僕が障害者教育を学ぶ理由

自分は障害=苦手と考えている。苦手が社会生活のなかで一人で生活できないレベルなら障害と呼べばいいと。つまり程度の差だと思っている。

だから地球上の人全員に障害があると思っている

実際にも知的障害や発達障害は多くの区分がある。軽度から重度まである。軽度の症状には多くの人が当てはまる。

たとえば自分は、プリントなどの紙を数えるのが苦手だ。10を超えると、わからなくなり何度もやったり、偶数ずつにしたりしてその場をしのぐ。ここから言いたいのは工夫によって生活がある程度保たれている部分の障害はいわゆる苦手のことじゃないかということ。

日本で障害者教育を学ぶ意義

日本人は0と1で考える癖がある。良いか悪い。好きか嫌い。

それはおそらく、日本が単一民族の島国で、当時の状況から鎖国という政策をとっていたことが原因にあると思う。

地続きの国はないため、日本という国が存続するには

日本対世界

と考え、とにかく努力するしかなかった。

しかし、それによって、自国の連帯感を高めて、今の世界での有数の先進国という地位を手に入れた。

しかし、その弊害が0と1、つまりゼロイチ思考だと考えている。

どういうことかというと、日本人は違いをとにかく嫌う。なぜなら違っているもの=だからである。それが内部にも影響しているのだ。

だから、健常者か、障害者の2種類の人間がいると考えてしまう。

ゼロかイチかである。

自分(健常者)とそれ以外(障害者)と考えてしまう。しかし冒頭にも述べたが程度の差である。

たとえば、人と一緒にいるのが得意な人は0.9で苦手な人(自閉症に人は他人に無関心)は0.3といった風に。


話はそれたが、障害者に対してそのような認識を日本人の多くが持つようになったら、様々な部分が変わると思う。

大きなことで言えば、

クラス全員を偏差値という一つの物差しで評価する教育、受験システムから、違いを重視した教育へ。

小さなことで言ったら

親が自分の子が他の子と違う部分を直そうと必死に怒るのではなく、その部分を他の親に自慢すると思う。

そんな日本を作りたい。作る必要があると思う。なぜならグローバリゼーションが進んでいるからである。

もはや

日本対世界なんて構図どこにもない。

あるのは日本は世界を平和へ導くためのリーダー国の一つであるということだ。

ここでone oj themの書き方をしたのは協力の重要性を述べたかったからである。今は島国によって生まれるメリットは極小である。インターネットがある。

つまり、日本は他の、特にアジアの国々と協力して世界を導くべきポジションにいるってこと。

それなのに、国民のマインドがオープンじゃないのはイケてない。

一番言いたいこと


同じ人なんて地球上に存在しない。

その違いによって人間の生態系は保たれていると言っても過言ではない。

しかし、日本では平均をとり「普通」の日本人像を作り、そことの差に焦点を当ててしまっている現状がある。


日本民族よ、ともにパラダイム・シフトを起こそう。

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