創作について

子供の頃から、絵を描くのは好きだったし、本はほとんど読まなかったけれど、頭の中では、体育の授業中、反復横跳びをしている最中にこの動きのまま家に帰り、放課後、心配した先生や友達が僕の家を尋ねてきて、部屋の中でまだ僕が同じ動きをしていたら笑ってくれるかもしれないなとかそういうことばかり考えていたし、高校の授業中には自分で大喜利の問題を考えてそれの答えを理科のノートに羅列していた。

小学生の夏休みの自由研究では2年に一回は優秀作品に選ばれていたし、中学生の頃にあった『環境を考える』がテーマの美術ポスターは県の代表に選ばれた。でもそれを創作だとは思わなかったし、純粋に楽しいからやっているというだけで驕り高ぶることもなく選ばれたんだラッキーという感覚だった。それが本当の意味での創作だと思う一方でそこにはもう戻れないことも知っている。

本格的に自分の創作を意識したのは、高校の時にやった劇の脚本だった。みんながトイストーリーの世界をやりたい。トイストーリーのお別れのシーンでみんなでダンスを踊りたいという中身のない話で盛り上がっていたので、やばいやろと思い、その日の一晩中考え抜いて、僕はトイストーリーとイソップ童話の嘘つきオオカミを合体させた簡易的な脚本を完成させて、さっきテキトーに考えましたけどなにか?みたいな顔をしながらみんなにそれを見せた。嘘という人間味のあるドロドロした部分を無機質なおもちゃの世界に投影させることで、よりリアリティのある作品になると思ったし、その話が完成した時、ひとりで震えたのを今でも覚えている。自分で書いたセリフや動きや流れを自分以外の誰かが演じている時、僕の脳内がドロドロと溶けていく感覚があった。

その溶けていく感覚を求めて今でも、コラージュを作ったり絵を描いたり、文章を書いたりするわけだが、それと関係のないと思っていた人間関係の歪みや、金、将来などといった部分でそれが壊れていくのを身近に(自分のことなので当たり前だけど)感じている。だからと言ってそれが間違いだとは思ってはいないし状況を憎んでいるわけでもない、そういう状況に追い込まれることで新しい発見もある。家族との関係が悪化し、東京に逃げてきてバイトしながら夢に似た何かを追いかけているということに恥じらいがある。が恥じらいがあるということを気づかないふりをしている。俯瞰で見ず純粋にその状況に溶け込める人のことを羨ましいと思う。

全ての状況や心情をSNSや世間に発表すると、自分の純粋さや正直な一面を知って欲しいみたいに思われていないかということが不安になる。それでがっかりさせることもあるし、そこまで見せなくてもと呆れられることもある。ただ、その瞬間を共有したいので創作に移しているということだけで、そこには不純物はなく、いずれきれいな球のようなものであると確信している。

美術のしきたりや展示の仕方、この人と繋がっておいた方がいい、などといったことを聞くたびに、それがクソだとと思えるほど強くもないし、そうしなければいけないんだろうなとも思う。その中途半端な場所で右往左往している自分が作ったものが中途半端なものに変わっていくのは当たり前だと思う。

嫌われるのが怖いし、1人でも多くの人に好かれたい。だから送信取り消しを押すが、世に発信すると本当の意味で取り消すことなど不可能なことは分かっている。例えば自分が死んだとしても。誰か否定することで自分を肯定しているのがバレバレ。自分だけが救われようとしているのがバレバレ。バレバレな世界でバレバレなものを作り、バレバレな人たちにバレバレな言葉をもらいバレバレな表情をしながらバレバレな言葉を交わす。

もちろん売れるという確信があるし、自分には才能があると分かっているからやっているのだけど、ここにどんな意味があるのかわからない。世の中に言葉が溢れ過ぎてきて、だから前向きな言葉でこれを終わらせる気もないし、でも絶対この先もなにがあっても創作を続けるんだなんて言いたくない。こんな感じで気づいたら夏が過ぎ風あざみおじさんになっていく。創作について、どちらかといえばその方がいいと思っている。

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