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昭和下町DIARY(第12話):戦後

第十二話 警察署へ勤める


私が治子の所から五反野へ帰って、家事を手伝っている頃、叔父の知人(戦時中この四畳半の部屋を貸していたとか。戦災で住宅難は最悪であったろう)西新井警察署経済係りの飯島刑事さんが
「今丁度、西新井警察署で給仕さんを募集しているけれど、清ちゃんどう、署長さんの面接だけでいいんだよ」
とすすめてくれ、私も同意して署長さんに面接、さっそく西新井警察署に勤める事になった。

十六歳のお下げの小さい女の子だった。
幼少の三河島時代、何かいたずらをしたり悪い事をしたりすると、お巡りさんに連れて行かれちゃうからね、など、どこの家の子も親にそう言われながら、育って来た。
そのオッカナイ所だ。
そのオッカナイ警察に勤めるなんて夢にも思わなかった私。

 仕事としては署長さんや大部屋の人たちにお茶を入れるのだが、それが終わると私は影に隠れて、なるべく見つからないように小さくなっている。
「こっちへ来て椅子に座りな」
と言って机を指さす交通係りの人。署長運転手の小野さんだった。

 交番勤務の人たちを入れれば、三百人近い男の人の職場。
圧迫を感じてますます、萎縮してしまう。
受付係のお姉さんは何と私と同じ苗字「澤田」。
みんなから姉妹なの?とよく聞かれたものだ。


そのお姉さんのふく枝さんとは五十年余のお付き合いがいまだに続く。
用務員の中野のおばさん、ほんとうにお世話になった。
何から何までわからない事だらけの教えを、一生懸命自分のものにしようと私も真剣だ。

 その警察署は東武線で、五反野の駅から西新井駅まで二つ目にある。
署長さんや皆が、出勤する前に掃除をすませ、カウンターの隅に置かれている七輪には、前夜宿直の用務員のおじさんが、大きなやかんにお湯を沸かしておいてくれる。

やがて署長さんが出勤、大部屋の署員は一斉に起立して挨拶。それから私は署長さん始め、大部屋の次長警部さんや警務、交通、警邏の人たち四十人ほどのお茶入れをする。

始めは茶碗とその人の顔が一致しないので、お盆からとってもらう。
お湯を使い切って、水の入ったやかんが七輪にかけられた時に、署長さんのお客さんが来ると、急いで急須を持って用務員室へお湯を貰いに駆け込む。

用務員室の火鉢にやかんが湯気を出している時はいいが、そうでなければお湯は貰えない。
会計室・警備室とお湯を貰いに走り、なければ二階まで行ってお湯をもらい歩く。
その頃ポットというものがあったら、どんなに便利で有難かったであろう。


署長室から署長さんは私たちに用があるときはベルで呼ぶ。
ベル一つは警部、二つは警務主任、三つは給仕の私だ。
私を呼ぶ時は、山のような決済の書類が終わった時。各係りから出された書類は、警部から次長警部そして署長室へと運ばれすべて目が通された後、各係りへ戻すのが私の役目。

それから他の部屋の誰かを呼ぶ時も三つのベルが鳴る。呼ばれたその人の部屋めがけて私は走る、走る、要は敏速であらねばならぬ。
毎日何キロぐらい走っただろうか。
その年の暮れ、勤めて間もない私なのにささやかながらボーナスが出た。

「清子の好きな物を買っていい」
と、叔母が言ってくれたので百人一首を買った。
自分のために物を買う、かつての私にはないことだから、その時の嬉しさは、生涯忘れられない喜びであった。
汽車ポッポ長屋の並びの文房具店で、五百円もした高価な百人一首だが、五十余年もたつ今孫たちと坊主めくりなどに興じ、その華やかな貴人たちと、逢う瀬を楽しんでいる。

 翌年勤務して初めてのお正月、父が買っておいてくれた晴れ着を着て出勤。
着物も羽織も柄の花が大きく、綸子が浮き立ち派手なものだが嬉しかった。
帯は桃色の地に大きな蝶が刺繍されている。
その頃新たに採用された、厚生係の宮本さん(後私の先生になってお世話になった人)それに防犯協会の事務員も入り女ばかり四人あでやかに?カメラに収まった。

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このころから写真をよく撮るようになった。
なにしろ鑑識さんが控えている。モデルにも事欠かない?
入署当時、鑑識さんから指紋を採取されたが皆そうするのだそうだ。

お正月に五反野の家でカルタとり大会をやる。
近所のおばさんや子供たちが集まり、賑やかに始まる。
声のいい叔母が読み手だ。
傍にはミカンや菓子などが並び、私も普段から百人一首の上の句、下の句の暗記の練習をしていたので、みんなに負けないくらい札が取れたので嬉しくてしょうがない。
真新しい百人一首のみやびやかな衣装がとてもきれいで、一枚一枚みとれてしまう。

これが私の物だと思うと余計嬉しかった。

だがこの幸せ気分も、いつまでも続かなかった。

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                     (十六歳のころの私)


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