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ナウシカ、唯物論、斎藤幸平

だいたいにして貯めこんだ情報がつながっていくのは朝、湯舟に浸かったり、熱いシャワーを浴びたりしているときなのだが、韓国をみていろいろな人にあって話を聞いたり、研究の仲間と話をしたり、文献を読んでいたり、原稿を書いたり、ということが繋がるという瞬間がある。。

お題は、ナウシカ、唯物論、斎藤幸平。ほんとはもう少しあるのだけど、順番に書いていくことにする。

「かぐや姫の物語」と「火垂るの墓」の解説をしている岡田斗司夫のYoutubeをみていたときのこと。 高畑勲が宮崎駿のナウシカを酷評したとの話がでてきた。その話は知っていた。だが、高畑が映画「ナウシカ」が宗教に救いを求める結末になり、史的唯物論の立場を宮崎がないがしろにしていると批判した、という岡田の解説は初めて聞いた。



史的唯物論を説明すると長くなるので、デジタル大辞泉の解説を引用するとこんな感じになる。 「歴史の発展の原動力は、社会的生産における物質的生産力とそれに照応する生産関係とからなる社会の経済的構造にあるとする立場」

ナウシカでいえば、「腐海」は資本主義における利益優先主義が科学技術の活用法を誤ったことで生まれたのだが、その解決を「ランランララ~」という宗教チックなものがしたということが高畑の批判の根っこなのだと岡田が解説する。批判を受けた宮崎は、映画「ナウシカ」のあと、8年の歳月をかけて、宗教ではなく、「腐海」という課題を人間による技術によって解決していくという物語として、描き直していったのだという。
漫画「ナウシカ」が連載していた当時、講読したのだが、当然ながらそんなことに気づいてもいなかった。

ナウシカにおける唯物史観とつながるのは、3月で退職される経営技術論を専門とされてきた先生との雑談だった

経営技術論は、経営という分野において、(唯物史観とつながる)技術論について研究するものであり、経済学、社会学、哲学を包含した学問だ。一方で、技術経営論とは、技術を使ってどうやってうまく経営するかというものだ。端的にいえば、経営技術論は学問の背骨みたいなもので、技術経営論はよりテクニカルなものといえばよいだろう。惜しむらくは、こうした学問の背骨みたいなものを扱う領域がどんどんと狭くなっているということだ。大げさに言えば、ナウシカは唯物史観がなければ生まれてこなかったといえるのかもしれない。なお、僕は唯物論者かというと、そういうわけでもない。

そこでさらには斎藤幸平につながる。斎藤幸平氏の著作は英訳されたことで海外からの批評もみられるようになってきた。 そのなかで、アメリカの社会主義雑誌「ジャコバン」ウェブ版に3月9日付で掲載された批評がとても僕にはタイムリーだった。

この批評の論点は三つある。 一つは、マルクスは史的唯物論の立場を放棄したのかどうか、 二つめは、地球環境破壊の責めは北半球の(恵まれた)労働者が資本家と同様に等しく負うものなのかどうか、 三つめは労働組合の力を認めないのはなぜなのか、ということだ。

一つめからいこう。これがナウシカと経営技術論につながる。 人間は資本主義以前から環境破壊をしてこなかったのか、 資本主義における資本の利益優先を克服するためにこそ技術が使われるのではないのか。 この二点を批評が指摘する。このことについて、1月に参加した学部時代の恩師の講演会で質疑応答をした農業をしている方の話を思い出す。「もともとは無農薬だったけれど、それでは生産量が追い付かない。いまは残留農薬量がとても低い農薬が開発された。それを活用することも一つの道だ」と。

批評は、科学技術の進歩により窒素系の肥料が開発され、アジアの飢餓がほぼ解消されたということを指摘するが、1月に聞いた話はそこと僕のなかでつながった。

二つめについて批評は指摘する。北半球も南半球も労働者はすべからく資本家によって搾取されている。 それなのに北半球の労働者をことさらに問題だとすれば、南北で労働者が分断されてしまうのだと。

「ジャコバン」は、労働運動に力を入れている雑誌だからこその批評だ。 「先進国の労働者は発展途上国の低賃金労働者から搾取された『利益』によって賃金を支払われているという誤った概念である『労働貴族』に関する長らく信用されていない理論の繰り返しにすぎない」

三つめは次の引用にあらわれる。 「(労働組合)は団体交渉に脱炭素化と公正な移行要求を含める権限を持っており、必要に応じて労働者の撤回やストライキの実施などの支援を受けられる」にもかかわらず、斎藤幸平が労働組合や労働者の力について言及することがほとんどなく、協同組合のみを解決の糸口にしていると指摘する。

そのうえで、「マルクス主義は、環境問題の原因についての十分な説明、それを解決する方法の処方箋、そして誰がそのような変化をもたらす権力と関心を持っているかについての説明をすでに持っており、同時に人間解放という社会主義プロジェクトを一度も放棄することはありません」と結論づける。

ところで僕はというとやはり集団的民主主義による金融資本主義とプラットフォームビジネスの制御という立ち位置にある。

批評は、「1917 年の革命により農民が封建的奴隷状態から最終的に解放されたとき、農民には都市の労働者を養うのに十分な余剰を生産」できていないことを指摘するが、 同時にこれはジョンRコモンズが集団的民主主義の必要性を主張する根拠となっている。なぜ餓死者がでるまで生産が追い付かない状況をおさめることができなかったのか。それこそが集団的民主主義が必要となる理由だった。

ジョンRコモンズは技術の発展について肯定も否定も立場は明らかにしていない。彼が指摘するのは、それらが問題を起こしたときに「どのように制御するのか」という方法論である。そしてそれが集団的民主主義である。資本主義が金融資本主義やプラットフォームビジネスのなかで、多くの矛盾を抱えている。その制御の仕方が違うといってよい。

いずれにしても、コロナがあけて外国に行けるようになって、現地の人と対話することが大きな刺激になったし、インターネットの普及であらゆる場所の情報を瞬時に入手できるようになったということの恩恵をほんとに感じざるを得ない。

「ジャコバン」の批評はなかなか毒舌で、 「コモンズ、自治区、相互扶助、水平的連帯など、2000年代の変わり目頃に流行した(ほとんど効果のない)左翼の流行語」 なんて書いてたりする。


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