見出し画像

韓国のコミュニティ・オーガナイジング(教会だけでみるのではない)

コミュニティオーガナイジングやアリンスキーの影響をどのように受けて、現在の活動に繋げているのかを探る調査だったが、

それは、韓国の民主化運動と教会の役割、そして1980年代のマルクス主義との邂逅、そこからの労働運動との分離、

それが再び、決まった職場がないというようなよるべのない人を組織するための論理として回帰し、独裁政権を倒して民主化を手にした経験をミャンマーを始め、抑圧された国へ伝えていく。

アメリカにおいてもコミュニティオーガナイジングが教会ベースだと単純化できないのは、キリスト教にも社会的弱者を積極的に支援するというグループもあれば、分をわきまえろと言わんばかりに、社会運動の対抗者としても登場するように幅があるからだ。

これはヘンリー・フォードが労組潰しのために、積極的にカソリック教会と繋がって、ラジオを通じて神の名の下に労働運動を攻撃したという例にも通じる。

今日訪れた産業宣教会のまえには、韓国民主化運動発祥の地の石碑が立てられていて、まさにその場所から独裁政権への反対運動が始まったことを現代に伝えている。

地下にある歴史会館には、その活動の始祖である牧師が1960年代にシカゴを訪れていたことや、アメリカから宣教師が派遣されていた写真が展示されているのだが、

そこには、1970年代に若年女性労働者が集い、多くは笑顔だったが、そこでコミュニティオーガナイジングを学び、数人規模の小集団活動を行うという写真があった。独裁政権下、そしておそらくは男性に比べてさまざまに弱い立場におかれていたであろう。

それは独裁政権下のことで、しばしば警察にも踏み込まれたという。

はじめはキリスト教の伝道活動としてはじまった運動だが、それが産業宣教会たと名称を変えた時には、もはや、キリスト教の布教の是非ではなくなり、現在、参加しているメンバーの多くがキリスト教徒ではないという。

つまり、キリスト教徒だから、教会に集まって、コミュニティオーガナイジングのセンターになるのは当たり前だ、というアメリカ風のロジックは通用しない。

翻れば、これまで労働運動を通じて訪れた教会は、「宗派、宗教、信仰の有無を問わない」というところばかりで、たしかに、基礎票としては教会がドライブになっていたことは確かなものの、その実態は中身を見てみなければよくわからないということだ。

ボストンで訪れたジョブズウィズジャスティスという労働者の権利擁護組織には、労組もキリスト教会も仏教寺院もイスラム教会もみんな参加していた。

そのことを考えると、シカゴのIAF、アリンスキーがつくったコミュニティオーガナイジング組織を訪ねた時のことを思い出す。

シカゴ郊外の駅のそばのカフェだったか、ドーナツ屋だったか、で行なったインタビューで、IAF支部長の牧師が教えてくれたことは、「自分のところはアリンスキーのようなコミュニティオーガナイジングはやっていないよ」ということだった。

近隣には、住民運動を良しとしない教会も少なくなく、自分はいろんな教会や団体をつなげたり、地域の理解を求めたり、ということはするものの、住民運動に関わっているわけではない、とのことだった。

一方で、ピコという教会ベースのコミュニティオーガナイジングの訓練と運動を実践する組織をロスに訪ねたことがあるが、そこでの事例もまたおもしろい。事務局はユダヤ人の女性だったと思う。結婚したばかりと言っていた。組織化を担当するのは牧師だったか。

牧師のトレーニングの一環としてかなりの分量のテキストを比較的長期にわたってこなす、というトレーニングを実施していた。

いずれにせよ、それはアメリカの話だが、具体的に、なにを、どのように、となると、単純に「教会」ではなく、どの地域なのか、誰が担当なのか、どれくらいの規模や深刻度合いなのか、ということは個別の事例ごとに異なる

それを見ていく中で、日本はかつてどうだったのか、いまどうなっていて、これからはどうなのか、ということはどうしても考えざるをえない。それがフィールドワークの醍醐味だ。

それは、韓国という特殊な文脈が、アメリカとも日本ともどことも同じではないということにも繋がっていく。

それでいて、海を超えてそれぞれの経験は、螺旋階段を登る時のように一方からまた一方へと行ったり来たりする様と似て、互いに影響を与え合ったりする。

そういう国際的な繋がりや構造の面白さを見つけることはもちろんだが、その実、いつも、これが自分の属する社会でうまく使うためにはどうすれば良いのだろうかと、思いを巡らせる。

もちろん僕は運動家ではなく、職場の労働組合の役員をやったことがある、程度に過ぎないのだが、それでも、今日よりより良い自分や社会を求めることはやめないだろう。

さておき、単純にフィールドワークはさまざまな発見があって、それはそれで知的好奇心をくすぐられてたまらない。

どれも同じではなく、学びに溢れている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?