死とは何か?【bookノートA】

宗教的な教えに頼らず、あくまで論理的思考を用いて「死」を捉えていこうとするとき、そこに何が立ち現れてくるのか。

死について考えるときに重要なのは、「二元論」と「物理主義」の見方を区別することだ。

二元論者は人間を「身体と心の組み合わせだ」と主張する。

二元論者にとって心とは魂そのもの、もしくは魂に収まるものだ。

一方で物理主義者は、精神的活動としての心は否定しないものの、魂なるものは存在しないと考えている。

この立場からすると、心はあくまで身体の持つ能力のひとつにすぎない。

著者は後者の立場に立つ。

たしかに人間は“驚くべき物体”であり、他の物体にはない機能をいくつも持っている。

だが「人 (魂) は自分の身体の死後も存在し続ける」という主張は論拠を欠いている。

私たちが有形物であることは間違いなく、そういう意味では機械と根本的には変わらない。

ゆえに身体が死ねば、その人も消滅するのは必然ということになる。

死について考えるのが厄介なのは、逆説的に「そもそも生き続けるとはどういうことなのか」という疑問にぶち当たるためである。

私たちは過去・現在・未来の自分を同一の存在と見なすが、そもそもそれはなぜか。

この問題に対する立場は大きく分けて3つある。

①「魂説」

②「身体説」

③「人格説」

二元論者は大抵の場合、「魂」をその根拠に見出している。

これが①「魂説」である。

「魂説」によれば、身体と魂は別のものだから、身体がどう変わったとしても (あるいは肉体が消滅したとしても) 、魂さえ変わらなければ同一の存在と見なされる。

一方で物理主義者の多くは、②「身体説」を採用している。

身体さえ一致していれば、それは同一の存在と見なすという考えだ。

なおここでの「身体」は、原子レベルですべて同じということを意味しない。

身体の構成要素は定期的に入れ替わるからだ。

「身体説」にはいくつかのバージョンがあり、著者のように「脳」が同じであれば、他の身体が変わっても同一の存在だと考える人もいる。

いずれにせよこの説を採用した場合、身体 (脳) の死はそのまますべての終わりを意味する。

興味深いのが③「人格説」だ。

これは二元論者にも物理主義者にも受け入れられる余地がある。

この考えに従うと、同じ信念や欲望、記憶などの集合である「人格」が同じであれば、同一の存在と見なされる。

なお「身体説」と同じく、少しずつ構成要素が入れ替わることは問題視しない。

基本的には同じ身体 (脳) を持つ=同じ人格を持つという点で「身体説」に近いが、身体と人格を分離可能なものと捉えれば、「魂説」にも接近しうる。

とはいえ現時点では別の身体に自分の人格を「アップロード」する技術はないので、この説もいまのところ「死」については身体説と同じ立場をとっている。

物理主義者にとって、人間とは正常に機能している身体にすぎない。

考えたり感じたりできる身体を、本書では「P機能(人格機能)を果たしている」と表現する。

この考えを受け入れる場合、人間はいつ死ぬことになるのかを考えてみたい。

一見すると答えは単純に思える。

「身体がP機能を果たしている間は生きている」ので、「その機能を果たさなくなったときに死ぬ」

ただ厳密に死を定義するならば、はたしてどの機能が決定的に重要なのかを考えなければならない。

ここで食物を消化したり、心臓を拍動させたりといった機能を「B機能(身体機能)」と呼ぶとすると、P機能とB機能のどちらが止まったときが「死」なのだろうか。

一般的にP機能はB機能と同時に停止すると考えられている。

だが「P機能を失っているにもかかわらず、B機能はある」という状況も存在する。

P機能の喪失とB機能の喪失のどちらを死と捉えるかは、人格説と身体説のどちらを採用しているか次第だろう。

人格説を採用しているならば、P機能の喪失がすなわち死だ。

一方で身体説であれば、B機能の喪失が死ということになる。

厳密にはB機能が失われても身体は死体として存在しているが、それは存在しているだけであって生きてはいないので除外する。

活動停止状態のケースをどう分類するかは難しい問題だ。

だがそれを別にすると、物理主義者の立場からすれば、死はとくに不思議な現象ではない。

B機能が実行されているかぎり、身体は生きている。

さらに万事順調であれば、身体はもっと高次の認知機能であるP機能も果たす。

ただ人間の身体はいずれ壊れ始め、どこかの時点でP機能を実行する能力が失われる。

そして身体が壊れるとB機能も消失する。

ここに謎めいたことは一切ない。身体が作動し、それから壊れる。

死とはそれだけのことである。

誰もが死を悪いものと考えているが、そもそもなぜ死が悪いのか。

たしかに私たちは死んだら存在しなくなる。

そしてそれが悪いのは自明のように思える。

だが「自分が存在しない」という状態が、自分にとって悪いことであるはずがない。

自分が存在していないのなら、それが悪いことなのかも判断できないからだ。

この疑問に対する回答は、「悪い」と判断される際の3パターンを整理すれば見つかる。


第1のパターンは本質的な意味での悪さだ。

たとえば痛みは私たちにとって直接的に悪いことである。

痛みは悪であり、だから私たちはそれを避けたいと思う。

第2のパターンは間接的な悪さである。

それ自体は悪くなくても、本質的に悪いことにつながりかねないという場合だ。

職を失うことは、本質的には悪いことではないかもしれない。

だが間接的には悪いことである。

貧困や借金になる可能性が高まるし、そうなれば痛みや苦しみなど本質的に悪いものを呼び込んでしまう。

第3のパターンは相対的な悪さである。

本質的に悪いわけではないし、間接的に悪いわけでもない。

しかしそうする間にもっと良いものを手に入れ損ねていれば、それは悪いということになる。

このうち3つ目のケースは見逃されがちだが、死がなぜ悪いのかをうまく説明している。

死ぬのがいけないのは、人生において良いことの起きる可能性が「剥奪」されてしまうからというわけだ。

こうした考えを剥奪説と呼ぶ。

剥奪説に対してはいくつか異論もあるが、それでも総合的に考えると、剥奪説こそが妥当であるように思われる。

死を悪と見なすうえでもっとも肝心な理由は、「死んだら人生における良いことをまったく享受できなくなるから」なのだ。

人生における良いことを剥奪するから、死は悪い。

だとするともっとも望ましいのは永遠に生きること、すなわち不死だと帰結しそうになる。

だが不死が人間にとって最善かどうかを検討するために、次の2つの疑問について考えたい。

1つめの疑問は、剥奪説を受け入れる際に「不死は良いことだ」と信じる必要があるかどうかだ。

剥奪説を受け入れながら不死の価値を否定することは、自己矛盾になるのかならないのか。

2つめの疑問は、そもそも普遍的な真実として不死が良いかどうかである。

たとえ論理の一貫性のためだけに不死の価値を認める必要がないとしても、不死そのものは良いものなのだろうか。

1つめの疑問についての回答は明確だ。

剥奪説を受け入れることと、死は常に悪いと主張することは同じではない。

論理的に考えて、「人生にもう良いことが何も残っていない」という状態は起こりうる。

人生に良いことがなにも残っていないのなら、死によって人生を奪われてもそれが悪いとは言えないだろう。

よって剥奪説にもとづく論理の一貫性だけでは、不死が良いものだと結論づけることはできない。

2つめの疑問について答えるには、前提条件をはっきりさせる必要がある。

老いや病を抱えながら永遠に生きたいと考える人はいないと思うが、健康的に生きられるならば不死を望む人はいるかもしれない。

だがどの種の人生を想像すれば、永遠を生きてもよいと断言できるだろうか。

定期的に記憶を失ったり、興味や目標を徹底的に変えていったりすれば、永遠に続く人生でも退屈から逃れられると想像することは可能だ。

だがそれが本当に「私」なのかというと大いに疑問である。

結局私たちが求めているのは、自分が満足するまで生きられる人生なのだから。

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人はいつかかならず死ぬものだが、望めば自らの人生を終わらせることもできる。

すなわち自殺だ。

自殺というテーマを考えるうえでは、自殺の「合理性」と「道徳性」の問題を区別する必要がある。

ここではまず自殺の「合理性」について焦点を当てる。

そしてその後、自殺の「道徳性」についての問題にも目を向けていく。

どのような状況ならば、自殺が合理的な決断になりうるだろうか。

この疑問に対する著者の回答は、「自殺の選択が合理的な場合もあるが、推奨はしない」である。

生きる価値のない人生を送る可能性が圧倒的に大きい場合、自殺も合理的に容認されうる。

たしかに自殺はその後のあらゆる可能性を奪ってしまうが、自らの状況について明晰に考えたうえで、改善する可能性がまったくないと思われる場合もある。

そういう場合は自殺が合理的な判断になるだろう。

道徳性という観点からいうと、自殺の正当性をどう扱うかは道徳理論によってさまざまだ。

なによりも結果を重視する功利主義的立場なら、「それが正しいかどうかは、万人にどれだけ多くの幸福を生み出せるかの問題である」と考え、「自殺はときとして受け入れられる」と結論づけるだろう。

一方で「生きる権利のほうが重要である」と考える義務論的立場からすると、たとえ自殺することで得られる結果のほうが良くても、それを誤りと見なすはずだ。

ただしある種の同意原則にもとづき、義務論的理論を十分に発展させていくと、自殺が道徳的に許容できないとはかならずしも言えなくなってくる。

功利主義的立場であろうと義務論的立場であろうと、「自殺は常に正当であるわけではないが、正当な場合もある」というのが著者の出した結論だ。

もちろん安易に自殺を受け入れてはならないし、明晰な考えができなくなったせいで自殺願望に取り憑かれている可能性も考慮すべきである。

だが妥当な理由があり、必要な情報も揃っていて、自分の意思で行動しているとするならば、その人の自殺は正当になりうるのである。

「死」とは何か
シェリー・ケーガン 著
文響社

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