キーボードが生活に何を与えるか

アウトプットとしての文房具


日々、デスクワークの中にキーボードとマウスの存在は無意識下にある。
会社から支給された規格品の備品を使うから、意識が向かないのだ。

それらの道具の使いにくさは仕事のストレスの中に内包され、表面化しづらい側面がある。
表面化しないのはアウトプットとしての道具にすぎないからである。
業務を処理することがメインであり、そのための道具の良し悪しについては考えるリソースを持たないのだ。

無意識化にある使いづらさは道具を変えた時に表面化する。
キーボードの使いづらさを表面化されたとき、より良い道具を求めると「沼」にはまる。次はそのより良い道具で仕事を求め始める。手段と目的が逆転する。


道具としてみたときのキーボード

文房具の世界は広く筆記具でも、毛筆から万年筆、えんぴつ、ボールペンまで幅広くあり歴史も長い。より良い道具を求め、手軽さや耐久性を絶えずアップデートし現代に存在する。しかしそれぞれが淘汰されずに現存するのは、やはり目的に沿ったアップデートが行われた結果であろう。

キーボードはいかがか。
職場の備品として支給されたキーボードにはマニアを満足させる要素はないが、ほとんどのオフィスワーカーは不満を言うことなく使う。
「こういうもんだ」とストレスを内包しているからだ。
しかしオフィスワーカーが使う文房具ではそうならず、ボールペンでも好みが表れる。
キーボードに選択肢があると考えないが、文房具には選択肢があるからだ。

道具として見たときにキーボードは多様な種類が存在することに気付く。これまで備品のキーボードは良い道具ではなかったことに気付き、それでこだわらない人はいるが、より良いものを求めたくなる人もいるだろう。
ただのアウトプットの道具に過ぎないが、筆記具と同じような多様で奥深い世界が広がっていることに徐々に気付くはずだ。

キーボードの奥深き世界

外形、文字配列、構造と多様な種類が展開されている様はまさにカンブリア爆発のような進化である。
2年で見違える進化があり、昨今のスマホの進化のようである。
これまでキーボードはコストと量産性を意識した構造であることが多かった。それはPCの需要に応えられるように、あくまで消耗品であり交換が安価で手軽に行えるようにするためだ。
つまりただのアウトプットのための安いえんぴつと同じで、こだわりはコストと生産効率性のみであった。

そのような中で耐久性にこだわりを見出した製品が登場する。
業務としての信頼性の確保、不特定多数が使用する場面で壊れないことを意識された入力装置はキーボードにも展開され、品質の良さからファンを生み出し、マニアがより良いものを求め始めた。
一例としてはリアルフォースがある。耐久性の高さは品質の高さであり、独特な打ち心地は魅了するには充分であった。日々アウトプットを行うオフィスワーカーの間で、特段PCのマニア(つまりはプログラマやシステムエンジニア)たちに大いにウケた。
毛筆からえんぴつに進化した場面である。

メカニカルスイッチとカンブリア爆発

メカニカルスイッチの特許が切れるや否や、コピー品が出回った。
いわゆるメカニカルキーボードと呼ばれるキーボードに搭載されているスイッチである。
コピーが粗製乱造される中で順当に競争され、耐久性と動作性質(打鍵感)がアップデートされる。
主に数種類しかなかったスイッチが瞬く間に無数の種類をもち、スイッチを手軽に差し替えられるようにキーボード基盤からはんだ付けされなくなった。
コンセントのように抜き差しできることで、道具としてのカスタマイズ性が担保されたのだ。
マニアたちはこぞってスイッチにこだわりを見出し、飽きると次はキーボードの外形に注目した。そしてマニアックな外形たちが登場する。
キーボードに多様性が生まれるようになった。

文房具としての現在

キーボードは文房具であると言い切れるようになったと感じる。
多様性はもはや文房具に迫る勢いであり、ただの入力デバイスの域を離れている。
「使いやすい」というワードはこだわりの定性的表現であり、無意識下にある使いにくさへの解決方法の提示である。疲れない、気持ちがいいというメリットを声高らかと耳にするが、本質的にはこだわりの具現化であり、決して満ちえることのない沼である。

しかしいくらこだわろうとも、たとえ1,000円のキーボードでも10万円のキーボードでもできることは変わらない。
疲れにくいというメリットはメリットではない。安いボールペンでも高級な万年筆でも現れるのは文字だ。
無意味であるとも言えるが、道具をより効率よくするというのは人類が道具をアップデートするモチベーションであり、目的もあった。つまり人類は毛筆をえんぴつにアップデートした時から同じことをしているのだ。

キーボードにこだわりを持つということ

当初は使いやすいものを求めることで無意味下にあるストレスに抗ってきた。より良いものに出会えた時は一定のカタルシスがある。
これが趣味となり、目的となることが沼と言えよう。
キーボードにこだわりを持つということは一定のカタルシスを求めているが、もはやストレスは存在しておらず幻想なのだ。
その幻想に気付いた時、またはこだわりに無意味さを感じたとき、エンドゲーム(こだわりの終了)となる。
当noteではエンドゲームを果たしたく、彷徨う人間の記録である。


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