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二宮尊徳ともののけ姫

前回は、「風の谷のナウシカ」と史的唯物論、そして斎藤幸平はその部分をこそ否定しているという話をつらつらと書いた。今回はその続き的なことを。

学部時代のゼミの先生が、ずいぶん前から大日本報徳社の社長になっているのだけど、「二宮翁夜話」を読むという連続講座を隔月でやっていて、そこに二回ほど顔を出している。

大日本報徳社は二宮尊徳が始めた運動を現代に伝えて実践するための団体で、本部は静岡県掛川市にあり、日本全国に支部がある。第二次世界大戦中は報国の教えとして国家に利用されたが、そうしたものとは一線を画していて、あくまでも、個人、家族、地域といったものをどう紡いでいくのか、ということに終始する。

その「二宮翁夜話」では、天道と人道という考え方がある。あまり詳しくないので、聞いて思ったことの印象しか書けないのだが、天道に逆らった人道はない、ということがあるが、ここに自分がいままで思ってきたものとの違いがあるような気がした。

いままで思ってきたというのは、「日本もしくは東洋は自然と調和をめざす」が、「西洋は自然を征服する」という考え方のことだ。「二宮翁夜話」では、天道について説くのだが、自然のままに、ということや調和というよりも、「人の手によって改良を加えること」について否定しているような感じがしない。事実、尊徳が生涯をかけていたのは、人の手による農地の開拓であり、天道に逆らうことは良しとしないが、自然との調和そのものが目的であったとは思えない。

中学、高校、大学と受験の国語ででてくる論説文で、「日本人もしくは東洋は自然と調和を目指し、西洋は征服する」というものをなんども読まされた。1970年代後半から1980年代半ばにかけての、受験に選ばれる論説文のパターンの一つだったのか、それともいまでもこうした論説が多いのかはわからない。だが、いまさらながらにそれが本当なのか、と考えてしまう。

「もののけ姫」は自然と野調和をめざす主人公「アシタカ」と自然の活用を目指す鉄のタタラ場のリーダー「エボシ姫」を対照的に描いている。じゃあ、尊徳はどっちなのか、というと、「エボシ姫」側のようにみえる。

「二宮翁夜話」を読むはまだまだ途中なのだが、印象深いのは「誠」と「推譲」という考え方で、これがすべてを貫いているともいえる。世の中、そして個人にとってもっとも重要なものについては「誠」というものから出てこなければならず、目的は富を生み出すこと、そして生み出した富は「推譲」によって、子孫そして社会に広く還元しなければならないという。

なんというか、「プロテスタンティズムと資本主義の倫理」的なのだ。

つらつらと思うことを書いている。

二宮尊徳の教えは、非常に現世利益的だ。どのように心がけることで富を手にすることができるのかという方法論といってもよい。しかし、重要なのは、「誠」がなければ、「推譲」も生まれないということではないか。

ここでつながってくるのは、1920年代、世界大恐慌直前の社会の様子だ。

日本の教科書にでてくる「成金」。料亭で自分の履物を探させるために紙幣に火をつける。同じころのアメリカ。金融で手にした莫大な富は、夜な夜な、無為なパーティのために使われる。

さてここで、「誠」を持てない時代とはなんなのか、ということになる。

あちこちで近頃聞かれるようになったのは、「生きていることに意味なんかない」という言葉だ。年齢が若いほど多いような気がする。

1970年代まで、おぼろげにも社会を変えるということが、自分の生きる意味に同一視できる時代があったように思う。そうなるべきだと言いたいわけではない。

そのことについてはまたあらためて、、


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