『天気の子』感想

天気の子を見た
感想を書く約束をしたので感想を書く。約束は大事。

もう上映開始から日も経っているのでネタバレは気にせずに書きます。


君の名はの10倍くらい好き。
が、完全に僕向きというわけではなかった。

なぜ君の名はの10倍くらい好きで、しかし完全に僕向きというわけではないのか考えたい。そのあとで僕の好きなものを話す。


まず、僕の好きな話の類型と、それにどう天気の子が合っており外れているかを考える。

第一に、僕の好きな話の形として次のようなものがある。

僕の好きなテーマ → 終わった世界で、それを了解しつつ、どうやって生きていくか

「天気の子」では世界が終わっていること(=狂っていること)、それを了解すること、まで描かれるが、そこでどうやって生きるかまでは強く描かれないために完全に僕向きというわけではない。

つまり 

終わった世界:物語の出だし、東京とインターネット(つまり世界)が狂っていることが執拗に描写される。(宿無しの主人公、若くして夜の仕事を始めようとする女子、使えないYahoo知恵袋、バニラのトラック……)
→よくわかる

それを了解する:その狂った世界を、与えられたものではなく自分たちの選択として受け入れる。
→よくわかる

終わった世界でどのように生きていくか:人間を人身御供にせずに(意味を拒否して)、切り抜けていく(weathering with you)
→解決法として、恋愛の予感しか与えられていない

ということで最後が僕向きではない。(ここは記事下のほうで検討)



世界と恋人のうち世界を選ばない(救わない)話であり、「雨」(世界の狂気)を受け入れる話となっている。

それは主人公たちの選択の結果として受け入れられるが、実際は選択の結果ではない(世界はもとから狂ってるので)。

この部分が面白くて、「終わっている世界をどう受け入れるか問題」に対して、「恋人と世界のうちで恋人を選ぶ」という選択を経ることで「単に与えられた終わっている世界」を選択の結果「僕たちが選んだ終わっている世界」として了解し直すことができる。

それは変更できない事実を、自身の選択や決心の結果として錯覚的に受け入れるという意味で自己啓発的なのだけれど、自分で救済を作り出すやり方として面白い。

問題を作り出すシステムそれ自体を破壊する革命の話ではないが、諦めの話ではなく選択だという意味でポジティブではある。



ここからトピックの羅列↓






カラオケ


作中では逃避行で行き着いた池袋のラブホテルでカラオケを歌う。そのときの選曲もかなりテーマに沿った意図を感じる。(平成終わりのヒット曲とこの作品が同じ消費者を志向した結果としてかもしれないが)


「恋するフォーチュンクッキー」:「未来はそんな悪くないよ」→未来が悪いという前提がある。


「恋」:「意味なんかないさ暮らしがあるだけ」→与えられた晴れ女という意味を捨て、狂った世界で暮らしを送っていく。


これは意味を拒否して、悪い将来を把握し狂った世界を過ごしていく点で象徴的。

(これは僕の好きな要素であり、たとえば庵野秀明監督映画『ラブ&ポップ』のラストシーン
https://youtu.be/5vO7yytc4OU
喪失を歌いながら女子高生たちが無機質で汚い渋谷川を力強く歩いていくシーンとして美しく完成された表現になっている)



失敗した捕まえ手

『ライ麦畑でつかまえて』が3回?映る。(主人公は読むのが遅いのかあるいは何回も読んでいるのか)


『ライ麦畑でつかまえて』では「ライ麦畑の捕まえ手」というかなり重要な要素が出てくる。主人公ホールデンは自分がなりたいものとして、ライ麦畑で遊ぶ子供たちが畑の崖から転落するのを防ぐひとになりたいと語る。

『天気の子』におけるオッサン(須賀さん)はライ麦畑からの転落を防ぐひとに見える(主人公が警察に捕まるのを防ぐ)が、実際は本来の意味で転落を促している → オッサンはそれを自覚して、土壇場で主人公に手助けする

(ホールデンの語る、ライ麦畑から落ちるというのはおおざっぱに言えば「悪い大人になってしまう」「社会になってしまう」みたいな話。貧困に陥るとか社会保障から外れるとかそういう話ではないし、ライ麦畑の捕まえ手が社会保障を意味するわけではない)

オッサンの語るように「大事なものに順番がつき、それが変更できない」というのが「悪い大人」みたいなものの特徴。そのために彼は主人公を実家に返すという「大人な」社会的に善の判断をするが、その延長線上に一人を犠牲にしてみんなを救うという天気の巫女の人柱の思想がある。


このシーンはぱっと見ではオッサンは主人公が反社として逮捕され社会から落ちようとするがそれを受け止めようとする、と取られて「ライ麦畑の捕まえ手」だと見えるが、ライ麦畑の捕まえ手はそういうものではない。個人や思いより社会を優越させようとする考えに陥らないようにする、というのが「ライ麦畑の捕まえ手」であって、そこにオッサンは気づく。


そして捕まえ手としてやるべきことをやる。ここはちょっと感動的。なぜなら、ここでオッサンは主人公と同じく降り続く「雨」を受け入れる決断をしているからです。




割とみんな(抽象的な)「雨」に降られている。これは社会の悪意とか狂気としての「雨」

オッサン、妻の死。子から遠ざけられてる。
オバサン、就活としての雨(うまく行っていない)

オッサン、雨を受け入れた?
オバサン、?

オッサンは「雨」を抜け出すために子どもを引き取ろうとしている。そのためには主人公が警察に捕まるとまずい。だから主人公とその気持ちを犠牲にして雨を回避しようとしている。これは大切なことの順序をつけ固定している点でライ麦畑から転落しているのだが、雨を受け入れる決意をしたことでライ麦畑の捕まえ手に復帰している。

オバサンもそうで、前科が付けば就活も終わりだろうが、その辺の葛藤は彼女がムーの取材を楽しんでいる描写があるのであまり表面化していない。



『ライ麦畑でつかまえて』は世界の狂気を確認し、それを了解しようするができないがしようとする話であり、ややテーマが重なっている。

『天気の子』作中4分の1くらいで映るとき、本の半分くらいを開いて置いている、これは主人公ホールデンが世界をさすらってこの社会の狂気を確かめているところであり、作中主人公の前半とやや重なる

『ライ麦畑でつかまえて』ラスト
→土砂降りの雨の中で回転木馬に乗る妹を見て自分の生への可能性を感じる。そのときみんなが屋根の下に駆け込む中、一人びしょ濡れのままである主人公ホールデン

→『天気の子』での雨は「世界の悪意(狂気)」を表しているが、悪意を受けてでも生きていく決意を示していると読めるかもしれない。



なぜ「終わった世界でどうやって生きていくか」の部分があまり僕に合わないのか?


僕に合わない理由を問うので、自分語りが多くなる。

この映画は僕にヒットする要素が多い。それなのになぜ僕に合わないのか?

・登場する街のほぼすべてが僕の記憶にあるアングルだし、特に雪が降った日に散歩で辿ったルートはほぼ作中の雪の日と同じでびっくりした。

・雨が好きで、Youtubeで洪水や大雨の動画をよく探す。

・「雨」のない場所を探してひどい田舎から東京にやってきた人間である。(まだ雨のない場所を信じているという点では登場人物と反するが)

それだけ自分の好きには直撃のはずだが、いまいち乗れない


世界の狂気である「雨」を受け入れる話であるのだから、現状の雨とそれでもやっていく様子を描かなければならない
が、子供だけ世帯と家出少年という雨の状況はいったんチャラになってしまう

雨は続いているし、晴れではなく雨を選択したのだからその雨の様子、つまり、そのあとの二人……大学生と高校生……がどのような雨に遭遇し、それでもやっていくという決意を持つまでが知りたかった。

また、彼らの選択の結果としての水没した東京を丹念に書いてほしいなあと思った。せっかく代償としての喪失があるので。

終わった世界でそれを受け入れ、どのように生きていくかというのが自分の最大の好みであり、つまり当たり前となった絶望の上にどう希望を(空元気であっても)描くかというのが好き。ここにはそれが描かれるかなとの期待があったけれど、世界設定としては雨が降り続いているのに(世界の狂気が続いているのに)、実家に帰ったり(おそらく保護を受けたりで)主人公たちの状況はいったん好転し彼らの雨が降り止んでしまうように見える。ここが僕に合わない点。


『君の名は』は本当に受け付けなくて、たぶん世界と君を両方救う話であり、終わった世界が(見た目)回避されているというのが乗れなかった一番の理由なのだろうと思うが……(そもそも田舎は強い意味で終わった世界であり、そこは意見が一致する気がする)


映像としては僕の好きなものからだいぶ離れてきている。動かない背景の上に動くものがあるというのが好き。寄り過ぎと引き過ぎが好き。だけど『君の名は』からの2作は画面全てが動くし普通の距離の構図が多い(特にキャラクターの顔の動きが大きい)というのもある。特にそれまでの新海誠作品にあった、息を呑むような絵の美しさはかなり失われてきている感覚がある。(その理由は映像メディアに詳しくないのでわからない)



その他



ヒロインがスマホを持っていない意味は作劇以上にあるのか?
携帯電話がなければそもそもメールが届く距離もクソもないなあ〜と思った。
 

拳銃いる? 
作劇としては観客の注意をコントロールする(前半で映画に引き込む)ためにあったほうがいい。
世界に反抗する特別な力として女:晴れ、自然と戦う、男:銃、社会と戦うと比較できるが、銃は途中ずっと放棄しているので、最後に銃を手にしたときも偶然性が勝っていて主人公の選択の意思性をあまり感じなかった。

女:偶然にも晴れ女という自然をコントロールする力を得る。代償がある
男:偶然にも銃という社会をコントロールする力を得る。代償がある。

この対立を活かして
前半で銃によって問題を解決する→銃によって社会からなんらかの制裁を受ける→捨てる→ラストで警察に追い詰められる→ためらい悩む描写→銃を拾う
とすれば意思と決意の表現にもなるし主人公たちの能力が対等に扱われるのでより僕が好きになるプロットになる気がする。


それとヒロインが舞台装置と人格とをギリギリで行ったり来たりする感じを少し受けた。『君の名は』では両方の視点が入っていたので回避されていた気がするが、今作品はかなり顕著な気がする。

完全に唐突にモノローグで「意味」と言い始めるヒロインのところは笑ってしまった。

設定としての難しそうなところを神道っぽさと厚い雲のデカい絵で押し切ろうとするのは勢いがあっていいけれど、乗れるか人を選びそう。(『君の名は』の山頂のシーンで僕は乗れなかったが、今回は大丈夫だった。理由は分からない)

――ここは削除した――



田舎はそもそも終わった世界であり、晴れを探して東京にやってきたがそこでも終わっている、だけれど頑張ってやっていかなきゃならない、という感覚はわりと共有があると僕は個人的に思っているが、これが時代性なのか田舎が嫌いで東京に出てきた(逃げた)人間の性質なのかはよくわからない。

同様に、この世界は終わっているがそれを了解してやっていかなければならない、という世界把握はリアルにある程度の支持を得られると思うが、これが各世代それぞれnパーセントが支持するものなのか、時代性なのかはよくわからない。



この前友人7人と久しぶりに会った時、僕以外みんな『天気の子』を見ていて、僕だけ『天気の子』を見ていないことをなじられた際に、知ってるよ!貧困と革命の話でしょう!?とうそぶいたがそうではなかった。僕が見たい話を押し付けていました。でも僕は僕が見たい話を見たい。


最近『ひぐらしのなく頃に』を見直していたので、話の流れを見ながら「みんな大人とかに相談しようよ! 信じることこそが大切なんだよ!」と見ている間ずっと思っていた。


あと完全にデートムービーになっているらしく、いっぱいカップルがいた。




映画館からの帰りに紀伊国屋で気になっていた本を手に取った。井上陽水の曲をロバート・キャンベルが英訳したものだ。

井上陽水英訳詞集
https://www.amazon.co.jp/dp/4065131316/

「傘がない」を読んだ。
ここに『天気の子』の全てが書いてある気がした。
いまここにある、雨が続く世界でそれでも生きていくこと、それに尽きていた。そんな気がする。




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