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2004年 ポルトガルのアレンテージョへ

 2004年6月に、ポルトガルでサッカーの欧州選手権があった。カミさんを口説いて、サッカー観戦を口実に単独でポルトガルに行くことに。ポルトガルは5回目の訪問、この時は初めての独り旅だった。
 サッカー観戦のチケットは事前にネット予約でリスボンの2試合を確保、試合がないときは、アレンテージョ地方の城郭都市をまわってきた。

1 リスボン

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 リスボン到着の翌日、テージョ川に面したコメルシオ広場では、大会関連の催しが行われていた。ポルトガル代表のユニフォームを着た人や、色々な国のサポーターがその周囲で見物していた。 

 テージョ川クルーズの乗り場に行って、時刻を調べてみたが、待ち時間があったし、視程があまりよくなかったのでので、乗るのはあきらめた。
 その夜、ポルトガルとロシアの試合を観戦。開幕戦でギリシアにまさかの敗北を喫したポルトガルが、貴重な1勝を得た。

2 モンサラーシュ(Monsaraz)

 翌日の早いバスでリスボンを離れ、テージョ川を越えてアレンテージョ地方の城郭都市モンサラーシュに向かった。モンサラーシュまでの乗り換えバスの便は朝と夕方しかないので、レゲンゴス・デ・モンサラーシュからはタクシーで行った。途中で写真を撮るために停まってもらったが、ただ単に「停まってください」と言ったので、タクシー運転手は何事が起こったかと狼狽。写真を撮りたいからと言わなかったから驚かせてしまったのだが、そのポルトガル語は準備していなかったのだった。

 石器時代(Megalithic)の遺跡

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 モンサラーシュ遠望

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 モンサラーシュはスペインとの国境近くの高台にあり、レコンキスタの時代からスペインとの戦争の時代も含めて、戦略的に重要な位置にあり、中世に建設された城や病院が今も残っている。城からの眺めはすばらしいものだった。
 村は、1時間もあれば一回りできそうなくらい狭くて、見るべきものも限られていた。
 観光客も2~3組に遭っただけで、たまたま来ていた遠足の生徒たちが去った後は、村の通りを歩いているのは自分だけだった。

画像4 宿の予約をしていなかったので、村のインフォメーションに行って泊まれるところはないかと拙い英語で聞いて、紹介された宿に行った。なんと、その宿の主人はインフォメーションの女性だった。たまたまインフォメーションの当番になっていたらしい。

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 夕方、アレンテージョの平原に沈む夕日を見るために出かけた。
 通りには、昼間は見かけなかったクルマが何台か駐車されていたが、通勤で利用している住人のものなのだろう。

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 夕日は城からもみえたのだが、城と一緒に写そうと場所を探した。良いポイントはなく、城郭の外に出て、少し離れた砦まで行ってしまった。
 

 翌朝、通りをとびかうツバメの鳴き声で目を覚ました。静かに宿を抜け出して、朝日を見に行った。
 城に登って朝日の方角を確認し、北側にある村の門で見ることにした。
 いくつもの湖沼があるあたりから朝日が昇ってきた。地平線近くは丘陵なのか雲なのかよく分からなかったが、丸い赤い太陽が次第に湖沼を光らせていった。
 

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3 ベージャ(Beja)

 宿にタクシーを呼んでもらい、レゲンゴス・デ・モンサラーシュまで行きバスでさらに南下してベージャへ。

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 ベージャはアレンテージョ南部の中心地。歴史的にはPax Juliaという名で登場するとのこと。ローマ時代は植民と農業開発の拠点としていたところだそうな。
 とりあえず城に行ってみた。塔の上からはアレンテージョの眺めがよかったが、その日は風が強かった。さらに観光客はほとんど居なくて、塔の暗い階段を独りで上るのは少し怖かった。

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 観光パンフに郊外のローマ時代の村の遺跡の住居跡のモザイク画の写真があったのでタクシーで行ってみた。

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4 メルトラ(Mertola)

 ベージャからメルトラまで移動する日の午前中に、タクシーで東に30kmはなれたところにあるセルパという城郭都市に行ってみた。
 タクシーの運転手さんも一緒に城まで行ってくれた。駐車場からの城までの道はわかりにくくて、住民に聞きながら行ったので一緒で助かった。
 セルパの城の入り口は、城壁の割れ目の上に、壊れた別の城壁が上に載っているという、不思議な恰好をしていた。

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 城に併設の博物館は昼の休館時間にあたっていて入館できなかった。塔にのぼり城壁の通路を少し歩いてみた。町が一望でき、西にはアレンテージョの平原が広がっていた。

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 メルトラまで、再びバスで移動。

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 ベージャからさらに南に約50kmのところにメルトラという村があった。グアディアナ川のほとりにあるこの村は、ムーア人やローマ帝国が進入する以前からもフェニキア人などもやってきていたそうで、その歴史的背景から、最近になって考古学的資産を観光に役立てようとしているらしい。
 ロンリープラネットの記事を読んで、メルトラに行ってみたいと思い、宿をネットで見つけてEメールで予約しておいた。
 宿は川沿いの岸の上にあり、部屋からは川を眺めることができた。もっとも、昼間は陽射しが強烈で厚いカーテンの隙間から覗き見るだけだったが。

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 村には城があり、その塔は村の通りからも見ることができた。
 城からの360度の眺めも素晴らしかった。城壁には何種類かの鳥がさえずっていた。

 対岸まで歩いて行ってみた。オリエンテーリングの生徒たちが、走ったり歩いたりしているのに会った。私を見て「ありがとう」と言ってからかったのは、日本人と分かったからなのだろうか。「こんにちは」と言っておいた。

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 ローマ時代の家の遺跡など、いくつかの観光施設に行ってみた。役場らしいところの地下にある遺跡は撮影禁止だった。

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 夕方、カヌーを借りて、川で1時間ほど遊んでみた。川からの眺めも良かった。
 午前中はオリエンテーリングの生徒たちが、カヌーで川の中の岩にあるポストに向かって漕いでいたのだが、陽射しの強い昼間は川には誰もいなかった。少ししのぎやすくなった夕方には、今度は生徒たちでなく若者たちが、何隻かカヌーやボートを出して練習していた。

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 翌日、直通バスで再びリスボンに戻った。
 ベージャまでは来たときと同じ道を戻り、ベージャからは西に向かった。途中、それまでの道路よりは比較的多くひまわり畑を見かけた。
 バスはポルトガルを南北に走る幹線道路に出て北上し、ポルトガル第4の都市セトゥーバルを経由して4月25日橋を渡ってリスボンに入った。
 途中でドイツの旗をなびかせた車が何台か追い越していった。その日はリスボンでチェコとドイツの試合があり、私もその試合を見る予定にしていた。

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5 再びリスボン

 リスボンではチェコ対ドイツの試合と、翌日のポルトガル対イングランドの準々決勝をスタジアムで観戦した。すでに準々決勝進出を決めて主力を温存したチェコに、ドイツはまさかの敗退。チェコの真っ赤なサポーターの応援は強烈で、彼らが飛び跳ねるたびに観客席が揺れた。

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 翌日のポルトガル対イングランドの試合は、エキサイティングなものだった。開始直後にイングランドが先制したものの、ポルトガルも途中交代の選手の得点で追いつき、90分で決着がつかず、延長戦にもつれこんだ。延長戦後半にポルトガルが得点したときは決まったかと思ったが、イングランドが同点に追いついた。シュートが何本も打たれたエキサイティングな試合だった。
 PK戦のイングランドの一番手はベッカムだったが、大きくバーの上に蹴ってしまった。だが、ポルトガルも、おつきあいするようにルイ・コスタが枠外へ飛ばしてしまった。
 ポルトガルのゴールキーパーが相手の7人目のシュートを左に飛んでセーブした後に、自らPKを左隅に豪快に決めて決着した。ポルトガル・サポーターは大喜び。歓声がスタジアムに渦巻いた。

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 スタジアムから出るときに、時々「ポルトゥガゥ」コールが起こっていた。
 ホテル近くのメトロの駅から出ると、目抜き通りはすでにクラクションを鳴らし、窓から身体を乗り出して国旗やタオルマフラーを振りかざすサポーターの車列が続いていた。歩道からも、声援が飛んでいた。

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 翌日、市内を散歩した。アウグスタ通りで、アコーディオンを弾く少年を見た。小さな可愛い犬に小銭入れのカゴをくわえさせて物乞いをしていた。

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 サンタ・ジュスタのエレベータの近くの売店では、昨夜のポルトガルの勝利を報じる新聞を見ている人がいた。

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 その日のリスボンでの準々決勝はTVで見たが、フランスがキリシャに敗れた。決勝はポルトガル対フランスと思っていたので、がっかり…

 帰国する日の午前中は少し時間があったので、市内を散策したり、NHKの番組で紹介していたグルベンキアン美術館に行ったりして時間を潰した。

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おしまい

(noteを始めてみました。昔の旅行記みたいなもののテスト投稿です)

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