で縫った紺のワンピースは軽快で動きがいい。
「旅館の仲居さんに結んでもらいなさい」
有無を言わさぬ圧力を感じた。
私はこれからも、このお姑さんに絶対服従していかなければならない。
それがうまく暮らしていくコツかもしれない。
とっさに私は自分にそう言い聞かせた。
私はこれも自分で縫った、紫地の今の季節にぴったりの白い菊の花をあしらった一越に、やはり手縫いの銀の無地の帯を締めての、二泊三日の箱根湯元の旅行だったが、着慣れぬ着物での旅行は気苦労も多かった。

お義母さんは、夏も冬も着物一辺倒で、いつも襟を抜いての着こなし上手だった。 

あっという間の旅行も終え、家族を前に各々の土産物をひろげ、土産話に花を咲かせ、談笑のうち夜も更けてきたので、私は皆さんにおやすみなさいの挨拶にいったところ、お姑さんの布団を見て驚いた。
せんべい布団とはまさにこのことを指すのだろう。
細い体に畳みの堅さが痛くはないだろうか。
北風の寒さも、もうそこまで来ている。
ましてこの家は、障子と隙間だらけの雨戸だけ、ガラス戸がない分、寒さはよけい身に応えるであろう。あどけない娘は
「雪降った時、この布団の上に雪が積もったの」
「えっ」
私はすぐ自分の部屋へかえり、白鶴の柄のふかふかの布団をお義母さんに敷かせてと一之に頼み込む。



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