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富裕層向けメディア J PRIMEにて ファット ラヴァ紹介

ドイツの陶器に革命をもたらした「ファット ラヴァ」の花器
明日を変えるうつわの話 vol.11
J PRIME編集部
著者
J PRIME×マガジンハウス
ドイツの陶器に革命をもたらした 「ファット ラヴァ」の花器

うつわはおもに料理のためのものですが、作家が作るそれには暮らし方や社会の捉え方まで変えてくれるほどの思想があります。それを知ることはアートに心動かされる感覚ともよく似ていて、かかわることで自分の中の何かが変わるような体験。そんなうつわの「名作」をたどる連載の第11話は、舞台をドイツに移し、50年代に西ドイツの陶器産業を変化させたスタイル「ファット ラヴァ」を紹介します。

独創的な装飾誕生の息吹はバウハウスにあり
「ファット ラヴァ」とは、1960〜70年代の西ドイツで制作され爆発的にヒットしたという陶器のスタイル。形状は主に花器です。最近、日本でもヴィンテージ店やライフスタイルショップで取り扱われ、インパクトある質感とレトロな色使いにはまる人が続出。人気の秘密は、「ファット ラヴァ」という奇抜な名前の由来をたどると見えてきます。

「ファット ラヴァ」は、英語で「肥えた(fat)溶岩(lava)」の意味。このスタイルの陶器に使われた釉薬が、高温でドロリと流れる溶岩のような表情、あるいは、溶岩が冷えて固まり、ゴツゴツとした気泡の跡を残す溶岩石のようなテクスチャーのものが多かったことから名づけられました。2006年にイギリスで大規模な展示会が開かれたのを機に、専門家のマーク・ヒルが書籍を出版し(*1)、歴史的背景が知られるようになったことも人気に拍車をかけました。その本によると、第二次世界大戦後の1950年代、老舗、新生にかかわらず西ドイツの陶器メーカーや窯元でこれらの「肥えた」装飾が生まれた背景には、戦後の経済発展で工業化が進む中、手仕事の伝統を見直していこうという動きがあったといいます。

戦後のドイツ人が求めたもの
第二次世界大戦後、敗戦国ドイツはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分かれます。ナチスドイツの終焉、東西ドイツの分断という混乱を経て、人々は静かな生活を望んでいました。「外面の現実よりも、内面の豊かな文化と教養が重視される時代」(*2)の中で、第一次世界大戦以前にさかのぼった、のんびりとした生活様式への懐古の念が広まったといいます。陶器業界では1920年代にバウハウスで陶芸を教え、歴史や伝統を重んじたゲルハルト・マルクスの理念が見直されました。

バウハウスはヴァイマル共和国時代のドイツで1919年に設立された美術学校。工芸、写真、デザインなど、美術と建築に関する総合的な教育を行いました。「ファット ラヴァ」のデザインが影響を受けたゲルハルト・マルクスは、陶芸学科長(*3)でした。

ルシャ「313]
ルシャ「313](正面)
1905年創立という長い歴史を持つルシャ社で1954年にデザインされた「313」シリーズは、この時代の西ドイツの陶器の中で最も有名なフォルム。初期のものは手作業で組み立てられているがのちに機械生産に。型成形による精密な工業技術にほれぼれする。

手仕事の芸術性は工業生産のブレインとなる
創成期のバウハウスでは、人の手によるもの作りは「工業生産のための規格を作り出す」(*3)という考えのもと、技術に卓越した職人と芸術家という二人の指導者により、工作教育が行われました。こうした教育方針には、バウハウスより少し前の1905年に設立されたプロイセン産業局の影響がありました。

プロイセン産業局は、ドイツからイギリスに渡り、アーツアンドクラフツ運動に代表される生活改良運動を経験した建築家ヘルマン・ムテジウスが教育行政の職に就き設立した美術学校。手仕事の技術が工業に取って変わられる中で、良い製品を作るためには、技術に卓越した職人が機械を操り、芸術家と協力していくことが不可欠だという理念を持っていました。機能ばかりが重視され芸術性を欠いたものばかりの世の中にならないよう、工業と美術の相互作用を訴え、それを実践する場所を整えていくことは、当時ヨーロッパ各国で課題でした。ドイツではその課題に行政が教育を通して取り組んだのです。

工業生産か、手仕事か、ではなく、工業は手段であり、手仕事はそのブレインとして共存していく。そうした風潮の中でバウハウスも生まれたのでしょう。1925年になるとバウハウスは校舎を移転して方針を変え、工業生産技術の育成にシフトしたため陶芸学科は廃止されてしまいますが、工業と手仕事を融合した陶器生産は、懐古主義の1950年代になって「ファット ラヴァ」として開花します。

ルシャ「ヴォルケーノ」
溶岩のような釉薬の研究が行われるきっかけとなったルシャ社の釉薬「ヴォルケーノ」。真紅の落ち着きがあってインテリアとしておすすめだ。


ファット ラヴァの誕生
1950年代の西ドイツでは、戦後最大の好景気が訪れ、陶器メーカーや工房はどこも従業員を増員。デザインが決まると工業的なプロセスで製造し、その後、デコレーターと呼ばれるチームが手作業で釉薬を塗っていったそう。釉薬が溶けることでできる流れや模様、発色は、窯の中での変化にまかせるため、ひとつひとつ表情の異なるものが生まれる。文字通り、工業技術と人によるデザインのタッグで「ファット ラヴァ」は量産されていくのです。

業界を牽引したのは、ボンとフランクフルトの間にあるランスバッハ=バウムバッハ市のメーカー、ベイ・ケラミック社をはじめ、ルシャ社、シューリッヒ社など20社以上。それぞれに作風が異なりますが、なかでも「ファット ラヴァ」のターニングポイントとされるのが、1959年にルシャ社が開発したヴォルケーノ(火山の意)という釉薬です。それまでは、カラフルな色分けなどに焦点を絞る作り方が多かったのに対し、ヴォルケーノを機に、溶ける、止まる、熱により不揃いに発色するといった釉薬の性質そのものを研究し、陶器の意匠に変える試みが始まりました。溶岩のようなどろりとした流れやゴツゴツとした手触りの商品が各メーカーで加速的に作られます。

シューリッヒのうつわ
同一の型にさまざまな装飾パターンを施すシューリッヒ社。当時ドイツ最大の陶器で幅広い品揃えが可能であった。

現代のインテリアに「ファット ラヴァ」を
溶岩風の釉薬以外だけでなく、スタイリッシュな配色にも驚かされる「ファット ラヴァ」の花器。見たことのない装飾の上質なヴィンテージ品がまだまだ発掘されるに違いありません。実際に手にとってみて驚くのは、見た目よりもずっと軽いということと、同一の型で釉薬のバリエーションがとにかく多いこと。機械によって正確に作られた素地をベースに、人の手でひとつひとつ釉薬を塗るからこそできるもの作りです。80年代に工業的なデザインが世の中を席巻するまで盛んに作られた「ファット ラヴァ」は、工業と芸術がそれぞれの役割をまっとうしながら結びつき、ものが生まれていた時代の貴重なアーカイブです。

オットー・ケラミックのうつわ(上面)
オットー・ケラミックのうつわ(正面)
ルシャ社でヴォルケーノ釉薬を考案したプロダクトディレクター、オットー・ゲルハルツが1964年に設立したオットー・ケラミック社は、写真のようなムラのある釉薬も溶岩釉も使い方がどのメーカーよりもモダンでおすすめ。

*1 「FAT LAVA West German Ceramics of 1960s-70s Japanese Edition」Mark Hill著 kiis 発行(2021)
*2 「戦後ドイツ−その知的歴史−」三島憲一著 岩波新書(1991)
*3 「ヴァイマルの国立バウハウス1919-1923」中央公論美術出版(2009)

衣奈彩子 うつわライター/編集者
(プロフィール)
女性誌編集部を経て2005年独立、子育てをきっかけに家族のおいしい食卓に欠かせないうつわにはまる。なかでも同世代の作家が想いを込めたふだん使いのうつわが気になって仕方がなく、仕事とプライベートの垣根なく作り手と交流し取材を重ねる。うつわを中心に手仕事や暮らしにまつわるテーマで執筆の傍ら、作り手の思いを伝える書籍の編集にも携わる。著書に『うつわディクショナリー』(CCCメディアハウス)、編著に『料理好きのうつわと片づけ』(河出書房新社)
https://www.instagram.com/enasaiko/

撮影/白石和弘 http://shiraishikazuhiro.com/

企画編集/横山直美(cat)


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