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日本の労使関係と連合21世紀宣言、民主主義

地区労運動が日本の労組の再生の一つのカギではないかと思っていたが、韓国で2010年代以降にコミュニティオーガナイジンクが再生してきた流れをみると、日本にコレクティブ・デモクラシー(集団的民主主義)がこれまでなかったことの方が重大だと思うようになってきた。

集団的民主主義はジョンRコモンズが提唱したもので、ニューディール以降のアメリカの民主主義の根幹になっている。

1920年代は金融資本主義が隆盛だった。

描かれるのは『華麗なるギャツビー』の世界。それまで富は天に積むというプロテスタンティズムが富める者にあると信じられてきた。しかし、富は天に積まれず、ただ無為に浪費される。同じことを指摘したのはヴェブレンだった。

剥き出しの個人が国家に対峙するのであれば金融資本主義を制御できない。
金融資本主義の下では、労働よりも、企業の将来価値という「時間」が価値を左右する。コモンズは著書『制度経済学』の中で言う。目的のない浪費を抑えるものがファシズムや社会主義だと。

しかし、コモンズは「時間」による将来価値を認めたうえで、金融資本主義を制御する第三の方法、個人は剥き出しではなく、組織に所属し、その組織の方向と折り合いをつけながら、組織同士が互いに利害を調整して民主主義を機能させていくことを提示した。これをコレクティブ・デモクラシーと名付け、ニューディール以降のアメリカの民主主義の基礎となった。

ジョン・R・コモンズの系譜にあるダンロップはコレクティブ・デモクラシーの担い手を政府、労働組合、企業とそれぞれに属する個人とした。そしてこれをインダストリアル・リレーションズと名付けた。これは、民主主義をどう機能させるのか、という問題意識の発露にほかならない。

インダストリアル・リレーションズを日本では労使関係と訳したが、コモンズの概念とは全く異なる。日本の労使関係は日本資本主義論争と労農派、講座派の議論のなかにあった。つまるところ、金融資本主義をどう抑えるかという道が違う。社会主義の具現化としての労使関係だった。研究手法はミクロへミクロへと分け入った。労働がどのように行われ、それがどう対価へと置き換えられるのか。その接点こそが重要であり、そこに労働者の力があった。そこを見ればどのように職場で労働者が、労働組合がやがて企業経営をそして政府をコントロールしていくことができるのかというキザシが見えた。しかし、左派=リベラルになると、そうしたことが薄れていく。

産業構造の変化も後押しした。サービス化、ホワイトカラー化の中で、一人ひとりの労働はよりわかりにくくなった。どんなにジョブ型がもてはやされようとも、企業はホワイトカラーを独立した個人として扱わず、組織の一員として職務が重なり合い、協働のなかに人を押し込む。これを僕は強制された協働と名付けた。強制された自発性という概念もあるが、それとは違う。なぜなら強制された自発性は自発の先が協働であるとは限らないからだ。強制された協働は、協働が目的であり、自発的でなくとも協働を強いられる。

ここでは、ミクロでみても、一人の労働者の力へと分解することができない。そうなると、労働者、そして労働組合の下からの交渉力が築けない。
1980年代以降の日本について、カウフマンは2006年の日本労働研究雑誌No.548の「労使関係」という小文の中で、二元的パラダイムが支配的になったと指摘している

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2006/special/pdf/135-149.pdf


これは企業と労働組合の関係だけになったという意味だ。もちろん制度は二元的ではない。しかし、本質的にはコレクティブデモクラシーとなっていないとしているのだ。同じようなことは教育委員会のようなものに見ることができる。制度はアメリカと変わらないように見える。しかし、はしめは選挙で選ばれた教育委員長はすぐに指名制になった。こうなれば、学校を中心にさまざまな組織が利害を調整するという機会を著しく阻害することになる。制度はアメリカ由来だが中身が違う。

それが冒頭の韓国の話につながる。

韓国の民主化運動は、コミュニティオーガナイジング由来だ。コミュニティオーガナイジングは、アリンスキー発だが、彼はシカゴの工場労働者を労組CIOが組織している一方で、そこを支援する目的で地域を組織した。アリンスキーのコミュニティオーガナイジングはコレクティブデモクラシーの一翼を担ったのだ。そこから考えれば、韓国の民主化運動もコレクティブデモクラシーの一つであり、革命を志向したものではない。それは独裁政権下でマルクスを禁じられたからこそのものなのだが。

民主化運動後に「科学的」として、マルクスが韓国に入ってきたものの、職場や寄る辺ない人を組織する手法としてコミュニティオーガナイジングが復活する。

これはすなわちアメリカ発のコレクティブデモクラシーの手法が再認識されていると見ることができるたろう。

さて、日本を、日本の労働運動を、日本の民主主義を考えるときに、コレクティブデモクラシーが受け入れられるのかどうか。1970年代まであれほど隆盛であった、左派=社会主義が、いまは左派=リベラルという曖昧なものとなり、民主主義は投票行為のように捉えられるようになってしまった空っぽの状況をどうすればいいのか。

大企業で働く労働者には労組がある。けれど公的セクターで著しく組織率が低下し、中小企業のほとんとに労組はなく、雇われていてもオンデマンドで働いたり、派遣労働だったり、職場が固定されていなかったり、働いていなかったり、引きこもっていたり、という寄る辺のない人たちが剥き出しの個人として政府に対峙することが多くなっている。どうすれば、こういう人たちを組織にまとめていくことができるのか。

そのカギは日本では労組が握っていると思っている。コレクティブデモクラシーがなんなのか。そのことを考えるのは、金融資本主義よりもずっと「時間」、それも瞬時の組み合わせによって価値を生み出すプラットフォームビジネスを制御するための手法として重要であるし、そのために労組が機能することを期待している。きっかけはすでに、「連合21世紀宣言」のなかで、一度示された。

同じことは近年のマルクスの流行にも憂いを感じている。重要なのは民主主義があるかどうかではないか。そして、日本では左派=社会主義はこれまで結論なくさまざまな流派があり、おおよそ上からで、下からの民主主義を志向したと思えない。それでもなお、学ぶことがあるとしても、重要なのはそれが民主主義なのか、ということ、一点に尽きるのだが。

何にせよ、僕もまだまだ探し続けている途中にすぎない。

ジョンRコモンズと弟子のパールマンの対話に好きな話がある。
パールマンは労組が社会を変革する担い手となることを期待していた。彼は第一次世界大戦後のドイツ出身だからそうした想いが強かったという。そしてビジネスユニオニズムを批判する。一方でコモンズは、労働者にとってもっとも大事なのは生活の糧であり家族を養うことだとしてビジネスユニオニズムを擁護する。そのうえでインテリが労組の方向を左右することの是非をパールマンに問う。

僕にはパールマンの気持ちもコモンズの想いもどちらも感じるところがある。

そのうえでもなお、社会の背骨として機能するものを探し続けたい。それがコレクティブ・デモクラシーと今のところ思っている。


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