山口百恵と阿木燿子を”古い”と感じてしまった

昨日のトレンド一位に「山口百恵」が躍り出たのは、NHKで引退コンサートが再放送されたから。永遠の歌姫・百恵ちゃんが引退したのは1980年。アンコール無しのラストコンサートで白いドレスの彼女がマイクをステージに置いて去る姿、後に三浦友和さんと教会で挙げた結婚式でのウエディングドレスの美しさは40年以上経った今でも色褪せない。

楽曲もそうだ。ドラマティックな歌詞を憂いを帯びた眼差しで歌い上げる彼女は美しい女優そのもの、今なお人々を惹きつけて止まないからのトレンド一位なのだろう。

しかし、私はそれほども引き込まれることがなかった。何故か?

これから書くことは山口百恵という稀代の女性歌手が選んだ人生を否定するものではない…言い訳がましいか(笑)。一言でまとめると「時代が変わった」のだ。

1980年、まだ中学生だった私でも分かっていたことは女性は遅くても25歳までには結婚するもので、結婚すれば仕事を辞めて専業主婦になり子供は2,3人産み、子育てと家事に専念するものだということ。もちろん全ての人がその通りではなかったはずなのだが、それがスタンダードであることは周知の事実であったと記憶する。そんな時代に阿木燿子の綴った自由で魅惑的な女性像を豊かな感情で歌った山口百恵はカッコ良く、大勢の女の子の憧れだった。そして憧れの百恵ちゃんは映画で共演した三浦友和氏との純愛を貫き21歳で結婚、完全に表舞台から退いたのだから潔いしカッコいい。そのカッコいい百恵ちゃんの引退コンサートでのMCが、今を生きる私には違和感しかなかったんだ。

>私の好きな言葉の中に”女”という一字があります…(略)…常に女でありたい、そう言い続けてきました。

この部分だけを切り取るのも如何なものかと思いますが(笑)、昨今の性差に関わる色々な事例、そもそも女らしさ(男らしさ)とは何ぞや?という疑問が頭をもたげ、その後の素晴らしいはずの彼女の言葉が私の心を上滑りしていく。そうね、こういうのが良かった時代だったよね、と。

もう一つ、『絶体絶命』。この歌は二股をかけていた男を挟んで女二人がやりあうという、中々な修羅場の歌詞だ。阿木燿子と山口百恵の組み合わせではよくあったドラマ調の世界。

分かれて欲しいの、彼と

そんなことは出来ないわ

愛してるのよ、彼を

それは私も同じこと

そのまま場面が浮かぶでしょう(笑)。で、この修羅場に遅れてきた男は「二人とも落ち着いて」と言うのだから、聴いているこっちは笑うしかない。さてこのドラマはどう決着したか?相手の女の涙にほだされて、”私”が引いたのだ(笑)。

さて、この展開は現在ならどう受け止められるだろうか?

実は私、当時からちょっとした違和感を感じていた。涙一つで引き下がるものなのか?そもそも二股をかけるような男は取り合う価値があるのか?百恵ちゃんがいかにカッコよく「バイバイ、やってられないわ!」と捨て台詞を吐いても、心に残るのは「?」のみ。今の時代ならなおのこと、である。

山口百恵と阿木燿子、1980年のあの頃には間違いなくカッコいい女の代名詞だった。しかしカッコいい女にこだわること即ち、女性という性に縛られていることに他ならないのではないかと、今この時代に生きる私は思う。

今日の当たり前は明日には違うかもしれない。40年も経ったのだから、尚更だなと思った、2021年。

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