終末テレビ ~carpe diem~
「地球はもう終わりです」とアナウンサーが叫ぶと、カメラは走り去る彼を映したあと、報道スタジオを彩る水槽を映したまま静止しました。ネットには秩序を失った言葉がひたすら正しく下へ下へとその数を伸ばし、スクロールを止めたPCの向こうでまだ増殖を続けています。
突然太陽の影から飛び出してきた彗星は、イギリスの国土ほどの大きさがあって、まるでSF映画のように確実に地球へ向かって飛んできていました。
その事実が人々のもとにもたらされたのが今日のお昼。明後日には確実に彗星の影響で天変地異が各地で起こり、やがてくる衝突を待つ前にたくさんの命が失われるのです。
にわかに信じられぬことを時間をかけて理解しようにも、昼間に見えるほうき星の輝きは想う猶予を与えてくれません。
テレビは砂の嵐になるでもなく、いつまでもスタジオの水槽のぶくぶくを映していました。
「しゃれにならねぇ」
もう誰かに気を使ったやさしい猫なで声を使わなくて済むわたしは男言葉になっています。
いきがった言葉を誰かに聞いて欲しいと思うのですが、外は妙に静かで時々「ぎゃあ」とか「お母さんやめて!」などと叫ぶ声が聞こえるだけです。
結局、どの家庭も自分の血のつながりや信頼感に頼って家に戻り、それぞれの家の窓近くで殺しあったり、自暴自棄になって命を減らしていくのでしょう。家族の愛は殺人彗星の到来には勝てないのかもしれません。
いえ、どんな終末が来ようとも、家族の愛が絶対で完璧ではないのです。たとえば「ぎゃあ」と響く声の主が幼く聞こえるとき、まだ結審していなかった幼児殺害の事件を思い出してため息がでます。
あの被告は地球のすべての人が死に絶えるとき同じように亡くなるのです。どの人もどんな罪にも変わらぬ死。
聖者も殺人犯も、善意のものもコソ泥も、抗えないことはあるのです。
そして気づいたり気づかなかったりしながら、運命にひざまずいて服従し『最後はみんな一緒』の甘い刹那を待つのです。
たとえば、たとえば明後日地球が終わらなければわたしは願ったでしょう。
「殺人犯もいっしょの終末なんてイヤだ!」
――差別なのでしょうか、この願い。今さら祈る神への願いは「死」以外かなわないのが癪に障ります。
終末だというのに何故こんなに静かなのでしょう。わたしはいつのまにかありふれた終末観に侵されていたのかもしれません。
水槽のぶくぶくからいつ画面が切り替わるかわからないので、わたしはじっとテレビの前で過ごしています。いつか画面が切り替わらないでしょうか、今と違うものへと。
車の通り過ぎる音が大きく聞こえます。まるでわたし以外の地球人が引っ越していくようです。一番静かなのは誰でしょうか。
ネットを開いてももう新しいニュースは更新されません。チャットは? と開くと、何か起こっているのか開くこともできません。
ブログサービスを開こうとしてふと新しい記事の更新に目をやれば、知らない誰かがありとあらゆる罵詈雑言・卑猥を並べ立てていました。普段は削除されるのに、あっという間にその愚か者の記事で新しい記事の欄が埋め尽くされていきます。電脳を司る人たち、おそらく社員まるごといなくなってるのでしょう。
わたしは卑猥の主とコメントを交わしてみたくなりました。ネットで最後の遊びかもしれないと思ったからです。
「コンニチハ、そんなことやって楽しい?」と書いて投稿すると画面はじっと固まったまま動きません。それが彼の拒否する心のように見えて、更新を待たずホームページを閉じました。
イライラとわたしは顔を擦ります。治ったばかりのストレス性難聴がぶり返しそうで、耳の奥が痛くて、ものおとが遠くに聞こえます。
人の本質は終末を前にしてどこにあるのでしょうか。たとえば彗星が落ちてくると伝わる前、あんなに世界は満ち満ちてわたしの羨望の的だったのに。いまではわたしの受け皿一つさえ残すことなく、どこかへ誰かと逃げ出しています。
隣にいるこの世で一番愛しい人が、訪れる終末の恐怖のあまり自分に手を掛けることなど想像もしないで。もしくは自分が愛しい人に手を掛けることを思っても見ないで。
わたしは泣いていません。涙も出ません。ただ誰もいなくなったWEBに向かい、自分を発信し続けるしか思い浮かばないのです。
終末テレビは熱帯魚と水槽のぶくぶく特集が続いています。
※2007年11月既出
ネット以外自分を吐露する場所がなかった引きこもりの頃つくった