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外大駅伝部まるっと図鑑 9区


1年生 佐藤桜子
"負けず嫌い"が育んだもの


陸上競技との出会い、1番へのこだわり
日本人のお父さんとフィリピン人のお母さんをもつ佐藤桜子さん。フィリピン生まれの日本育ちで、小学生の頃までフィリピンと日本を行き来していたため幼い頃から英語と触れ合いながら育ちました。
小学2年生の時から熊本県で暮らし、小学校高学年の時に学校の部活としてバスケを始め、バスケ少女だった桜子さん。バスケの練習でランニングが他の子よりも速かったことと、お兄さんの同級生からの勧誘で中学校の部活動では陸上部に入りました。部員が少ないチームだったのですが、持ち前の負けず嫌いを生かし、同級生と競い合って記録を伸ばしました。当時は意地っ張りで、練習に行くのも1番になりたいと早く学校に行くほど、何でも1番になりたい性格だったそう。そんな性格と努力があって、1、2年生と県の駅伝大会でアンカーを務めましたが、惜しくも全国大会出場はできませんでした。3年生の時には2区を務め、区間新まであと6秒の区間2位という結果でしたが、悔いは無く中学校での陸上競技生活を終えることが出来ました。


苦しい3年間が経験値に
高校は、県外である福岡県の北九州市立高校で寮生活をしながら陸上競技に打ち込みました。県外に出たきっかけは、中学生の時の憧れの先輩が北九州市立高校に通っていたことと寮生活に興味があったからでした。しかし、慣れない故郷を離れた生活でホームシックになった上に、練習量も急激に増え、1年生の時が1番大変だったそうです。さらに、怪我の連続や新型コロナウイルスの影響で試合に出られることも少なく、苦しい3年間でした。高校生の時も負けず嫌いな心は持ち続け、走れている時も故障をしている時も練習量1番を目指していたそう。1年生の時には、故障しつつもレースの様子を頭でイメージしながらエアロバイクを2時間こぎ続け、バイクの足をかける部品を何度も壊しては直すのを繰り返すほど練習に取り組んでいました。そのおかげで怪我をしていても心肺機能が落ちることはなく、1年生時にメンバー入りもできました。惜しくも怪我で駅伝は走れませんでしたが、その先の怪我においてもこの経験が生かされ、粘り強く練習に取り組めたそうです。怪我ばかりの高校生活の中、監督の荻原先生との面談で幼い頃からの夢であるキャビンアテンダントについて話すと、大阪府の関西外国語大学を紹介されます。そして、高校2年生の時にギリギリ走れる状態ながらも関西外大へ見学に行き、好きな陸上競技を続けながらキャビンアテンダントという夢を目指すことを決意しました。


これからも夢を追い続ける
大学進学を機に今年の春から大阪府での生活を始めた桜子さん。これまでの生活とは大きく違い、とても自由で賑やかな寮生活の中楽しく生活しています。桜子さんがキャビンアテンダントを目指すようになったきっかけは、小学校4年生の時にフィリピンと日本を行き来する際に出会ったANAのキャビンアテンダントに一目惚れしたからで、約10年間キャビンアテンダントになるという夢を追い続けています。大学での目標は、長距離選手らしい走り方でチームに貢献にすることと、中国語を含めた外国語の勉強に励み、頼もしく憧れられるANAのキャビンアテンダントになることだそう。「一目惚れしたのがANAの方だったから私も必ずANAのキャビンアテンダントになりたい!」と言うほど、ANAのキャビンアテンダントになりたいというこだわりと意志の強さが感じられました。
まだまだ始まったばかりの大学生活。持ち前の負けず嫌いと努力家の性格を生かした陸上競技生活と彼女の夢を追う姿に今後も期待です!



取材後記 (4年 細江美玖)
幼い頃どんな子だった?と尋ねると、「幼い頃からとにかく負けず嫌いだった」という彼女の言葉を聞き、話をさらに深掘りしていくと、夢に向かってひたすらに努力し情熱を注げられる人なのだなと感じました。周りの子に負けたくない、勝ちたいという気持ちが彼女をここまで強くしてきたのでしょうし、小学生の頃に見つけたキャビンアテンダントという夢を今でも持ち続けているその姿は、他の人には滅多にない彼女だけの特徴であり、長所だと思います。だからこそ、これからの彼女の活躍に期待できますし、これからも彼女の目標や夢を応援したいなと強く思いました。


最後までご覧頂きありがとうございました!
次は10区の佐藤桜子に繋ぎます!

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