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僕が選んだ道は「逃げ」だったのか

[目次〕
1.真夜中に友達から来たLINE
2.ちょうど一年前くらいのお話
3.本当の意味での多様性って何?
4.「すごい」人たち
5.極端にやる


第1章 真夜中に友達から来たLINE

ちょうど僕がLINEのアイコン画像を変えた時だった。
青森県の友達が僕に聞いてきた。
「これ何?」
その写真は僕がHLABのSHIMOKITA COLLEGE(学生、社会人向け寮)に2週間プログラムとして住んでいた時の写真だということを伝えると彼は、
「東京行ったらみんなそうなんだな」
そんな一言が返ってきた。
どういうこと?、シンプルにそう思った僕は彼と一時間くらい話し込んだ。
すると彼が言うには青森県の高校(彼が通っていることは進学実績が県内トップクラスと謳われている高校)には勉強でそんな時間ねぇんだよと言われた。
よく考えてみたらそうだった。
なんで彼にこんなくだらない質問をしたんだろうと思った。
だって僕が青森から東京に来たのはそういった青森県の高校の少し(彼曰く少しではない)封建的なところが嫌いだったから。

話は少し遡って中学生の時。
僕はいわゆる優等生だった。
真面目ではない生徒をひどく嫌い、挙句の果てに周りより勉強のできる自分はこの学校という中のヒエラルキーにおいて上にいると思っていた。
だけどそれは違った。(僕が違うと考えているだけかもしれないけど)
僕は野球部だったから荷物がすごく重かった。
ひどい日は10kgの荷物を登下校のときにもっていっていた。
「これって変!」
そう思った僕はこれを変えるべき、それまで不可能だったいわゆる置き勉強道具を可能にしよう!ということを先生に伝えに行った。
「僕は優等生だから」、そんな気持ちもあったかもしれない。

結果は見事総スカン。
先生たちは
「今までのルールは守らないといけないからそんなくだらないこと言ってないで我慢しなさい」
そう言い放った。

そこで僕は衝撃を受けた。
青森って封建的ってよく言うけど先生たち本当に封建的じゃん、と。
そこから学校、いや一部を除く学校の先生たちのことが徐々に苦手になっていってしまった。

そして先生たちの授業を聞くのをやめて自分で勉強、そしたら怒られる、また嫌いになる、そして自習する、こんなループが気づいたら始まっていた。

話を戻すとそんなこんながあって高校でもこんなことが起きるのは嫌だと思った僕は東京の制服も校則もほぼないような学校に通うことを決意した。
そんな僕が彼に何で時間がないの?なんて聞くのは愚問だった。
自分がなぜ東京に来たのかみたいなことを思い出すきっかけにもなったし、そういうソフト面での移動とかそういう問題じゃない忘れかけていた地方ならではの考え方(国立大学至上主義、県内高校に行け、東北大学が一番だ)を思い出した。

第2章 ちょうど一年前くらいのお話

そんな僕も当然受験期を迎える。
目指した高校は早慶付属校と呼ばれる、早稲田大学や慶応大学の付属校だった。

結構辛かった。
受験1年前、つまり今から2年前に恩師だった家庭教師の先生がいきなり亡くなった。衝撃だった。
参観日のある日、母親が顔色を変えて参観していたのを今でも覚えている。なんか変だな。そうは感じたものの僕は友達と体育の授業を楽しんでいた。その時間が終わってだ、母にちょっと来てと言われた。
僕には今100歳を超えるひいおばあちゃんがいる。
だから僕はひいおばあちゃんが亡くなってしまったのかと一瞬思った。
だけど母の口から思わぬ言葉が飛び出る。
「○○先生、突然亡くなったって、、、、、」

言葉すら出なかった。
意味が理解できなかった。
先週元気に共通の話題の野球について熱く語り、将来の青森県のことを語り、僕がどうなっていたいかをあんなに熱く語った先生が死んじゃった?、、、、、

そこから2週間のことは今もあんまり覚えていない。
本当だったら先生が来るはずだった日、僕は居ても立っても居られなくていつものように先生との勉強の準備を始めた。
でも当然先生は来なかった。

でもここでくじけたら今まで教えてきてもらった先生に失礼だ、そんな思いからなぜか不思議と頑張れた。最初は都会の子と比べて低かった点数もそのおかげか段々点数が上がってきた。

迎えた本番。
先生からもらった参考書と先生が死ぬ前の授業で忘れていってしまった外れたコートのボタンをもって受験会場に行った。

合格だった。嬉しかった。先生の最後の生徒として合格できた。その他にもいろんな先生に怒られて褒められて最後まで付き合ってもらって、物わかりの悪い僕を頑張って教えてくれた。塾の先生たちには感謝しかない。

だけども当然地方格差は感じていた。僕の場合たまたま周りの先生がすごく経験豊富で「都会の高校を受験したい」と言っても面白い!と言ってくれる環境だったけど、学校の先生に頼っていたら「無理だろ」とか「現実見て、青森のトップ高校に行きなさいよ」とかそういう言葉を数多く吐き捨てられただろう。

誰とは言わないが「別に近くの高校でいいだろ」とかいわれることもあった。でもなんでかわかんないけど僕は頑張れた。

第3章 本当の意味での多様性って何?

おかげさまで高校に合格し4月から東京の高校に通っている。

都会は僕にとって新鮮だった。いや、新鮮じゃないわけがない。
その新鮮さがだんだん新鮮じゃなくて日常になっていくにつれて、違和感を覚えた。

僕の高校にいるのはいわゆる「都会の大人」、エリートと呼ばれるような人たちの子供が多い。みんなの父親、母親は誰もが聞いたことのあるような企業に勤めていた。しかも塾も情報がたくさんあって、僕なんかよりも全然簡単そうに高校に入ったというじゃないか。

田舎の公立中学校には良くも悪くもいろんな子がいた。
ここでは書けないようなある意味での「真の多様性」があった。

だけど僕の通っている学校はどうだ?
みんな、全員が全員とは言わないがほとんどが「エリートの子」だった。

地方の公立中学校って真の意味で多様性がある場所だと思う。
社会の縮図だとも思う。
だけどもそんな中学校は僕にとってはそれが普通だったから何でもなかった。

そんな感じで、超異常な空間に毎日のようにいることで青森県の田舎こそ都会では可視化されていない日本の社会階層だったのだと逆説的だけど認知した。

第4章 「すごい」人たち

高校生活にも6月くらいには段々慣れてくるようになった。
そんな中先ほど書いた「超異常さ」を感じた僕は少しだけ学校に「いづらさ」みたいなものを感じていた。

そしたらどうなるか、答えは簡単で校外活動と呼ばれる、自分のプロジェクトであったり、学生団体に所属する、イベントに参加するみたいなものに時間を割き始めた。

そしたら「すごい」人たちがいっぱいいた。
皆さんもご存じかもしれないが地方の高校から世界的に有名な海外大学に進学した人、「東大王」で知っていたStanford e-Japanで優秀賞をとったバリバリのネイティブみたいな帰国子女、地方格差是正のために動いている人、そんな高校生や大学生が数えられないほどいた。

僕が一人であんなに背負っていた地方格差に対してこんなアプローチをしているのか、すごさと劣等感みたいなものを同時に感じた。

あれ?

こんなプロジェクトあるのに青森を出た自分って?

地方から海外の有名大学に行った人がいるの?

自分が地方だからといって諦めて、わざわざ大変な思いをして東京に来たのをそれよりも上の次元で解決しようとする人たちをみて、こんなことを考えた。

東京来た選択肢って「逃げ」だったのかな?

こんな悶々とした感情だったり、僕の友達が僕に言った
「東京行ったらみんなそうなんだな」っていう言葉だったりが僕にそう思わせた。

第5章 極端にやる

長くなったけどこれが最後の章だ。
ここまで読んでいただいた方には是非最後まで読んでもらいたい。

東京に来て、色々「すごい」人を知った。
そして地方格差というものに立ち向かわないで都会に来た僕はもしかしたら攻めの気持ちで東京に来たのではなくて「逃げ」の気持ちで東京に来たのかもしれない。

そうだとしてももがくしか道はない。
どれだけまわりが「すごい」と感じたとしても、東京に来たからには自分の目的を最大化したい。

それなら逃げる道を選んで、走ってもがいて、どんなに苦しくても自分がやりたい、やるんだ、そう決めたことをやり通すしかない。

もうすぐ東京に来て一年が経つ。
やると決めたことは極端にやる。

               完


        

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