感情的なこと

最近、ごく個人的なことで他人に対して怒ったり、感情を制御できなくなったりしています。

3年半前に書いた脚本に
怒りという感情は、気力も体力もものすごく使う感情だから、どうでもいい相手に向けるのはもったいない。ひるがえって、怒りを向ける、向けられるということは相手が自分にとって重要であるということだ。

というようなことを書きました。
これは、当時サークルで思っていたことをメッセージとして込めたものでしたが、今の自分にひどく効くカウンターパンチだなぁと思います。

ふとこのことを演劇に重ねてみると
感情的なシーンやセリフを、出力に頼って演技したくないなと、つくづく思います。
個人的には、怒りが体を巡っても、怒鳴ったり、出力を上げるまでに少し猶予時間があるんですが
どうしようもなくなって爆発することもあります。今はそれなわけですが

気力も体力もいるし
相手への期待が怒りや悲しみに繋がるわけですから、やはり感情の吐露にはものすごくストレスが付きまとうわけです。
相手に言葉を投げることへのストレスが先なのか、言葉を発すること自体へのストレスなのか、内圧的なストレスなのか、外圧的なストレスなのか

考えれば考えるほど、怒鳴ったり大きな声で感情的になるのは、一線を越えた最終手段なんだと思います。

いてもたってもいられない
という言葉を体感したのも初めてで、本当に体を止めてられないんだな、と驚きました。

ところで、感情が高ぶっても、相手に伝えたり、体が動いたりするまでにももう1つプロセスがあるように感じます。

前述した脚本に、また別のくだりがあります。

結果とは、考えた先にあるのか、行動したその先にあるのか。と少年少女が言い合うシーンです。
行動を起こさないと結果はないと言う少女に対して、でも考えないと行動には至らないと反論する少年。

僕の結論としては、どちらか片方では結果には至らず、考えた上で行動して初めて結果にたどり着く。という感じです。


なにかきっかけや感情の高ぶりがあっても、なにか行動に反映される前に、無意識でも意識的でも、思考があると僕は思います。
そこを度外視したくないな、と、日常でも演劇でも思います。

会話劇では、それを欠いてしまうとたちどころに算段が筒抜けになって、嘘になってしまいます。
エンタメでは、しばしば省略したり、無視したり、はたまた凝縮することがありますが、何故そうするのか、何を優先して何を捨て置くのか、考える必要があるように思います。
これは役者しかり、脚本や演出しかり。

僕はこれについてきちんと役者と共通認識を持ちながら進めていきたいと、演出する側としては思います。
相手が誰であれ、関係性がどうであれ、そのコミュニケーションを欠いてしまったら、もう板に乗せる前から嘘っぱちになってしまいます。
というかそれなんの時間なんですか?ってなってしまうと思うので。
稽古って形を作る時間なの?違うと思う。
そうかもしれないけど1番はそれじゃないと思う。もしそうならいつか稽古なんてなくなると思う。

スタジオミュージシャンみたいな、そういう活動になっていくと思う。
スタジオミュージシャンよりはライブミュージシャンでいたいし、エンタメよりは会話劇でいたい。嘘より本当でいたいし、感情は1人では成立しないと自覚して生きたい。

ネガティブな感情は本当に消えにくい。