喋るように書く

最近「喋るように書く」というのを試しています。このnoteも、ですます調で、喋るように書いてみます。僕はときどきツイキャスをやります。ツイキャスで不特定多数の人に向かって喋ることをイメージして、文章を書くわけです。

きっかけは千葉雅也さんのツイートでした。数年前のツイートでしたが、千葉さんがですます調で書くと書きやすくなることがあるとツイートされていて、それを真似してみようと思ったわけです。

僕は以前から、悩みを言葉にすることで、自分自身をエンパワーメントするようなことができたらいいなと思って、いくつかの方法やツールを試してきました。大袈裟に言えば「言語化プロジェクト」みたいなものが、自分の人生の課題みたいな感じで、常に念頭にあるわけです。その一環として「喋るように書く」は始まりました。

「喋るように書く」試み。今のところ、なかなかいい感じです。まだちゃんと理論化できていないのですが「頭のなかのお喋り」との付き合い方がちょっぴり変わった気がします。

突然ですが僕はツイ廃です。しょっちゅうツイッターを見てしまいます。

ツイッターは、不特定多数の他者に自分の投稿を見られるメディアです。あまりにプライベートな悩みを書くことはできません。ツイッター依存とは「常に人に見られることを念頭に置いて文章を書こうとし、それに没入している状態」と言えるでしょう。なのでツイッター依存は、自分自身の深い悩みと向き合ううえで、大きな障害になると思うんですよね。

もちろん、ツイッターにも良さはありますよ。僕はツイ廃ですからね。もちろんツイッターを擁護しますよ。ええ。

僕はよく、自分自身の悩みから、人生の法則のようなものを抽出して、ツイートすることがあります。そうすることで自分自身の苦しみが昇華される気がするんですよね。あと、他人からいいねを貰えたり、リツイートされるのも単純に嬉しいですよね。承認欲求が満たされます。

ただし、あくまでツイートできるのは一般化、抽象化されたテーゼになりますから、どうしても自分自身の個別具体的な悩みと向き合うことから逃げている観が否めません。

で、ですね、この「喋るように書く」試み、実はツイートでも実践しているんですね。普通ツイートって、わざわざですます調で書かないですよね。リプライとかエアリプとか、明確に他者に向けたツイートであればですます調になるでしょうけど、ツイッターって基本「壁打ち」じゃないですか。多くの人が、ですます調ではなく、タメ口やである調でツイートしていると思います。

ですます調でツイート。わざとらしくてアレかなとも思いましたけど、でもみんな、リプライなら普通にですます調ですよね。だから、そこまでわざとらしい感じにはならないんじゃないかなと思います。

で、ですます調でツイートすると、非公開で自分の内面と向き合うための文章と、他者に見られることを想定した公開のツイートとの区別が、こう、いい感じで「なだらか」になる気がするんですよね。この感覚、うまく言えないんですけど。喋るように書くことで、公開と非公開の幸福な関係を築けるのではないか……そんな予感があります。

オープンダイアローグという心理療法があります。これまで投薬による治療がメインに考えられていた統合失調症に対し、当事者とその関係者、専門家がチームを組んで対話をすることで症状を緩和していくという心理療法です。

オープンダイアローグって、おそらく文脈に位置づけられることのない記憶や思念に対し、対話によって文脈を与える作業なんじゃないかと思うんですよね。

オープンダイアローグの入門書を何冊か読みましたが、たとえば心配事があったとして、それを対話のテーブルに「乗せる」ことが大事である、みたいな書き方をされているんですよね。この「乗せる」感覚、大事なことだと思います。

文脈を与えられない記憶や思念──つまり、対話のテーブルに乗ることのないもの──って、何かしら「悪さ」をすると思うんですよね。

僕にとって、その「悪さ」を身近に感じられる現象は「汚言」です。シャワーを浴びているときや、人混みでイヤホンで音楽を聴いているときなどに、ふと恥ずかしい記憶が蘇り、下品な言葉や無意味な音声を発してしまうことがあります。僕の場合は排泄や性、死に関連する何かしらの言葉や、裏声を発してしまうことが多いですね。

恥ずかしい記憶というのは、アレですね、なんかカッコつけようとして失敗したみたいな記憶が多いかもしれません。

カッコつけたけど、カッコ悪くなっちゃった。それをみんなに笑われた……そんなエピソードだったら、実はそこまで恥ずかしくないんじゃないかと思います。それは、みんなに笑われることで、適切な文脈を与えられているからです。

おそらく最も恥ずかしいのは、カッコつける意図なんてなかったのに、他者の視点から見れば、それは明らかなカッコつけだと判断されてもおかしくないようなケースなのではないでしょうか。自分の意志として、決してカッコつけようと思ったわけではないかもしれない。でも他者のまなざしのなかで、自分は明らかにカッコつけている。他者のまなざしを経由することで、自分の無意識のなかにカッコつけようとする意志が潜んでいたかもしれない可能性が、事後的に浮上してくる……おそらくもっとも恥ずかしいのは、このようなケースです。



うんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこ


恥ずかしい記憶が突然蘇るとき、僕の口から(ときに性急なリズムを伴って)不随意的に汚言が飛び出します。

「恥ずかしい」とは、その記憶が適切な文脈に回収されることなく、複数の意味づけに対し、無防備に開かれている──開かれ過ぎている──状態なのだと思います。

開かれ過ぎた記憶にとっての救済とは、僕にとって「電気ショックで処刑される」イメージですね。どのような意味づけにも開かれている記憶が、一気にすべての意味づけへと同時接続されるイメージ……それが電気ショックによる処刑のイメージです。

ざっくり「点」と「線」というメタファーを使ってまとめてみます。喋るように書く、ですます調で書くというのは、より「線」的な(一本の線で繋がったような)思考を促します。それに対し、である調やぶっきらぼうなつぶやきは、より「点」的です。

「線」によって繋がれることない要素が「点」です。恥ずかしい記憶というのは、自分のなかで「線」によって回収することができないものです。「線」によって文脈を与えられない「点」は「悪さ」をします。それが汚言です。

「点」的思考は、どこかですべての「点」が一斉に救済される未来を期待しています。すべての意味づけに同時接続されることによる処刑。処刑による救済。

僕にとって「喋るように書く」行為とは、「点」をなるべく「点」のまま放置せず「線」によって文脈を与える試みと言えるでしょうか。それもあるでしょう。しかし、より肝心なのは、諦めることだと思います。「点」を無限に回収できるという幻想を諦めて、有限の「線」だけに生きる試み、と言ったほうがいいでしょう。どちらかと言えば、すべての「点」の回収を諦めるためのプロジェクトですね。

以上が、今のところの僕にとっての「喋るように書く」の意義ですかね。現時点でプチ理論化、プチ言語化するとしたから、こんな感じです。またやっていくうちに考えが修正されるかもしれません。

あと、やっぱりですます調だとダーッと書けますね。このnoteも勢いにまかせて書きました。整った文章ではないかもしれませんが、勢いに乗って書いてみる実験として書いてみました。

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