法治国家とはそういうこと

新型ウイルスの影響は広範囲に広がってしまっているのですが、
前回は、学校と塾の違いを考えました。

資格を持っているのは、経済活動を行うのにはずいぶん有利で、
同じことをやっていても、資格ありと資格なしでは給与も違うでしょう。

この「資格」というあり方はなかなか興味深くて、
資格を持っている人が優遇されるというか、重宝されるというか、
そうなるのも、日本が法治国家だからなのでしょうか。

例えば、今や、薬はコンビニでも売ることができるになりましたが、
指定販売者がいないと、特定の薬を売ることができなかったりします。

だいたいは、その人の説明なんか聞いていません。もう知っています。
でも、その人から買わないといけないのです。

予防注射を打つとき、そこには医者がいないといけません。
でも、だいたいの場合、注射を打つのはその医者ではありません。

じゃあ、その指定販売者も、医者も必要ないじゃないかと。
そういうことになるのかといえば、そうはなりません。

その人がいること自体に意味があるのです。

国会では、密集状態を避けようということで、
本会議への出席者数を減らして、採決の時だけ出てきてもらう、
そのような対策を採っていくことになったそうです。

本会議ではほとんど議論が行われていません。
そんなこといったら、委員会も議論が行われているとは言えません。

国会でも質問のほとんどは事前に相手側に通告されており、
その答えも、予想されたものが返ってくるだけで、
そうやって、言質取りをしているのが委員会です。

議会の運営は、事前に各党の国対委員長の間で話し合われ、
その合意に基づいて国会の審議日程は作られます。

日本では党議拘束が強く、
各議員は党の方針に従って採決の際に賛成や反対をします。

なので、いつ法律が成立するのか、予算が通るのか、
すべて事前にわかるのです。

本会議や委員会はすべて儀式です。セレモニーです。

だから、本会議で出席人数を減らしても何の不都合もありません。
委員会だってそうです。党の代表者だけで成り立ちます。

じゃあ、国会議員を減らせばいいのか。みんなクビでいいのか。
そうではないですよね。

各選挙区で選ばれた議員だからこそ、そこにいる意味はあって、
その人たちが手を挙げるからこそ意味があるのです。

「実を取る」のであれば、
何の知識もない人間を国会に置いておく意味はないのです。

そこには「選ばれた」という事実があることが重要なのです。

その「選ばれているから」「資格があるから」というのは、
中身が保証されているわけではないですよね。

でも、そう決まっているから、そうする必要がある。
それがまさに法治国家というものですよね。

学校だって、実際に具体的な知識が得られるかは置いておいて、
教員免許という資格を持った人が、
文科省の決めた内容に則って、ある程度の時間指導する、
それをクリアすれば単位や卒業が認定されるのです。

なんだか無意味なことをやっているようにも感じられますが、
こうすることがある意味では合理的なのでしょう。

社会というのはなかなか複雑なものですね。