見出し画像

#七 1年前の日記と1年越しの#PrayForKyoani

一学期の終業式を間近に控え、みながどこか浮き足立っていた夏の日のことである。その日の昼休み、何となしにスマホを開いてみると目を疑うようなニュースが飛び込んできた。

『京都アニメーションで火災』

最初こそ驚いたものの、冷静に考えて「ま、ボヤ騒ぎくらいどこの会社でもあるよな」と結論付けてスマホを閉じた。

僕がその詳細を知ったのは午後4時半頃、部活の少し前の時間であった。やはり京アニで火災ともなれば、ボヤだろうと思いつつも気になるものである。
そして徐にスマホを開いたわけだが、あの時の僕に「せめて今だけは見るな、お前のただでさえ少ない集中力がブラジル辺りに飛んでってしまうぞ」とでも言ってやりたいね。
悲しいことに犠牲者が確認されたこと、火災が人為的なものであり、既に犯人は捕まえられているのをこの時初めて知った。
昨日まで楽しく吹いていた金管楽器も、なんだか吹いている心地がしなかった。この日は野球応援の練習だったこと、そしてやはりどこか上の空だったようで先輩に注意されたことを覚えている。

帰宅後、飯も食わずにNHKのデータ放送とTwitterにひたすら顔を落とす僕。「どうかこれ以上は...」と願うも、無慈悲に次々と犠牲者は増えていくばかり...。とても耐えられるものではなかった。
「地上波で京アニ作品が流れてる、こんなに嬉しいことはないじゃないか!」と、無理矢理にでも冗談めかして希望を持ち続けたのが僕の精一杯の頑張りだ。

ニュースを観た父が「け↓いおんとかこおりがしの会社やって、お前観よらんだか?」と方言混じりに尋ねてきた。これが京アニの映画が賞を取ったとか、喜ばしいニュースなら「発音が違うでー」とか、「タイトル間違えとるやん」とでも反応してやれたのだが。
ただ「...うん」と、至極簡潔に答えてやることしか出来なかった。

...あの日のことを初めてまともに文にしてみたが、色々思い出すものがあって辛いな。というか「今までのやつ全部前フリだったのかよ」と顔をしかめる読者の姿が目に浮かぶ。申し訳ないが、本題はここからである。

今現在、僕はあの火災を起こした犯人に同情の余地などないし、もう裁判なんかやんなくていいからさっさと極刑に処せばいいのに、とさえ思っている。
反面、きちんと法廷の場でそのあらましを説明すること、償い切れるはずもないが一生を罪滅ぼしに費やすことを求めている僕もおり、どうにももどかしい。

思えば僕の足掛け4年に及ぶアニメ人生には、常に京アニが見え隠れしていた気がする。
例えば人生で初めて読んだラノベ「涼宮ハルヒの憂鬱」。
原作を全巻集めるぐらいに大好きなシュールギャグ漫画「日常」。
最近観た作品なら、こんなにも人を感動させるアニメがあるのか、と感銘を受けた「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」。
...と、長くなるため敢えて挙げないが、その他数作。

これらの作品を手がけたスタッフ達も、あの火災で帰らぬ人となった。中には入社して間もない駆け出しのアニメーターさんもいたという。きっとこの先、世界にもスタッフロールという舞台を借りてその名を轟かせるはずだったろうに。
性格も声も顔も知らず、唯一知ってるのはアニメのスタッフロールで目にしたことのある名前だけ。しかし何故か親近感すら感じられるスタッフ達が犠牲となったのが悲しかった。本当に、名前以外はなんにも知らないのに_。
それに、亡くなったスタッフ達にも帰る家、迎えてくれる家庭があったに違いない。何の前触れも無く。どこの誰とも知れない男の手により。家族が帰らぬ人となったときの気持ちなど、僕は想像もしたくない。

このように、遺族のみならず多くの京アニファンに辛い思いをさせたあの放火犯を許せる理由などあろうはずもない。さしたる根拠もなく世論に乗っかり「放火犯許すまじ」などとのたまっているわけではないのだ。

あの火災以降、少なくとも僕の中では命に対する見方が変わったように思う。繰り返し書いて申し訳ないが、あのニュースを聞いたときは本当に悲しかった。
この駄文の執筆を開始した7月6日現在、明日は七夕である。「笹の葉ラプソディ」の発表から16年の節目を迎え、そろそろ16光年離れた彦星様のところにハルヒたちの願いが届く頃だろう。
最後になりますが、犠牲となった36人のスタッフ達の冥福、及び京アニの今後の更なる飛躍と復興をお祈り致します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?