胎児2

「あ、痛」


 不意に左目の奥につん、とくる痛みが襲った。羽虫が目に飛び込んだような、それと似た違和感が、なぜか体の内側から外側に向けて抜けていく。

 夜中のインターネット、長時間モニターの前に座りすぎたか。それとも夜勤明けの睡眠不足が響いているのか、或いはどちらともか。PCの放つ白い光に背を向けて、暗闇に目を慣らす。湧き上がってくる苛々とした感覚が、まつげの際まで来て涙になるとスッと消えた。なみだ。

(悲しくないときの涙はどうしてさらさらと水っぽいのだろう?)

 そんなことを思いながら右手で頬を押さえると、涙と思っていた液体状のものが、手のひらから手首にかけて細かいビーズのような球になって転がり散った。銀色の細かな球体。まるで水銀のような。

 濡れた感覚がしない。いやいや、それは今しがた自分の体から抜け出た体液なのだからきっと温くて、と数瞬のうちに考えをめぐらせ、続いている痛みと違和感を強引に押さえ込んだ。

 手のひらに残る「涙と思っていたもの」の残滓にわざと目をそらしたものの、痛みは内側からさらに何かを産むようにせりあがって来て目の縁で解放される。たまらず両手で目を押さえると、透明な液状だったそれは手から膝元へ流れるつかの間に光る銀の球へと変わり、そして床へと散った。涙ではないものが次々に溢れては流れて落ちる。その間は永遠のように長くも感じたし、ほんの一瞬くらいとも感じた。

 カチッ。一段と大きな銀色の塊が落ちたとき、まるでとんぼ玉を落としたような高い音がした。驚いて立ち上がると、肘や膝に残った銀の球が、パジャマの上で撥ねてパラパラと続けざまに落ちる。落ちた弾みで幾つかが合わさったように見え、そして冷えて固まるように蒼く濁った硝子玉に変化した。音はこの硝子玉だったのだ。

 ようやく痛みがなくなり違和感が消えると、テーブルの周りの、自分の「産み散らかしたもの」を片付けるしかなくなり、爪の先で摘まむようにして一番大きな球を拾った。

 再びモニターに向かって座り直し、ホーム画面から文字の煩くない、薄鼠色のブログ画面に切り替えてPCの放つ光にかざして見る。球はクラックが入っているのか、内側に大小さまざまな細い針金ようの模様みたいな傷があったが、表面は爪にかかることもなく滑らかである。

 今度はのろのろと立ち上がると虫眼鏡を取り出し、模様の正体を確かめるために覗き込んだ。針金ようは所どころで重い金色の光を球の内側から放っていた。球の向こうに文字が見える。初めそれは光源に使っているブログ画面の中の文字が写りこんでいるのだと思った。

 しっかりと握りなおすと、もっと多くの光源を求めて部屋の明かりを付け直し、虫眼鏡をかざした。

(金色の、蟻のような?)

 ヒエログリフにもアラビア文字にも見えてきて、針金ようはどうやら蒼い球に言葉が閉じ込められているのだと気づいたとき。自分のよく知った漢字が入っていることに気づいた。気づいた端から、解読できなかった金色の模様は、自分が既に獲得している言葉にすり替わっていく。球から目が離せなくなり、その合間ずっと高揚感に包まれていた。初めて自転車に乗った時のこと、一人で旅をしたときのこと、奪うようなキスをした夜、倒れた父を抱え「救急車!」叫んだときのこと――。

 喜びも慟哭もあいまった高揚感の最後に、「終」という言葉を球の中に見つけた後、球はしんと静まり返って何も語らなくなった。いや、初めから何も語っていなかったのかもしれない。

 自分の目の奥から出てきたものが、涙ではなく、摩訶不思議なものであることの不快感や恐怖は既に抜けていて、むしろ産み落としたもののように近しく思い、PCに振り返って「あ」と小さく叫んだ。

 薄鼠色の向こうに文字がひとつも見当たらない。光と色だけが広がる小さな画面が目の前にあった。

「言葉が」

 傍らに書きかけて置いた葉書にも文字は一切なく、ただ四角や線や模様が奇妙に浮き立っていた。これも風が吹けば剥がれ飛んでしまいそうな危うさであった。壁にかけたカレンダーだったものに文字はひとつも無い。ただ罫線だけが白い紙に引かれている。

「言葉が」
 と悲鳴をあげようとして自分が言葉を失ったことに気づいたのは。
――たった今しがたのこと。

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