夏とボス猿
あの短くて暑い時間は空想であったかのような錯覚に陥るのだが、まだほのかに残る手の温もりがそれが現実であることを証明していた。4年前の夏、僕はボス猿と一緒に夏を過ごした。そして夏が終わると同時にボス猿はどこかに消えてしまった。
ボス猿と初めて出会ったのは、下北沢の喫茶店『トロワ・シャンブル』だった。僕が夏の暑さに耐えきれず喫茶店に逃げこみ、アイス珈琲を飲みながら休んでいた時、隣の席に座ったのがボス猿だった。ボス猿はカフェラテを注文したあと、器用に腹の毛の辺りから煙草を取り出し、しばらくライターを探すそぶりをした。僕が「ライター、いりますか?」と聞くと、軽く会釈をしてそれを受け取ってうまそうに煙草を吸った。ボス猿が吸っていた煙草は僕と同じピースのライトだった。僕が「煙草同じですね」と言うと、ボス猿は、ねと言いたそうな顔をして「ウホ」と言った。奥の席にいた大学生くらいのカップルがボス猿の方をチラチラ見ながら小さな声で何かを言い合っていたが、ボス猿はなにも気にしていない様子であった。
ボス猿が「ウホウホウホホホウホホッ?(ここらへんに住んでいるのですか?)」と聞くので「いや、今日は髪を切りに来たんですけど、あまりに暑くて、それで休憩しにきました。」と僕は答えた。「ボス猿さんはここら辺にお住まいなんですか?」と僕が聞くとボス猿は少し沈黙したあと「ウホウホホホウホウ。(私逃げてきたんです。)」と答えた。何と答えたらいいのか少し戸惑っているとボス猿は「ウホホウホホホ!(急にすみません!)ウホホウホホホウホホウホホ。(初めて会った人にこんなこと。)ウホホウホホウホホ!(今の忘れてください!)」と言って、カフェラテをごくごく飲み干してじゃあと言って店から出ようとした。僕は思わずボス猿を呼び止めた。特に呼び止める理由はなかったのだが、なぜかこの数分の間に僕はボス猿に対してかなり好意を抱いていて、もう少し話がしたかった。ボス猿はまたさっきの席に座り、初めてみたいにカフェラテを頼み、また僕からライターを借りて煙草を吸った。
それから僕とボス猿は核心に迫る話題をなんとなく避けて色んな会話をした。ボス猿の好きな色は『ピンクゴールド』で、嫌いな枕詞は『たらちねの』だった。
かなりの時間、僕たちは話し込んでいたみたいで、ふと時計を見るともう18時半だった。そろそろ行きましょうと言って僕たちは外へ出た。僕が「うちに来ますか?」と聞くとボス猿は戸惑った顔をして首を傾げた。「さっき、逃げてきたって言ってたから。僕は一人暮らしだし部屋は狭いけどもし行くところが無いんだったらどうかなと思って、嫌だったら全然」と僕が言うと、ボス猿は「ウホホホウホホホホ?ウホホホ。ウホホウホホホホウホホホ、ウホ、ウホウホホホホウホホウホウホホッホホ。ウホホウホウホウホホッウホホホ。。。ウホ、ウホウホウホホホ?(ほんとにいいんですか?申し訳ない。だけど帰るところなくって、でも、私初めからボスなんて向いてなかったんです。それなのにみんながやれやれって言うから。。。あの、本当に迷惑じゃ無いですか?)」と言った。
それから僕たちは家まで、たわいもない会話をしながら少し遠回りをして歩いて帰った。話が途切れると、ボス猿は小さな声で井上陽水の『夢の中へ』を口ずさんでいた。
僕とボス猿は共同生活を始めた。ボス猿はかなり家庭的で、僕が仕事を行っている間に、家を隅々までピカピカに掃除し、買い物に出かけ、僕が帰ってくる頃になると晩御飯を準備して待っていてくれた。ボス猿の作る料理はどれも美味しくて、中でも豚汁は今まで食べたどんなお店のものよりも美味しかった。僕が休みの日はボス猿と一緒に色んなところへ行った。特にボス猿は印象派の画家を好んでおり、印象派作家の展示があれば、僕たちは少し遠くても予定を合わせて美術館に出かけた。
生活は心地良かったのだが、やがてボス猿が僕に対して(友情としてではない)好意を抱いていることが分かってきた。そして僕はそれに気づいていながら、なにも知らないふりをし続けていた。
8月の終わり頃、僕は連休が取れたのでボス猿と一緒に2泊3日の熱海旅行を行くことにした。ボス猿は3日前から、ずっとニコニコして『夢の中へ』を口ずさみながら旅行の準備をしていた。
1日目はひと通り観光をしたあと、地元で有名な居酒屋へ行ってたらふく酒を飲んだ。ボス猿も普段はあまりお酒は飲まないのだが、その日は僕と同じくらい沢山お酒を飲みよく笑った。僕たちは旅館に戻ったあと、トランプしながら酒を飲み、決着がつく前に2人とも眠ってしまった。翌朝、僕が起きた頃にはもう昼過ぎで、焦ってボス猿に謝ると、ボス猿は全然いいよと言いたそうな顔で「ウホ」と言った。僕たちは近くの食堂で昼飯を食べた後、歩いて熱海サンビーチへ行った。僕たちはそこでもまた色んな話をした。その中でも、ボス猿が小さい頃に親を亡くしていることや、ボス猿がボスになった経緯などは、今まで聞いたことのない話で、とても印象に残った。
そういえばボス猿と出会ってから、まだそんなに月日が経ってないのに、ボス猿と一緒にいることは、とても僕を安心させた。けれど僕がボス猿に対する好意は恋愛的なものではなく友情や家族愛に近いものであった。そして勘のいいボス猿もまたそれに気がついていた。なんとなく気まずい空気が流れて沈黙が続くと、突然雷が鳴り出し、ポツポツと雨が降り出し、やがてそれは土砂降りの雨へと変わった。夕日の中で、海へと流れ落ちる雨はキラキラと輝く光であり、僕たちはその光の中を手を繋ぎながら走って帰った。
その夜、僕はボス猿を抱いた。
なぜそうなったのか僕にも分からなかったが、自然の成り行きといえばそうなのかもしれない。ボス猿は隠れながら少し泣いてまた煙草を吸った。
翌朝目が覚めると、もうボス猿はいなくなっていた。テーブルの上には置き手紙があって、そこには今までの感謝や、もう戻らないこと、僕の幸せを願っていることなどが書かれていて、最後の1文には「私がボスだから?」と書いてあった。僕はボス猿にボスだから愛せなかったわけじゃないと説明したかったが、ボス猿はスマホを持っていなかったし、そもそもボス猿がどこのボスなのかすら分からなかった。
僕はまた一人暮らしを始めた。部屋は散らかり、数日も経たない内に全ては元に戻っていった。ボス猿が今どうしているのか、ボスに戻ったのか、それとも1人で暮らしているのか、なにも分からない。ボス猿から貰った手紙は、今もまだつくえの中にあって、僕は暑い夏が来るたびに『夢の中へ』を口ずさみながらそれを読み返すことにしている。
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