カミュ『異邦人』の感想文

カミュの『異邦人』と『ペスト』の感想文を書こう。

今日はまず『異邦人』から。

『異邦人』は、読んだのがだいぶ以前だ。
あんまり共感できないというか、あんまり好きじゃない作品だったのは覚えている。

「不条理」を描いた作品であるらしい。
その評判を聴いて、期待して読んだ。

まず、主人公ムルソーは、母親が亡くなったにも関わらず、翌日にガールフレンドと海水浴に行く。

母親が亡くなったのに、悲しくないのか?
たとえ悲しくなかったとしても、社会には「そういう時は悲しそうに振る舞うべきだ」という規範がある。
その規範を無視するのか?

……なるほど、これが「不条理」か。
そのように納得しながら読んだ。

人間は必ずしも「こういうことが起こったらこう感じるはずだ」というルールに従って感情を動かすとは限らない。
多くの人が「普通ならこう感じるはずだ」と感じるような場面で、その通りの感情が起こらないことはいくらでもある。また、ある感情を抱いていたとしても、それを他人からそう見えるように分かりやすく表現するとは限らない。

人間はそこまで条理に則った存在ではない。
これを「不条理」と呼ぶのは、まぁわかる。

しかし、それに続く有名な殺人の場面はどうか。

ムルソーは(このあたりの事情はうろ覚えなのだが)友人に対し借金の取り立てか何かの事情で現れた男たちをいきなり射殺する。
裁判で動機を問われ、かの有名な「太陽が眩しかったから」という台詞を言う。

「太陽が眩しいから人を殺すなんて、不条理だ」
そう言おうと思えば言えないこともない。

しかし本当にそうだろうか。

ムルソーは、友人に対し借金の取り立てに来た男たちを殺害したわけである。
友人にとっての敵だから殺したのだ。
それは普通に殺人の理由として納得できるものではないか。
もちろん、そんな理由で初対面の相手に銃を撃つなんてヒドすぎるとは思う。
しかし客観的に見て、まったく理由のない殺人とは言えない。

「太陽が眩しかったから」というのも、たとえば「暑さでイライラした」という生理的な事情も犯行の要因のひとつであったと解釈すれば、そこまで突拍子もない発言ではない。

つけ加えると、その借金取りに迫られた友人は、裁判のときに味方になってくれる。
そりゃそうだろう。友人が、自分への友情のために殺人を犯してくれたと解釈できるシチュエーションなわけで、そりゃあ味方してもおかしくはない。

これは果たして「不条理」だろうか。
僕にはじゅうぶん条理に則った物語に思える。

ついでに言うと、母親の死の翌日に海水浴に行くことも、実はそこまで「不条理」ではない。

献身的な母親は、息子にとってしはしば「いて当たり前の存在」になる。
「いて当たり前の存在」に対し感謝するには、成熟した社会性が必要だ。
平山亮は『介護する息子たち』において、介護の場面における息子たちの行動(母親に対する支配的な態度など)を自然に見せる解釈資源として「息子性」という概念を提唱している。
つまり息子は、ある程度幼稚であっても社会的に許容されやすいというわけだ。
ムルソーも「息子性」という観点から見れば、別に母親に感謝できないとか、母親の死を悲しめないというのは、そこまで不自然なことではない。

といった感じで、僕にとって『異邦人』は、期待したほど「不条理」には思えなかった。
だからあんまり好きじゃない。

以上、『異邦人』の感想文でした。

僕はあんまり好きじゃないど、好きな人の感想も聴いてみたい。

今日はここまで。気が向いたら『ペスト』も書こう。

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