嫌なことは吃音のせい?
吃音症で悩んだ事があれば、誰しも「吃音症がなければ…」と思った事があるはずです。
中学生くらいまでの私は、吃音症であるから不遇な目に遭っていると思っていました。
そして、そう考える度に、吃音症の悩みとしてどんどん重くなっていき抱えきれなくなっているのを感じました。
別のnoteにも書きましたが、他人の悩みってどれくらいあるか聞いたことありますか?若ければ若いほど悩みの数は多いと思います。
私が高校1年生の頃、友人に悩みがどれくらいあるか聞いてみました。
すると驚く程に悩みが出てきました。失礼ですが、一見楽に生きている友人でしたが、恋愛や勉強、部活、身体的などなど数多くの悩みや困りごとを抱えていました。
対して私は、吃音症と、家庭の経済的状況でした。割合的には吃音症が9割を占めていました。当時の悩みのほぼすべてが吃音症だったのです。
友人の悩みを聞いたときに、一見として人は分からないたくさんの悩みがあるんだなと思った半面、自分の悩みの数としての少なさに驚きもしました。
当時の私は吃音症に「執着」していたのです。
三島由紀夫の「金閣寺」の小説の意味がなんとなく分かった瞬間でもありました。
「執着」は視野を狭めます。そのため、本来吃音症が由来ではないことも吃音症が原因だと考えこんでしまう事があることに気が付きました。
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