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映画「オッペンハイマー」

映画館を出て数十分経った今も心が揺さぶられ続けている。
おそらく、おそらく何度も見たい映画ではない。
そしてこの映画の描くものがノーラン監督らしく複雑すぎるあまり、本当の理解をし切れるものなのか僕には分からない。
なんならノーランは観客のミスリードさえ予測しているのかもしれない。
印象的なシーンがある。
広島への原爆投下が成功し、それに対する関係者へのオッペンハイマーのスピーチのシーンだ。
本来戦争を終わらせるはずだった原爆投下成功のスピーチが、戦争の始まりを思わせる軍靴の音とともに彼の中で世界が反転する。
完成に湧き歓喜する関係者たち、悦びの涙を流し抱き合いあっている。
しかし、それが憂い悲しむ姿に見えるのだ。
ここで僕は一つの疑念を抱いた。
ほんとに世界の観客たちはそこに悲哀を読み取っているだろうか、と。
これはもしかしたら僕が日本人だからこそ、すんなりと監督の意図するダブルミーニングを読み取れただけで、いやなんなら日本人でも気づかない人はいるのではないか、と。
そしてそれは世界の切り取り方、見方そのものかもしれない、ノーランがオッペンハイマーを題材にして描きたかったものは複層的な世界ということに他ならない。
話は複雑になるが、複雑な映画だから仕方がない。
矛盾が成立する不確定な世界(これは作中出てくるハイゼンベルクの提唱した原理だ)を描こうとしているのだから複雑にもなる。
オッペンハイマー自身が矛盾の塊なのだ。
彼は言う。物理学と自分の愛する場所ロスアラモスを合わせられれば最高だ、と。
そして彼はロスアラモスで原爆実験を成功させる。彼の愛した場所に大量の放射能を撒き散らして。
原爆を作り、大量の人を殺して平和を実現したつもりになるが、それが更なる脅威となることを恐れ水爆には反対する。
さらに共産主義へのシンパシーを持ちながら、愛国心を振りかざす彼の姿は矛盾しているように見える。
こうした対立項を作品全体に散りばめながらノーランは作品世界に複雑で不確定な世界を描き出すことに成功している。
少なくとも僕はそう読み取った。
ただ、この作品を違った形で見る人たちもいるだろうという予感もしている。
実は映画館を出る際に外国の新聞社のインタビューを受けた。
ちょうど誰かと話したかったので取材に応じたのだが、やはり関心ごとは原爆の父の作品が日本でどのように受け止められるのかという点であった。
彼らの最大の関心事は広島長崎の描き方をどう思ったか?言及が少なかったのではないか?と。
僕はそうは思わなかった。充分過ぎるほどの言及があったではないかとすら思っている。なぜなら全ては原爆投下すなわち8月6日を境に世界が裏返ることを描いた映画だからだ。言及どころかそれが作品の中心なのだ。
誤解を恐れずに言うと広島長崎は記号に過ぎないのだ。原爆投下された都市という記号だからこそ怖い。
そして犠牲者も数字として扱われるからこそ怖いのだ。
ノーラン監督はそこまで意図して描いている。
インタビューにはこう答えた。
広島長崎であることは特別ではなく、それはもしかしてドイツのどこかだったのかもしれない、と。
きっとインタビューは採用されないだろうな、と思いながら少し動揺した。
こうやって複雑な世界は単純化され、ミスリードが蔓延していくのだと。
オッペンハイマーという映画は大学の講義で何回にもわたって取り上げられるべき作品だと思う。
語りたいことはたくさんあるけど、作品を見ながらでないと語り尽くせない。
ピカソの絵画「座る女」と聴聞会の時にオッペンハイマーの上に元恋人のジーンが座る描写が重なり合う映像は芸術的なまでに鮮やかであるとか。
トルーマン大統領を始めとする表面的で浅い政治家への醒めた視線であるとか。
語るべきことは枚挙にいとまがない。
映画鑑賞から1時間以上が経った今も心がまだ揺れ続けている。
オッペンハイマーはそんな作品である。

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