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会社で一番の問題児

朝の慌ただしい業務が一段落した午前11時半ごろ、彼はようやくオフィスに姿を見せ、乱暴に私の右隣の席に座りながら、荷物を床に投げ出すように置く。いつもながら大幅な遅刻だ。そして、PCの電源を入れるとすぐに机に突っ伏してしまう。誰とも視線を合わせないように。

入社二年目のエンジニアである彼は、会社で一番の問題児。遅刻、居眠りは日常茶飯事。業務パフォーマンスも極めて悪い上に、社内の誰とも会話せず、完全に孤立していた。

座席が私の隣になったのも、責任者の側なら少しはちゃんとするのでは、という管理部門の配慮から。しかし、彼の態度は何一つ変わらなかった。社員は皆、彼の陰口を言うか、無視しているような状態だった。

マネージャーとしては、彼を厳しく指導するところだろう。会社のルールを破り続け、パフォーマンスも出ないのだから、何らかの処分を下すことすら検討すべきかもしれない。マネージャーは、組織全体として高い成果を挙げなければいけない、責任の大きな立場だ。問題児に足を引っ張られ、業績や、他のメンバーにまで影響を出すわけにはいかないのだ。

ただ。

私はどうしても、彼を非難する気にはなれなかった。彼の乱暴な立ち居振る舞いや、これ見よがしな居眠りは、彼の心の悲鳴のように感じられ。やるせなさ、苛立ち、悔しさを精一杯表現しているかのようだった。

何より私は、彼に可能性を感じていた。わざと乱暴に振舞う時以外の彼は、とても合理的な行動をしており、その姿からは高い知性が感じられた。事実、名門大学を優秀な成績で卒業していたのだから、地頭が悪かろうはずもない。何が原因で心を閉ざしてしまったのかは分からないが、もし彼がその態度を改めさえすれば、大きな戦力になるのではないか。その可能性に賭けてみたかった。

そこで私は、少々難度の高いタスクを彼に頼んでみた。それまで周りから無視されていた彼は、驚き、しかし明らかに嬉しそうに、猛烈な勢いでタスクに取り組み始めた。ノートに数式を書き、図を描き、アルゴリズムを組み立て。たやすくそのタスクを終わらせてしまいそうだった。

しかし、現実はそう甘くはなかった。しばらくの奮闘の後、彼は突如としてタスクを投げ出してしまったのだ。

その際に見えた彼の大きな問題点は、コミュニケーション。問題にぶつかった時に、質問も報告もできず、誰にも頼ることができないのだ。これまでずっと、一人で苦しんできてしまったのだろう。結果、折角の知性も活かせないまま、タスクを完了できないことが続き。態度が悪化し、パフォーマンスも同期入社メンバーと大きな差ができてしまったのだ。

これが、典型的な「学生と社会人との違い」だろう。学生の頃は答えのある問題をいかに解くかということで評価されるので、一人で取り組んだり調べたりしても大抵はなんとかなる。しかし、社会人になるとそれが大きく変わる。正解が決まっている問題ばかりではなくなるし、一人では解決できないこともでてくる。同期で助け合ったり、上長に助けを求めたり、外部の人を巻き込んだりといった、要領の良さやコミュニケーションスキルなども大切になる。

誰とも話さない、話せない彼は、社会に出て初めてその壁にぶつかってしまったのだろう。ほんの些細なスキルの欠如で、この社会はどれほど生きづらくなってしまうのか。彼は一年以上もその状態で、苦しみ続けてきたのだ。

それが痛いほど感じられた私は、今度は彼との会話をなるべく増やしてみることにした。彼はよくリンゴを丸かじりしていたので、ある時、リンゴが好きなの? と話しかけてみた。彼は、健康にいいから、と一言返してくれた。好き嫌いじゃなく合理的に行動する、彼らしい答えだった。

またある時は、机に突っ伏して居眠りしていたので、彼が目をさました時に話しかけてみた。「眠いよね。よくわかるよ。でも机に突っ伏して寝ちゃうと、他の人が気づいちゃう。それより、こうやって頬杖ついて、目を閉じていたら、まるで考え事をしているように見えるだろう? こっちの方がいいんじゃないか。」それを聞いて、彼は静かに笑った。彼は何度か頬杖を試した後、やっぱり突っ伏して眠るように戻ってしまったのだけれど。

そんな様子だったから、周りからの彼の評価は何も変わらなかった。陰口か、無視。それでも私が彼に働きかけ続けていたことで、周りは静観の姿勢を取ってくれた。それによって少しは、彼にとっての盾になれていたのではないかと思う。態度も、やや柔らかくなった印象だった。

その後、彼にタスクを頼んだ際は、また壁にぶつかって苦しんでいたものの、私からの問いかけに適切に答えてくれたので手助けをすることができ、彼はタスクを完了することができた。私はしっかりと彼を褒め、彼も嬉しそうにしていた。ようやく、社会人としての第一歩を踏み出せたようで、私もこれまで働きかけを続けてきて良かったと思えた。これからますます良くなって、活躍してくれるようになるのではないか。そんな希望も見えてきた。

しかしそれから程なくして、彼が退職するという連絡があった。しばらく転職活動を続けていたようで、転職先が決まったのだ。私は淋しくはあったが、少し改善しつつあるコミュニケーション力を次の会社でも伸ばしてもらえれば、という気持ちだった。できる限りのことはできたと思ったので、満足する気持ちが大きかった。

彼の最終出社日。退職手続きを終え、荷物をまとめ終え。彼は最後に、オフィスの中をまわってメンバーに挨拶をし始めた。隣の席の私を、避けるように飛ばして。

あれ? と思ったが、まぁ、そんなこともあるだろうと思いなおす。私としては誠心誠意向き合ったつもりだったが、彼にとっては鬱陶しいだけだったのかもしれない。淋しさによる胸の痛みが少し大きくなったが、仕方ない。気持ちは押し付けるものじゃないからね。我慢、我慢。

メンバーと一言二言交わすだけで、あっという間にオフィスを一周してきた彼は席に戻ってきて、荷物を持ち。すぐに立ち去るのかと思ったら、最後に私の前に立った。驚いて立ち上がった私の手を取って、両手で握手をして、深々と、深々と頭を下げた。その握る手の強さを、今でも憶えている。

伝わっていたんだ。

胸の痛みが溢れんばかりに大きくなって、言葉に詰まり。とてもじゃないけど気の利いたことなんて言えなかったけれど。お互いにそれで、十分だったと思う。

マネージャーとして、私の行動が正しかったのかどうかは分からない。甘い、という意見もあるだろう。でも私は、些細なスキルの欠如で生きづらさを抱えている人を切り捨てるような判断は、やはりできない。私が盾になれるなら、盾になろう。支えになれるなら、支えになろう。マネージャーである前に、人として、そうありたい。

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