小野寺彩子のお悩み相談室!第3章「命短し恋せよ乙女!」

 初夏の放課後、僕と彩子は相変わらずお悩み相談室の部室で過ごしていた。だが、ここ数日にわたっていつもと様子が違っていることがある。まず、机と椅子がもうひとつ応対室に運び込まれたのと、彩子がその机に向かって英語の教科書とノートを開き、うんうんと呻吟していることだ。彩子は真剣に物事に取り組むと、いつのまにか眼が碧色に輝く。最初はいつ他の人にばれるんじゃないかとひやひやものだったが、どうやら彩子の輝きは僕以外の人には見えないらしい。

 光陽学園は私立なので一芸入試を採用しているのだけど、彩子も一芸入試で合格したものの一人で、彼女は弁論術を選択したとか。でも、実は彩子は英語が苦手だった。

 眼が碧色をしているときの彩子にたずねてみたら、視線を宙にやりながらこんな答えが返ってきた。

「それはねえ・・・。私は言霊がわかるの」

「へ?」

「はっきりいうと、ひとが口にした言葉の意味や、嘘か本当かがわかるってことね。そして、逆に私がその人に伝えたいことをはっきり思って言葉を口にすれば、相手にも私が何を思っているか伝えられる。だから実践英会話はできるんだけど、読解や英作文はちょっと苦手なのよねえ」

 再び教科書に目を戻す彩子。

 僕は英語には少し自信がある。

 教えてあげてもいいかなとは思ったのだけど、以前一度それを口にしたらすごい目でにらまれた。プライドが傷つけられたのかな。

 さわらぬ女神にたたりなし。

 僕は気分転換に、彩子が部室に持ち込んだ少女マンガを読むこととした。

 タイトルは「夢の碑(いしぶみ)」。木原敏江著。

 もう20年以上も前に発行された、日本の「鬼」を哀しくも美しく、儚げに描いた作品だ。

 何これ、すごくおもしろい!

 少女マンガには少年マンガとは一風違う繊細さや美学があることを知った僕はマンガに没頭した。どうせ相談者はめったに来ない。

 そう思っていたら、こんこんと部室の扉を叩く音がした。

「あの、どなたかいらっしゃいますでしょうか?」

 ひさしぶりのお客さんだ!

 教科書に向かっていた彩子も、マンガを読んでいた僕もそろって立ち上がる。

「小野寺彩子お悩み相談室にようこそ!どうぞお入りください!」

 彩子がよく通る声で扉の向こうに声をかけた。

「失礼します」

 おずおずと部室に入ってきた相談者は、身長155cmくらいの女子で、つややかな黒髪は肩よりちょっと長いくらい。紅いフレームの眼鏡の奥には藍色の瞳が深い輝きを帯びていて、その身にまとう雰囲気はクラシカルな言い方をするとまごうことなき大和撫子って感じ。

 さっそく相談室に案内して、話を聞いてみた。

「さて、あなたのお名前は?」

 相談者と向かい合ってソファに座った彩子が問いかける。

「斗真千佳(とうまちか)と申します。クラスは1年A組です」

「斗真さんね。さて、あなたのお悩みって何かしら?」

「あの、その・・・」

「何でもいいのよ、私もここにいる藤原君も秘密は厳守するわ。約束よ」

「はい、わかりました。実はある殿方に恋してしまって・・・」

 殿方、だって。外見だけじゃなくて、話し方までクラシカルなんだなあ。

 僕は変なところで感心した。

「ふむふむ。で、あなたが好きな男子って誰なのかしら?」

「ええと・・・ここでは・・・」

 こちらにちらちらと目を向けてくる。

「そうだね、男子の前ではいいにくいだろうな」

 僕は部室の外に出ていることにした。

 5分ほど待つと、扉が開いて彩子が手招きしてきた。

「もういいわよ。藤原君、入って」

 彩子の表情は微妙に引きつっていた。そして眼は碧色に輝いている。

 まずい。彩子はきっと何か怒っている。何があったんだ?

「おいおい、どうしたんだよ?」

「いいからこっちに来なさい」

 彩子は僕の腕をひっつかむと相談室の中までひっぱっていった。

 ソファに座っている斗真さんは膝の上で両手をもじもじさせながら、やや下を向いて顔を真っ赤にしている。

 これはいったい?

 とまどっている僕に彩子がいった。

「よかったわね、藤原君。斗真さんが好きな男子はあなただそうよ」

 あまりのことに僕はあごがかくんと落ちた。

 

 しばし呆然としていた僕は正気に戻ると、斗真さんにちょっと待っていてくださいと告げて、彩子と共に応対室に移動し、事情を聞くことにした。

「斗真さんが僕を好きって本当なの?」

「もちろん本当よ。私は言霊がわかるっていったでしょ。彼女の言葉に嘘はなかったわ。よかったわね~藤原君、あんなかわいい子に好かれちゃって」

 僕の脇腹を肘で小突いてくる彩子。眼はあいかわらず碧色のままだ。

 ああ、どうしようどうしよう。

 たしかに斗真さんはかわいいし、まじめそうだし、彩子が保証するんだから嘘はついてなさそうだけど、僕は今まで女の子から好意を寄せられたことなんかない。

 心臓はばくばく、頭は混乱。

「藤原君、そんなに悩むことないじゃない」

「へ?」

「おためしでしばらくつきあってみればいいのよ」

「そんなことできないよ!」

「何をいってるの。おつきあいしてみればあの子のことを好きになるかもしれないでしょう」

「そんなもんかな?」

「藤原君は背も高いし、デブじゃないし、顔もそんなに不細工じゃない。男ならどーんと行っちゃえ!」

 僕は彩子から背中をばしばしと叩かれながらそれらの言葉を聞いていた。

 きっと彩子は態度がはっきりしていない僕に気合を入れたかったのだろう。

 かくして僕は相談室に戻り、両手を膝の上でもじもじさせていた斗真さんに

「あ、ありがとう。よろしくお願いします」

 と告げた。

「ありがとうございます。ふつつかものですが、よろしくお願いします」

 斗真さんはまるで華のように顔をほころばせ、ふかぶかとおじぎをした。

 彼女の言葉遣いや立ち居ふるまいはこんな時でもクラシカルだった。

 その後、僕と斗真さんは彩子のすすめもあって駅前のモサバーガーに寄ることにした。

 僕にとっては初デートだ。(彩子と来たときはカウントに入っていない)

 このお店は表通りに面しているので、ボクシングジムの仲間に見つかったらあとでどう冷やかされるかわかったもんじゃない。僕たちは奥のテーブルを選んだ。

 注文しにカウンターに向かうと、以前お悩み相談室に訪れた玲ちゃんが応対していた。

 しまった。彼女がこのお店でバイトしているのを忘れてた!

 玲ちゃんはいつものように明るい笑顔で

「いらっしゃいませ!モサバーガーへようこそ!」

 と、いったとたん、さらににこっとした。僕の側にいた斗真さんに気がついたらしい。

 数分後、僕たちが注文した品をテーブルに持ってきた玲ちゃんは僕にこそこそっと話しかけてきた。

「小野寺先輩以外の女子とデートなんて、藤原先輩もすみに置けませんね。A組の斗真さんでしょう。知ってるんですよ」

「いいから仕事に戻りなよ」

「おいしい・・・」

 ハンバーガーをひとくち食べた斗真さんは感に堪えないといった様子でうなずいた。

 彼女は最初ハンバーガーをちぎって食べようとしたのだが、バンズにはさまっているトマトの果汁で指が汚れるし、中身がこぼれるからかじりついた方がいいよと教えてあげたのだ。

 彼女はこういったファーストフードに来たのは初めてとのこと。

「もう一個いただきますね」

 ぱくぱく。

「もう一個いただきます」

 ぱくぱくぱく。

 モサバーガー、モサチーズバーガー、モサハラペーニョ、斗真さんは3種類のハンバーガーをぺろっと平らげてしまった。

 ここのハンバーガーはかなり大きく、僕が食べるとなったら2個が限界だ。

 どうやら彼女は潤沢なお小遣いを持っていることと、見かけによらない大食漢であることがわかった。

 アイスコーヒーをすすりながら、僕は斗真さんにいちばん聞きたかったことを尋ねてみた。

「斗真さんは、何で僕のことを好きになったの?」

「それはですねえ・・・」

 斗真さんはしばらくの間ひとさし指でテーブルに「の」の字を書いていたのだけど、意を決したのか、面を上げて静かにこういった。

「藤原様が強いお心を持ってらっしゃると知ったからです」

「うん?」

「藤原様は長い間イジメに耐え続け、小野寺様のお力添えはあったそうですが、ついにはイジメグループを壊滅させたとか。それは強いお心の持ち主でなければできません」

 彼女は凜として応えた。

 この子は本当に本気なんだ。

 彩子が保証するだけのことはある。

 アイスコーヒーを飲み終わると、とりあえず携帯の番号とメールアドレスを交換して席を立った。

 ふたりして並んで、ときどきおたがいの様子をうかがいながら柏駅西口バス停まで歩いた。

「お名残惜しいですが、今日はここで失礼します。夕食に遅れると祖父に叱られますので。では、ごきげんよう」

 あれだけ食べたのにまだ夕食がおなかに入るのか。

 家に帰って寝る前に携帯をチェックしたら、斗真さんからのメールが届いていた。

「今日はありがとうございました。またよろしくお願いします」

 2週間後の日曜日、僕と斗真さんは上野行きJR常磐線快速電車に乗っていた。

 斗真さんが「メイドカフェというところに行ってみたい」と言い出したのがことの始まり。

 当然のごとく僕はメイドカフェなんか行ったことない。

 あらかじめ僕は放課後漫研の部室に行って、同じクラスの吉田くんにどこかいいメイドカフェはないかと尋ねてみた。それもなるべく上品なお店がいいと。

「あ、おまえ小野寺とデートだろ。まあ、あいつ確かに美人だけどお前も物好きだよなあ」

 はははと大声で笑う吉田くん。

「いやちがう!よけいなこというなよ、他の部員たちも聞いているだろ」

「まあいいからいいから。女子を連れて行っても大丈夫なメイドカフェというと『シャッツェ』がいいな。あそこなら上品だし、静かだぞ」

 備え付けのデスクトップパソコンでWebサイトを開く吉田。

 横からのぞき込むと、白と青を基調としたHPのデザインは確かに落ち着いていて気品が感じられた。

 ここなら大丈夫そうだ。

 そのお店はメイドカフェがそこかしこにあるらしい秋葉原の中心部から少し離れた末広町にあった。

 常磐線に乗って終点の上野から銀座線を利用するのがいちばんいいだろう。

 僕は吉田にアクセスマップをプリントしてもらった。

 当日の格好は、僕は彩子から「気合を入れていきなさい!」とのアドバイスを受けて、おしゃれめのチェーン店で買ってきた白の長袖シャツにスリムジーンズ。

 斗真さんは薄黄色のワンピースに白いサンダル、それに初夏の日差しが気になるのかつば広の白い帽子をかぶっている。そして紅いフレームの眼鏡。

「さ、参りましょう」

「は、はい!」

 上品なお嬢様としかいいようがない斗真さんからにこやかにあいさつされた僕は思わず背筋がぴんと伸びた。

 日曜日のお昼の常磐線は結構混んでいる。

 自然と寄り添うように立つ僕と斗真さん。

 斗真さんは僕よりずっと背が低いので、見上げるようにしてにこにこ笑っていたが電車が北千住を過ぎたとたん、その表情が急に険しくなった。

 ぶるぶると震え出す。

 いったい何があったんだ?

 注意深く辺りをうかがうと、30代くらいの男が斗真さんのお尻に手を伸ばしているのがわかった。

 なんてことを!

 腕をつかんでひねりあげてやろうとちょっと動いたら、斗真さんが目顔で僕を抑えた。

 いつのまにか震えもおさまっている。

 そして電車が南千住に着いたと同時に彼女が声を発した。

「失礼な殿方ですね!」

 ぐしゃっ。

 斗真さんの後ろかかと蹴りが痴漢の股間に炸裂したのだ。

 「ぐうぅっ!」

 それまでにやにやといやらしく笑っていた痴漢の顔が真っ青になった。

 直後、開いたドアからすたすたと出て行く斗真さん。

 今まで彼女のお尻を触っていた痴漢の手首を片手にひっつかんでずるずると引きずっている。

 あわてて僕も電車から降りた。

 南千住のホームには全くといっていいほど人がいない。

 電車のドアが閉まると、斗真さんはまるで能面のような無表情で、両手で股間を押さえてのたうっている痴漢を見下ろし、おしゃれなサンダルで情け容赦なくがすがすと蹴り始めた。

「卑劣な殿方にはお仕置きです」

 静かにつぶやく斗真さん。

「ぎゃあっ!痛い痛い!やめてやめて!ごめんなさいごめんなさい!」

 両腕でかろうじて頭部をかばいながら泣き叫ぶ痴漢を目の当たりにした僕は唖然となった。

 あのたおやかな斗真さんがこんなことをするなんて。

 いや、それよりいくら人がいないとはいえ、誰かに目撃されて駅員を呼ばれたらまずい。

 悲鳴を上げ続けている痴漢の身体は斗真さんのサンダルの跡で見る見る埋まっていく。

 第三者からはどう見ても僕たちの方が加害者だ。早く止めなきゃ。

 でも斗真さんは僕が止める前に蹴りを入れるのをやめて、すっと振り返った。

「さあ、藤原様。参りましょう」

 にっこりとほほえみかけてくる。

 さすがにその場で次の電車を待っていたら誰かがやってくるのに違いなかったので僕たちは痴漢を置き去りにして、速やかにつくばエクスプレスのホームに移動、秋葉原へ向かうことにした。

 秋葉原駅から末広町まではけっこう歩く。

 そして日曜日の秋葉原電気街通りはものすごい数の人たちでとても混雑している。

 不届きな痴漢のせいでだいぶ遠回りをすることになったので、僕は心の中で罵った。

「いかがされたんですか?こわい顔をなさって」

 不意に斗真さんがのぞき込んできた。

 いかん、つい顔に出ていたらしい。

「な、なんでもないですよ」

「秋葉原ってにぎやかな街なんですね。地元に比べると全然違います」

 ものめずらしそうに辺りを見回す斗真さん。

 それにしても彼女はすごい。

 さっき痴漢に蹴りを入れていたとはとてもうかがい知れない、

 いつもの大和撫子然とした優雅な立ち居振る舞いに戻っている。

 斗真さんって、いったいどんな心の持ち主なんだろう?

 秋葉原の電気街を歩くと色とりどりの格好をしたメイドさんたちがそこら中で呼び込みをしているのが目に付くけど、末広町まで行くと急に雰囲気が静かになってそういった女性たちは全くいなくなる。

 お目当てのメイドカフェ、シャッツェは看板も決して出しゃばることなく周囲になじんでいて、扉を開けると中から甘い焼き菓子の香りがしてきた。

「いらっしゃいませ。おふたり様ですね。このお店は初めてでいらっしゃいますか?」

 応対してくれたメイドさんの服装は袖は手首まで、スカートは足首まで届く清楚な黒いワンピースに真っ白なエプロン。

 そして暖色系の明かりに照らされた壁は各所が天井まで続く本棚になっていた。

 斗真さんは

「まあ、素敵なお店!藤原様、ありがとうございます」

 と、うきうきしている。

 僕たちは壁際にある4人掛けのテーブル席に案内された。

 メイドさんがシステムを説明してくれる。

 この料金なら長居しなければモサバーガーに比べてもそう高くない。

 ためしに二人してスコーンを頼んだら、しばらくして焼きたてがやってきた。

 斗真さんは熱い熱いといいながらも、上品にスコーンをちぎってほふほふと食べている。

「私、こんなおいしいもの食べたのは生まれて初めてです」

「え、女の子ってこういうお菓子をよく食べてるんじゃないの?」

 いまどきファーストフードに行ったこともなければスコーンも食べたことがない女の子がいるなんて信じられない。

「私の家で甘いものというとお団子やおはぎが主なものですから」

ふうん。徹頭徹尾、和風なんだなあ。

「お正月はお餅も搗きます。ぜひ食べにいらしてください」

スコーンを食べ終わった後、僕はさっきから不思議に思っていたことを軽く尋ねてみた。

「斗真さん、さっきは。お見事だったね!しかもあんなことがあったのに今はごく平常心を保っているように見えるし。僕はボクシングを習っているんだけど、ひょっとして斗真さんも何かやっているのかな?」

「ああ、あれですか・・・お見苦しいところを」

 うかない様子。

「あの、気が進まなかったら話してくれなくてもいいよ」

 僕はあわてていったが彼女は答えた。

「私、斗真流という家伝の武術を受け継いでいるんです」

「そんな武術があるの!?」

「別に珍しいものじゃありません。おとなりの野田市には忍術の宗家がいらっしゃいますし。曾祖父は昔、満州に渡ってお国のために働いていたとか。そんな武術家は他にもいらしたそうです」

 僕も本で読んだことがある。

 満州というのは昔、日本が名付けた中国の東北部のことだ。

 当時その地は、かつて大日本帝国と呼ばれていた日本の一部だった。

 港町でもあった国際都市、上海(ここは満州ではなかった)や大連には「租界」と呼ばれる外国人居留地があって、日米欧中露の勢力が人知れず裏の世界で鎬(しのぎ)を削っていたそうだ。

 そして満州にはもちろん日本の軍隊や大陸浪人と呼ばれた異国の地に向けて野望を燃やした日本人たち、外国人勢力に対する中国人たちの秘密組織に中国国民党の軍閥などが群雄割拠する激動の地でもあったはずだ。

「それって、もしかして君のひいおじいさんは・・・」

「ええ、曾祖父は私たちの国、日本の諜報機関に所属する特務工作員でした。もっとも実際の諜報活動よりも要人警護に当たることがほとんどだったそうですが」

 にっこりと笑う斗真さん。

「そして父はもうこの日本に武術は必要ないといって斗真流を捨てたのですが、祖父は斗真流が途絶えるのが残念でならなかったのですね。一人娘だった私は5歳の時から祖父に斗真流の継承者として手ほどきを受けました」

 斗真さんはごく淡々と自分のことを語った。

「最初は楽しかったんです。父は黙っていましたが、上達するたびに祖父は喜んでくれましたし。私は懸命に斗真流を学びました。でも、15歳になった頃から私は自分の生き方に疑問を持つようになったのです。私もまた、ひとりの乙女です。他のお友達がするように、街を歩いておいしいものを食べたり、それに・・・素敵な殿方と恋もしてみたかった」

 僕は彼女の話をただ黙って聞いていた。

「私は中等部を終えるときに祖父に話しました。もう斗真流を離れたいと。そうしたら祖父はお前にはお前の道がある、好きな道を歩みなさいと笑って許してくれました」

 斗真さんの他人からはうかがい知れないところはそういう生い立ちから来ていたんだ・・・。

「ですが、私は祖父を裏切ったんだという思いがこみ上げてきてしまって、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえなければなりませんでした。私にとって斗真流は人生そのものだったのです」

 彼女はしばらくのあいだ沈黙し、そしてにっこりと僕にほほえみかけてきた。

「だけど今、私はとっても幸せです。いままで食べたことがないおいしいものを食べることも、素敵な殿方との逢瀬を楽しむこともできました。願わくば、この幸せがずっと続けばいいと思っています」

 彼女はまるで夢見るような、潤んだ瞳で僕を見つめている。

 でも、僕は返事ができなかった。

 このまま、いい加減な気持ちで斗真さんとおつきあいしていていいんだろうか?

 僕はずっとストローでアイスティーをかき混ぜていた。

 心の中で、あの碧色の輝きが閃いた。

 次の金曜日、僕は斗真さんに

「すこしお話がしたいので今日の放課後、屋上で会いましょう」

 とメールし、放課後はとりあえず部室に顔を出して、彩子にちょっと出かけてくると声をかけた。

 彩子は英語の教科書から顔を上げて

「あらそう、いってらっしゃい」

 とだけ応え、ふたたび英語に取り組み始めた。

 階段を昇って屋上に出ると、壁のそば、ひざの下でスカートを押さえてちょこんと体育座りしている斗真さんがいた。

 僕は黙って斗真さんの右に並んで腰を下ろした。

「藤原様から誘っていただけるなんて...どんな御用ですか?」

 僕の方に首を振り向けて斗真さんが話かけてきた。彼女はいつものようにほほえんでいる。

「このあいだの日曜日のことなんだけど、斗真さんは恋がしたいっていっていたよね」

「はい」

「斗真さんにとって、恋ってどんなものなのかな?僕は好きな女の子がいたことはあるけど今まで恋ってなんだろうって、考えたことがないんだ。このあいだ初めて少女マンガを読んだくらいだし。だから教えてくれないかな」

「そうですね...」

 斗真さんはしばし考え込んでこういった。

「恋とは心だそうです。人を好きになる心。その人から好きになってもらいたいと思う心。そして時にはそんな自分を抑える心。それが恋というものだと、私は書物から学びました」

「そうか、そういうものなんだ」

「そうだと思います」

「じゃあ、僕もいま、恋をしているな」

 斗真さんの顔がぱっと明るくなった。

「だけど、僕が好きな人は斗真さんじゃないんだ」

「えっ・・・」

 彼女の顔がみるみるうちに曇っていく。

「斗真さんは、さっき恋は心だといったよね。知っての通り、僕は長いことイジメられていた。そして斗真さんは、そんな僕がイジメを跳ね返す強い心を持っていたから好きになったといってくれた。僕の外見じゃなくて、心を好きになってくれたこと、とってもうれしかったよ」

 斗真さんはただだまって、紅いフレームの眼鏡の奥の藍色の瞳で僕のことを見つめていた。

「でも、僕の心は変わらない。他人から何らかの力で強制されても、人の心は変えられないんだ。君がおじいさんに斗真流をやめるといったとき、おじいさんは笑って許してくれたそうだね。おじいさんも、君の心は変えられないってわかってたんだよ。きっと。だから、僕は君とはおつきあいはできない」

 僕は静かに告げた。

 彼女がうつむいて肩をふるわせているのが見える。

「ごめん」

 僕がいえる言葉はもうそれだけしかなかった。

 斗真さんはしばらく肩をふるわせていたが、やがて、うふふふふという声が聞こえてきた。

 彼女は笑っていたのだ。

 そしてすぱっと顔を上げて、こういった。

「やっぱり藤原様は素晴らしい殿方です」

「へ?」

「お心が強いだけでなく、誠実で、思いやりがあって、ほんとうに素敵」

 斗真さんはいつもの柔和な笑顔に戻っていた。

「私、藤原様に恋して、本当によかったです。そして、私が藤原様をお慕いする心もまた、変えられません。それに・・・」

「それに?」

 斗真さんはいたずら好きの子供のような表情で僕の鼻先をちょんとつっついた。

「片想いだって、立派な恋だそうですから」

 すっと一挙動で立ち上がる斗真さん。

「では、ごきげんよう」

 お辞儀をした彼女は静かに屋上から歩み去っていった。

 しばらくして、僕も立ち上がって屋上を後にしようと出口をくぐった瞬間、いきなり横から声をかけられた。

「本当にいいの?」

 彩子だ!思わず身構えた。

「いつからそこにいた!?」

「いつからだっていいじゃないの。それよりも斗真さん、本気だったわよ。たおやかで、上品で、人をだましたり、嘘をついたり、ましてや恨んだりもしない。そんな素敵な女の子から告白されるなんてほとんどあり得ないことよ」

 ゆっくり近づいてくる彩子。

「それをこんなかんたんに袖にしちゃって、本当にいいの?もったいないんじゃない?」

「・・・いい」

「本当に本当?」

 女神にうそは通じない。

 そして僕の心の中にはいまや確かな碧色の輝きがある。

 僕は宣言した。

「僕が好きな人は君なんだ」

 そのとたん彩子の眼が碧色の火を吹いた。

 しまった、地雷踏んだ?

 僕は彩子に両手でがっしと胸ぐらを掴まれ、頭上高く引き上げられた。

「まさかあなた...なんてことを」

 食いしばった歯と歯のすき間から漏れ出るような声が聞こえてくる。

 はっきりいって、ものすごくおっかない。

 でも、ここで退いたらただのいくじなしだ。

 そして僕はいくじなしにだけはなりたくなかった。

 大きく息を吸って思い切り叫んだ。

「僕が好きなのは君だ!僕をイジメから救ってくれたのは君だ!僕が強くなれたのも君のおかげだ!君以外の女はもう眼に入らない!全身全霊全存在をかけて誓う!誓います!」

 彩子の顔が真っ白になり、次の瞬間、ぼっと赤くなった。瞳が碧色だからまるで信号機だ。

 胸ぐらを掴んでいた手がぱっと離れた。どさりと床にへたり込む僕。

 肺は酸素を求め、のどはぜいぜいと音を立てる。

 彩子は僕に背中を向けていった。

「ふん。どうやら本気のようね」

「言霊がわかる女神にうそが通じるわけないだろ。本気中の本気だ」

「じゃあいいわ、なってあげる」

「え?」

「あなたの恋人になってあげるっていってるのよ。何度もいわせないでよ!はずかしい!」

 なんだこれ?僕の中に何かが流れ込んできた。それも心なしかぽっぽとあったかい。

 そうか、今の彩子の言葉には言霊が宿っているんだ!

 彼女はいっていた。

 彩子が人に伝えたいことをはっきりと思って口にすれば、

 相手にも彼女が何を伝えたいかわかると。

 彩子は本気で僕の恋人になるといってくれてるんだ!

 くるっと振り返る彩子。

「さて、私はあなたの恋人となったわけだけど、あなた確か成績優秀だったわよね?」

「自慢できるほどじゃないけど」

「あなたは自分の恋人が単位を落としたり、補習を受ける羽目になったらどうする?」

「もちろんいやだ」

「その意気や良し!」

 彼女は傲然と胸を張った。その豊満な胸がいっそう盛り上がる。

「今日からあなたは放課後、部室で私に英語を教えてくれること。いいわね?」

 彩子は僕に指を突きつけてにまーっと笑ったが、まだほんのりと頬が赤いのを僕は見逃さなかった。

「はい、喜んでやらせていただきます」

「じゃあ、さっそくお願いするわ!」

 彩子は僕の手を握ってひっぱり起こしてくれた。

 僕たちはうすぐらい階段の窓からさす陽の光の中、部室に向かった。

 僕は思わずスキップしたくなるのを懸命に抑えた。

 それから3日後、月曜日の放課後。

 僕が部室に入ったら、見覚えのある姿があった。

 斗真さんが応対室の壁際、茶棚が置いてある机に向かってなにやらやっている。

 何で斗真さんがここにいるの!?

「こんにちは。藤原先輩」

 彼女はちょっと首を傾けて、にっこりとあいさつをしてくれた。

 斗真さんは左手を複雑な色合いをした焼き物に添えて、右手は茶筅を手にしている。

 どうやら抹茶を点てているらしい。

 彩子は相変わらず英語の教科書を前にうんうんうなっている。

 僕は彩子に近づいて囁きかけた。

「なんで斗真さんがここにいるんだよ?」

「決まっているでしょう。新入部員よ」

 彩子はうざったそうにいった。

「彼女、どうしても藤原君のことがあきらめきれないそうなの。そして私と行動を共にすることで女子としての生き方を学びたいんだって。いやあ乙女心って、甘酸っぱいわねえ」

「感心してる場合かあ?僕の恋人は君だろ!自分から恋敵を増やしてどうするんだよ!」

「まあいいじゃない。彼女嘘はついてないし、私は女神としては寛大な方だし、恋人候補の二人や三人はいるくらいの魅力ある男性こそ私にはふさわしい。それに私は女神なのよ。そんじょそこらの女の子に自分の恋人を奪われるほどまぬけじゃないわ」

 あっけらかんといい放つ。

 僕は開いた口がふさがらなかった。

 いったいなんなんだこの女神は!?わけわからないよ!

「あと、藤原君のために交換条件もつけてあげたし」

「それってどんな条件?」

「藤原君に斗真流を教えてあげること。藤原君も自分自身の截拳道を完成させるためにはボクシングだけじゃなくて、日本の武術も習った方がいいんじゃないかしら?千佳ちゃん、喜んで承知してくれたわよ。彼女まじめだし、なんていったって自分の想い人の役に立てるんだからきっといい先生になるわね」

「日本の伝統武術を宗家から直接学ばせてもらえることは、とてもうれしいけど...」

「あなたは私が恋人になったのと、斗真流が学べるから二両の得。千佳ちゃんは想い人と一緒にいられるのと、この部に参加できたのでやはり二両の得。私は恋人ができたのと、英語を教えてもらえるのと、新入部員が来てくれたのとでなんと三両の得!これぞ三方合わせて七両得よ!ねえ、私って大岡越前よりすごいと思わない?女神だけあって」

 僕は疲れた。こんなトンデモな女神にはもうあきれるのを通り越して言葉もない。

「さあそんなことより、早く英語を教えてちょうだい」

 そんなやりとりをしている僕たちに、斗真さんが抹茶の入ったお茶椀を持ってきてくれた。

「これからもよろしくお願いしますね。藤原先輩」

 彼女が点ててくれたお茶は口に含むと香りがふんわりと鼻の奥に広がり、まろやかな苦みの中にちょっぴり甘さがあって、とてもおいしかった。 

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