Creation.1&2
1.ソルティー作
お金さえあれば自分たちは生きていける。必要なものはいつでも購入でき、特に日本ではコンビニという存在がいるため何不自由を感じることもない。本当だろうか?お金さえあれば自分たちは本当に生きていけるだろうか?僕たちは「安心」をお金で買うことはできない。友人をお金で買うことはできない。知らずのうちに僕らは人とコミュニケーションをとって、互いに心地の良い距離感を図る。それは決してお金のような等価交換のシステムでは完結しない、とても人間的な営みであるのだと思う。
また一人では決して生きていけないのだろうな、ということも。モザンビークではあらゆるものがシンプルで、近い。道端で購入できるピーナツ、道を歩けばその袋詰めをしているおばちゃんに出会う。自力で棚を修理している人、服を仕立てている人なんかにもすぐ出会うことができる。もちろん農業も、そしてみんな料理をする。これらは日本での自分の生活からは「距離」があった存在たちだ。お金を払うことでまるでこれらのプロセスはなかったかのようにされてしまう。ただ商品という形で自分たちはそれにだけ光を当て、それを楽しむ。が、お金があってもなくても、それらのプロセスに関わる人や物、自然がなければそもそも僕らはそれを手にすることも目にすることもできない。当たり前ではあるが、今はむしろ「独立」して生きることができる気がする、そんな感覚の方が当たり前になってしまっていないだろうか。きっとそれは当たり前でもなんでもない、「できない」のだ。知らずのうちに僕らはシンプルに、そして複雑に絡まりあっている。独立しているように見えて、互いに支えあって生きているのだ。モザンビークに生きる人々の姿はそれを教えてくれたかのようである。
2.ポンティン作
新しい場所へ行くとき、見知らぬ地域を歩くとき、馴染みのない集合地点に向かうとき、僕はワクワクし、ドキドキし、そして何よりも不安になる。「迷う」行為にかけては他の誰にも引けはとらない。方向音痴かと問われれば、「そうでもない」。ただただ独りよがりに歩いてしまうのだ。そんな我儘男の強い味方がgoogle map.どこにいても自分がどこにいて、どの方向を向いているのかさえ示してくれる。この間、趣味のカフェ巡りをしていたとき、目星をつけていたところまでスマホとにらめっこ。十歩歩いてはスマホで位置確認。十歩進んで位置をなぞる。スマホの表示した徒歩時間より五分も喰ってしまった。何とかたどり着いたスタンドバースタイルのカフェ。表のベンチに腰掛けてホットカフェラテをすする夕方18時が香り深く、ミルキーなひとときだった。帰り道は元きた道を!と思うけど、やっぱり不安でスマホを手元に控えさせる。所要時間通り最初の駅には戻れたけれども、その間の道のりの景色は何一つ思い出せない。きっと再び来ても、またスマホに頼ってしまうのだろうな。
道に迷えばいらいらするし、誰かと待ち合わせていたら遅れたくはない。
だけど、近道を選んだあげく、見れなくなってしまった世界、失われたひとときがきっとあるんだ。何てことない小道のアリ、石ころ、草花、たんぽぽ、洗たくもん、水たまり。みんな僕のことを待ちかまえていた。僕は全然目もくれず眉にシワ寄せて早歩き。あのカフェラテをどれだけ美味しく飲めていたのかな、本当は。
回想
な、なつかしい。
7月の駆け出し期のポエムです。
なんなら人によってはポエムとは呼べないのかもしれない。
だけど、いいんです。
つくること。かくこと。
どんなにチープだっていい。
「つくりましょうよ。人間だもの。」c(_ _` )/←DABポーズ