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【古代史最大の謎】邪馬台国は阿波だった?!

お元気様です。
歴史系コンテンツプレゼンターのきーです。

四国・阿波には、日本の正史が隠そうとしている古代史の謎がたくさん存在することはご存じでしょうか?

日本神話や日本の成り立ちの歴史は、九州・出雲・奈良大和を中心にして語られています。

ですが九州や出雲・奈良大和を日本の成り立ち・神話の舞台として語るには、あまりにも辻褄が合わないことが多いです。

たとえば、邪馬台国に位置や、神武東征の謎、高天原や天磐船の話など、いまだに解明されていない謎がたくさんあります。

しかし近年、この謎を解く遺跡や伝承が四国や阿波に集まっていることが注目されています。
なので今回は、『邪馬台国は阿波にあった!』というテーマでご紹介します。

YouTube動画で見たい方はこちらからどうぞ!

邪馬台国とは?

最初に邪馬台国とは...ということを簡単に説明しておきましょう。

邪馬台国とは中国の歴史書の魏志倭人伝に記されている2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。

  • 倭国大乱のあと、卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が治まった

  • 女王:卑弥呼は魏に使節を派遣して親魏倭王の称号と金印を得たこと

  • 邪馬台国は狗奴国と対立していた

  • 248年卑弥呼の死後、男の王が後継に立ったが混乱を抑えることができずに、卑弥呼の宗女の台与が巫女王となると国が治まった

上記のように、よく知られていることはあるものの、邪馬台国についての記載は魏志倭人伝に頼っていることや魏志倭人伝の記載と合わない事実が多いことから、今でも古代史ロマンを感じる謎が多いのが邪馬台国です。

邪馬台国はどこにあったの?

邪馬台国の謎の中でも1番有名なのは、邪馬台国はどこにあったのか?という謎でしょう。

魏志倭人伝には、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国への道筋の記載はあるものの、その記載通りに行ったとしても日本列島のどこにもたどり着かないということで、昔から様々な論争を繰り広げてきました。

魏志倭人伝に記載されている邪馬台国への道程はこちらです。

出典↓

朝鮮半島の帯方郡から1万2000里先が邪馬台国になります。

対馬国、壱岐国、松浦国、伊都国までは、長崎県の対馬―壱岐―松浦、福岡県の糸島として確定できます。

その先の不弥国(フミこく)からの比定が不確実で、不弥国(フミ国)から南に陸行1月、水行10日で邪馬台国に辿りつくと記載されています。

邪馬台国の位置の論争で、有名なヤマト畿内説は、この【南に陸行1月水行10日】を方角を間違えて南ではなく正しくは東であるとして邪馬台国は畿内にあると主張しています。

畿内説の邪馬台国の有力な遺跡として、纏向遺跡があげられ纏向遺跡にある日本初の前方後円墳である箸墓古墳を卑弥呼の墓と主張しています。

もう一つ有力とされている九州説は、【南に陸行1月水行10日】は陸路で行けば1月かかり水路船でいけば10日で行ける場所と解釈したり、松浦国か伊都国までは順序で記載し、その先は道の記載の方法が変わり放射式に書かれていると理解して、邪馬台国は九州にあったと主張しています。

そうなると九州説の邪馬台国の遺跡は、たくさん候補地が存在することになります。

このように邪馬台国の位置の論争で有名な畿内説、九州説はどちらも魏志倭人伝を解釈しなおさなければなりませんでした。

邪馬台国:阿波説の道程

しかし邪馬台国は、四国の徳島阿波にあったと考えると魏志倭人伝の記載に新たな解釈を加えなくてもたどり着くことができます。

伊都国から東に100里行き、不弥国(フミ国)もしくは奴国(ナ国)今の関門海峡から水行20日で役馬国(トウマ国)今の高知県に上陸します。

そこから陸路1月をかけて邪馬台国、現在の徳島県阿波にたどり着くことができます。

出典↓
https://kodainippon.com/2019/05/03/post-12/

いかがでしょうか?
魏志倭人伝の記載を読み替えることなく、邪馬台国にたどり着くことができました。

この地図をみて、なぜ瀬戸内海を通らずに高知県の方までぐるっと遠回りをする必要があるのか?と疑問に思うかもしれません。

しかし当時の瀬戸内海は、小さな島がたくさん存在し海賊がたくさんいる危険地帯です。
瀬戸内海が整備されたのは、平清盛が福原遷都を行った時代です。

この3世紀の瀬戸内海を外国使節を乗せて航海するのは危険と考えて、高知県の方までぐるっと回った可能性があります

邪馬台国は大都市だったのか?

邪馬台国・四国阿波説を唱えるうえで課題となるのは、【邪馬台国は帯方郡から1万2000里にある】という記載です。

そして邪馬台国は7万戸の人口がいた、という記載も魏志倭人伝にはあります。

7万戸の人口とは、約30万人になります。
当時の中国魏の首都である洛陽は20万人でしたから、邪馬台国はそれをも上回る大都市ということになります。

中国のように平地が広がる場所で20万人は妥当ですが、平地の少ない日本の国土で30万人の人が暮らすというのは考えにくいです。

邪馬台国は広域連合国家?

しかしこれを解決するのが、邪馬台国は広域連合国家と解釈することです。

邪馬台国は一つの国ではなく、いろんな国の集合体であり、邪馬台国を構成する一つの国に女王である卑弥呼がいた。と解釈するのは無理な話ではありません。

魏志倭人伝の記載も、邪馬台国へと向かう道程が、途中で推計値になったり、距離ではなく「日数」であらわされるようになります。

これは邪馬台国が明確な国境が示せない性質の国である、連合国だったからではないかと解釈することができます。

邪馬台国を広域連合国家と解釈し、【邪馬台国は帯方郡から1万2000里にある】という記載を当てはめるとこのようになります。

出典↓
https://kodainippon.com/2019/05/03/post-12/

関門海峡から船に乗り、南に水行10日に愛媛県の来島海峡(くるしま海峡)に上陸、そこから陸行で女王国のある徳島県阿波にたどり着くことができます

このように考えれば、海賊が多く危険地帯である瀬戸内海も邪馬台国の勢力下になり、危険が減ります。

来島海峡(くるしま海峡)は、日本で最も潮流が速い場所として知られています、危険を回避するためで来島海峡(くるしま海峡)で船を降り邪馬台国の女王国まで陸路を選択したのではないか?と考えることができます。

水銀丹を採取していた阿波徳島

邪馬台国、阿波説の根拠となるのは、この邪馬台国への道程だけではありません。


魏志倭人伝によれば、【邪馬台国からは水銀丹(朱)が出る】としています。


【水銀丹】とは、鳥居や寺院の装飾に使われていた朱の顔料です。


弥生時代に水銀を採掘していたとされる場所は、徳島です。


今でも徳島県阿南市(アナンシ)に残る「若林山遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」は1世紀初頭~3世紀後半にかけての遺跡で、水銀朱の精製・生産・祭祀を行った日本における水銀朱祭祀の先進地であったことを物語る遺跡として研究が進められています。


出典↓

卑弥呼の墓は阿波にある

そして邪馬台国阿波説の根拠として説得力があるのは、徳島県には卑弥呼の墓といわれる神社が残されています。

邪馬台国畿内説では、纏向遺跡にある箸墓古墳が卑弥呼の墓としていますが、墳墓の大きさなど記載と合わないことがたくさんあるのが現状です。

卑弥呼の墓の条件を具体的にあげるとこの3つがあげられます。

  1. 墳墓の大きさが100歩あまり(直径140~150m)

  2. 墳墓周辺から中国(魏)製の三角縁神獣鏡が出土する

  3. 墳墓周辺や卑弥呼の居住地域に金印(親魏倭王)があること

天岩戸別八倉比売神社

この3つの条件を満たしているのが、徳島市にある天石門別八倉比売神社(アマノイワトワケヤグラジンジャ)です。

この神社の背後にある、古墳をご神体として祀っているとても不思議な神社です。

考古学によればこの古墳の築造は4世紀で卑弥呼の時代とは合わないのですが、

この神社について書かれた『御本記』によれば、もともとこの神社は背後にある気延山(きのべやま)の「東の峰」にあったのを593年に現在地に改葬したことが記されています。

そして『御本記』によれば、「東の峰」にあった墳墓について「神陵の径108歩」と記されているそうです。

この古墳は神陵ということで発掘はされていませんが、近くの宮谷古墳からは3枚の三角縁神獣鏡が出土し、青銅の質がよいことから中国製であるとされています。

卑弥呼と天照大神

そして驚くことにこの神社の御祭神は、大日孁命(オオヒルメノミコト)とされています
この大日孁命とは、天照大神の別名です。


なので邪馬台国阿波説は、天照大神は卑弥呼であると考えられています。


『御本記』には、大日孁命(オオヒルメノミコト)の葬儀の様子の記載があったり、墓に金印を納めたという記載まであるそうです。


発掘ができていないため、この金印はまだ見つかってはいませんが、卑弥呼の墓の条件としてここまで一致する場所もないのではないでしょうか?

まとめ


今回のまとめです。
今回は、邪馬台国は阿波にあった!というテーマで紹介しました。

阿波なら魏志倭人伝の記載を解釈しなおさなくても邪馬台国の位置が特定できること。

阿波では邪馬台国と同じ時代に、魏志倭人伝の記載にある水銀丹(朱)が採取されていたこと。

そして阿波には卑弥呼の墓とされる天石門別八倉比売神社(アマノイワトワケヤグラジンジャ)がある。

この天石門別八倉比売神社(アマノイワトワケヤグラジンジャ)が卑弥呼の墓ならば、天照大神は卑弥呼であることが有力になり、奈良大和から始まったとされる天皇家や神話のお話を塗り替える可能性があります。

邪馬台国阿波説もまだまだ異論はあると思いますが、これも古代史ロマンのひとつとして楽しめる内容じゃないかなと思います。

今回紹介した内容の情報元はこちらです。

今後も阿波に隠されている古代史の謎について紹介していきますので、楽しみにしてください。

ばいばーい!


この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史本プレゼンチャンネル】の動画を、テキストにしたものです。

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