見出し画像

ダンロップの労使関係(Industrial Relations)とは何か

日本の「労使関係」とアメリカの原語である「Industrial Relations System」がどうにも同じものを指しているとは言えないとの思いから本稿を書いてみた。

そもそも日本で労使関係というときは、労働者(労働組合)と使用者もしくは、労働と資本の関係という二つの捉え方がある。しかし、ダンロップの労使関係はそれとは異なる三つ目となる。ダンロップ、John T. Dunlopの研究はJonh R. CommonsのInstitutional Economics(制度経済学)の系譜にある。

クラーク・カーらとの共著、Industrialism and Industrial Man: The Problems of Labor and Management in Economic Growth(邦題「インダストリアリズム」1963年東洋経済)。これは、産業革命、そして二つの大きな戦争や革命を経た人間社会はどのような状況にあるのかを複数の国で調査した結果をまとめたものだ。「Industrial Relations System」もその調査が下敷きになっている。だから、ソ連のような社会主義国、ユーゴスラビアのように体制を転換しつつある国、カナダ、英国、アメリカなどさまざまな状況にある国家のシステムが対象となっている。

そのもっとも大きな特徴は、「労働者と労働者の組織」「使用者」「政府組織」という三者がアクターであり、一国内においてはそのアクター間の関係、産業横断的には国境を超えた比較、などが対象となっているのである。そして、アクター間はそれぞれの利害と力関係に基づき、落としどころが決まるのだが、もう一つ重要なパラメーターがある。それが「技術」「市場または予算上の制約」「権力構造」だ。

  「技術」
  「市場または予算上の制約」
  「権力構造」

 上記の三要件の内容の組み合わせ方が力関係均衡の姿を変えるとする。

その三つの詳細については以下に記した。

技術
  産業構造
  技術水準
  労働生産性
  労働力人口の構造
  国民的教育水準
  熟練技能の形成方法

市場または予算上の制約
  市場の競争的状況
  特定企業のおかれた予算上の制約、
  民間部門と公的部門の比重、
  寡占や独占の状況、
  大企業と中小企業の関係、
  金融市場の構造、
  貿易構造と国際収支

権力構造
  社会全体のなかで当事者が占める地位
  権威や権力への接近度合
  集権的か分権的か

たとえば、技術といえば、先進国か後進国かで産業の発達度合いがまったく異なるし、市場の競争状況や予算上の制約も異なることになる。中央集権か分権か、政治体制がどのようなものかについても権力構造が異なってくる。これらがパラメーターとなって、「労働者と労働者の組織」「使用者」「政府組織」という三者の力関係や利害調整の落としどころが変化するということが、ダンロップの労使関係システムの本質である。

したがって、一企業でみれば団体交渉ということもあれば、政治になることもあるし、地域運動になることもあるし、学校制度や社会環境、年齢構成、経済環境、戦争があるのかないのか、みたいなことによっても大きく変化することになる。

つまり、ダンロップの最大の関心事は、「仕事」にまつわることにあるのではなくて、社会や文明など人間社会そのものがどのように変化するのか、ということにあるといえる。

これは、労働組合と使用者の関係に労使関係を限定した場合と大きくことなる、ということが理解できるだろう。

なお、労使関係概念の定義については、浪江(2008)も参考になる。

それでは、ダンロップの労使関係システムと日本の労使関係が異なることで、どんな問題があるのか。

そのために『働く女子の運命』(濱口2015)を紐解こう。
濱口は同書で「5正体不明の『知的熟練』」という説を展開する。

1980年代から90年代までに一世を風靡した小池和男が、日本の工場労働者が勤続年数が長くなればなるほど「知的熟練」が身につくことで職務遂行能力が高まり、それに応じて賃金も高まるという説を作り出したものである。知的熟練は野中郁次郎、青木昌彦、藤本隆宏などの理論の根拠の一つともなった。だが、2010年代を過ぎると急速に「知的熟練」は表舞台から消えていった。一つには「知的熟練」の根拠となったと小池が主張する仕事表が存在するかしないかの論争が学会で1980年代から展開されたことだったが、もっとも大きな理由はバブル景気の崩壊により、日本的経営に対する信頼が揺らいだからだった。

濱口はそことは違う角度で切り込む。小池の知的熟練は宇野派マルクス経済学に依拠しているだけでなく、その論拠が中小企業と大企業の賃金格差による推論にすぎないとしたのである。濱口によれば、小池の知的熟練は、宇野派段階説に基づく、独占資本主義段階に対応したものである。もう少し簡単に説明すると、欧米的な職務に基づく働かせ方は資本主義の発展段階からは遅れており、より競争力をもつのが知的熟練を駆使する日本の工場労働者であって、独占資本主義段階なのだということである。

この説に賛同しながらも、晩年の小池は違った形に知的熟練を変えてしまったと筆者は考えている。独占資本主義段階に対応したとするのであれば、資本家にとってもっとも効率的な働かせ方が知的熟練であるとの帰結になる。しかしながら、小池は工場における労働組合が使用者と団体交渉をすることを通じて、知的熟練を定義する仕事表の内容を決定するとともに、そのために必要な訓練を労働者が主体的に行うという理論が展開していったのである。つまり、知的熟練は労働者による職場への民主的な参画が欠かせないという理論へと移ったのである。つまり、独占資本主義の次の段階として筆者には思える。

しかしながら、この変節は強引すぎる。欧米であれば政策的に労働組合が職業訓練に関与させることを使用者に義務付ける。これによって労働組合はみずから能力を育成することができる。この能力が使用者との交渉力のてこになる。それからすれば知的熟練では使用者側主導で労働者に教育訓練を行っているという現実を無視しているからである。たいていの労働組合は日本の場合、職業能力をみずから育成していると言えないのである。そのことをもってして、知的熟練に対するマルクス主義的な根拠が瓦解する。そしてそれよりも何よりも、知的熟練が日本企業の競争力をもたらしたのではなくて、デミングがもたらした働かせ方とビジネスモデルの総合的な変化に原因があったということを意図的にか無視していることにある。

そのデミングについては回をあらためて触れよう。

職場の労働者の働かせ方を仕事表のようなものと照らし合わせつつ、賃金と結びつけて労働組合が交渉する。これが小池による知的熟練の表層であり、その後の日本の労使関係のメルクマールとなった。つまり、生産現場の労働者の働かせ方と能力評価を賃率と結びつける交渉の在り方を調べるということが労使関係だということになっていったのである。そしてここにおける仕組みを調べることを「制度研究」だとした。

ダンロップの主張する労使関係論もしくはIndustrial Relations Systemとどこが違うのか整理しよう。

ダンロップ:「労働者と労働者の組織」「使用者」「政府組織」という三者のアクターの関係を「技術」「市場または予算上の制約」「権力構造」のパラメーターのなかで分析することを通じて、近代社会の実相を明らかにする

日本の労使関係:主として単一の生産工場の労働者の働き方について、能力と仕事内容を団体交渉を通じて取り決めていくこと、そしてそのことを通じて①独占資本主義段階の証明とすること、もしくは②職場からの労働者による民主化の実態を明らかにすること、もしくは③欧米のような範囲が限定された交渉にすること

ダンロップはアクターとパラメーターを使いながら分析するが前提としての近代社会の枠組みが存在する一方で、日本の労使関係は個別具体的な団体交渉における取引関係の結節点を制度とすることを社会の枠組みの礎としようとするということで、まるで真逆の方向を向いているということになるのである。

これは、制度経済学をベースとしたダンロップと、マルクス主義経済学、もしくはマルクス経済学をベースとした日本との相違にあるといえるだろう。

さはさりながら、さしたるとりまとめもなく、ゆるやかに日本の労使関係研究がなんであったかということが忘れられようとしている、、、、、、




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?