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或る本

 道路を挟んだ向かいは小さな貸し本屋だった。

 本を手に取ろうにも靴を脱いで、上がり口にふたつと、家人も同居する六畳間に本棚がみっつ。本が主か目の前の老婦が主か、よくわからぬ店だ。一日十円、握り締めすぎて金くさい子どもの手のひらから銅貨を受け取ると、老婦は丸いビスケットの空き缶にジョリンと音を確かめるように落とす。本は少年漫画から鼠色の表紙の本まで。綴じ紐が崩れているのか蜘蛛の巣なのか、家の天井に届く高さにぞろりと煤けた糸が垂れている。

「じんめんそう」
――ある日みつけた本の題字がそう読めた。「人面瘡」林銃蔵。六歳の子どもには難しい漢字を表紙絵がその力ですらりと読ませてみせた。目を閉じたままの奇妙な人の顔がそこにあった。

 上がり口に腰掛けると叱られるので立ったままページをめくる。
「読みたいのなら借りていきな」
 立ち読み禁止の半紙を布はたきで叩いて老婦が急かす。開いてはいけないような気がする。
 迷ったとおり、本の中身はその当時の私に読めない言葉で溢れ返り、文字はオオアリのように黒々と体を広げて灰青の紙に生きていた。私はできるだけ細く本を開いて覗いた。
 ふと突き上げてくる吐き気に、左手のページがばらっと中ほどまで緩み、大きくくちを開く。びしゃっという粘性の少ない音と共に足元に土色の液体が零れた。
「おや」
「すみません、ごめんなさい」
 私の吐しゃ物とすっかり信じていたものを、老婦は問題ないとでもいうように手際よく奥から持ち出した古新聞で拭い、さらに新聞でくるむ。インクの臭いがどこかつんと鉄臭く、唾を数度飲み込んだ。
「気に入られたね、その本は借りておいき。何日借りても十円でいいよ」
 誰に気に入られたのか、老婦の言葉の意味をはかりかね、黙っていると再び足元に土色の液体が広がった。
 今度こそ叱られる。
 蒼白になった顔の高さに本を掲げると、老婦と目が合い、さらにもう一組の目と目が合った。

 本の言葉の意味はわからなかった。しかし、開いたページからじっとみつめる言葉の模様が、ゆっくりとこちらを向いて人の貌をつくろうとしていた。


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更新しないというのも何なのでテキスト投稿。
2013年6月
作中に、文技研/林さんの名前をお借りしました。ありがとうございます。

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