「小野寺彩子のお悩み相談室!」第4章「恋はドッグファイト!」

小野寺彩子のお悩み相談室!

第4章:「恋はドッグファイト!」

さて、以前お話ししたとおり、僕は僕自身の武術、僕だけのスタイルの截拳道(ジークンドー)を型造るべく、地元の柏市にある元世界チャンピオンが会長のボクシングジムに通っていたが僕と部長の小野寺彩子の部活、「小野寺彩子のお悩み相談室」に新入部員の高等部1年生
斗真千佳さんが入部して、彼女の継承する日本武術斗真流を学ぶことで、様相が一気に変わった。
何せ斗真さんのひいお祖父さんは、かつて満州で大日本帝国政財界要人のボディガードをしていた達人だ。
そして斗真さんは現存する「本当の」斗真流武術を受け継ぐ武術家のひとり。本物中の本物。
僕がそう言ったら斗真さんは
「そんなことはないですよ。私ぐらいの使い手ならこの世界に掃いて捨てるくらいいるはずです。本物の武術家になるには、まだまだ修行を積まなければ」
と、紅いフレームの眼鏡越しににっこりほほえんだ。

 斗真さんの元で修行を始めるにあたっては、
「まず祖父の許しを得ないと」
 とのことだったので、僕と斗真さんは光陽学園前からバスに乗って柏市のさらに北部まで行くこととなった。
 バス停で降りて徒歩3分。
 びっくりした。斗真さんの家はとても大きい。
 どう見ても敷地が500坪はある。
 斗真さんにたずねたところ、ひいお祖父さんが大陸から持ち帰ってきたお金で土地を買ったとのこと。どうやって得たお金かは聞かなかったが、政財界の要人のボディガードをするくらい【つまりいざとなったら身を挺してでも要人を守る】だったのだから、それなりの金額はもらっていたのだろう。
 当時の柏は、「市」じゃなくて「町」だった。
 当然土地の価格は現在とは比べものにならないくらい安かった。
 北西部には、帝国陸軍航空隊の基地があって二式戦闘機「鍾馗」や四式戦闘機「疾風」が配備されていたそうだが,終戦後、航空隊の基地は米軍の通信基地となり、平成と呼ばれる時代の少し前に日本に返還され、今では巨大なホームタウンとなっている。

 表門をくぐって、芝生に点在する敷石の上を歩いて行くと、庭の中左手に一軒家があった。ここが斗真流の修練場だそうだ。
 そのまま修練場の横を通り過ぎて母屋の中に入り、靴をそろえて床に上がって、斗真さんの案内で奥の間に通された。
 薄暗い奥の間は16畳くらいの広さで、床の間を背後に、白髪の小柄な老人が座っていた。
 老人の名は斗真弦充郎。
 斗真さんのお祖父さんだ。
「千佳や。私はこの御仁との話がある。お前は控えていなさい」
「はい」
 斗真さんはしゃがんだまま、すっとふすまを閉めた。
 僕は何をどうするかも分からなかったが、弦充郎さんの目顔に促されて弦充郎さんからだいたい2mくらい離れた位置に置いてあった座布団に腰を下ろした。もちろん正座だ。

 弦充郎さんがまず口を開いた。
「藤原さんとおっしゃいましたね。うちの千佳がお世話になったそうで、ありがとうございます」
「いえいえ、僕はそんなことは何もしていませんが・・・」
「いやいや、私は驚いたのですよ。まさか、千佳が再び斗真流を学び直したいといってきたのには。それも、自分のためだけでなく、自分が好いた男の子(おのこ)にも斗真流を学ばせたいというのですからもう」
 うれしそうに話す弦充郎さん。
 すでに齢80を超えているそうだが、外見からはとてもとても。そう、50代後半くらいにしか見えない。

 弦充郎さんは僕にたずねた。
「藤原さん、あなたは『武道』とはいかなるものととらえておられますか?」
 しばし考えた。
「武芸を磨き、己の心身を錬磨することで自分自身を追求する方法だと思っています。それゆえに『道』かと」
「ふうむ、よろしい。では『武術』とはいかに?」
 これには困った。
 僕が考え込んでいると、弦充郎さんが先に答えをおっしゃった。

「『武術』とは『術』ですよ。技を錬磨することで己の精神を高めようとするのではなく、生き残るために必死になって生まれた技が『武術』なのです。だから、どんなきたない手段を用いようが、戦いを避けて逃げ回ろうが、最終的に生き残れればそれでいいのです」
 弦充郎さんはにこにこと笑いながらおっしゃった。

「でもね、藤原さん。そんな風に戦いをとことんまで避けるのが武術家なのですが、どうしても、やむにやまれず戦わねばならないときがあります。それはいったいどんなときでしょうね」
 今度はすぐに答えられた。これは武術を学ぶ者にとってのいろはだということを弦充郎さんは僕に伝えたかったのだ。
「暴力、戦争、犯罪、ありとあらゆる種類の理不尽から己と己の家族、恋人、友人を守るときだと思います」
「よろしい!」
 ぱんっ!
 弦充郎さんがひざを叩いた。
「藤原さん、あなたには斗真流を学ぶ資格があります。どうかこれからよろしくお願いします」
 弦充郎さんは畳に両手をついて、額が畳につかんばかりに深々とおじぎをされた。
 つられて僕も深々とおじぎをした。

 しばらくして、弦充郎さんが頭を上げてこういった。
「藤原さん、実は千佳のことで、たいへん申し上げ難いのですが・・・」
「はい?」
「私はあれを甘やかしすぎました」
「は?」
 あの大和撫子そのものといわんばかりの斗真さんが?

「私はあれに斗真流を学ばせはじめてから息子夫婦に家を出て行かれましてね。息子は現代のこの平和な日本に斗真流は必要ないといって斗真流を捨てたのですが、自分の娘の千佳が斗真流の継承者として学びはじめたことで絶望したのでしょう。だから、私はあれを甘やかしすぎました。女子として、人として当然学んでおくべきことからまでもあれを遠ざけて、斗真流さえ身につけばそれでよいという風にそだててしまったのです。拳闘の世界チャンピオンたちが人を殴ることしか知らないまま大金を手にして、お金の使い方も、働き方も知らずに没落していったことはご存知でしょう?」
 そのたとえはとてもよく分かった。
 元ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンがいい例だ。

「ですから藤原さん、あれは初恋に墜ちたことで自分の感情を抑えられなくなり、これから先必ずとんでもないことをしでかすと思います。そのときはどうか、あれを止めてやってください。お願いします」
 僕はふたたび弦充郎さんから深く深く頭を下げられた。
 僕は何をいっていいものやら分からなかった。

 話は少し逆戻る。
 僕が截拳道の修行の一環として、柏神社の裏手にあるボクシング元世界チャンピオンが教えてくれるジムに訪れたときのことだ。
 時間はすでに午後5時半過ぎ。ジムには僕と同じくらいか中には中学生としか思えない子まで柔軟やシャドー、サンドバッグ打ちなどを黙々とこなしている。
「こんにちは!よろしくお願いします!」
 僕はできるだけはっきりとした大きな声であいさつをした。
 自分が知らない世界に入っていくときは、まず自分からきちんとあいさつをして、自分が周りのみなさんに敵意がないこと、みなさんをきちんと尊重していますよとシグナルを送ることが重要だと思ったからだ。

「おお、元気いいね。入門希望かい?」
 まず真っ先にあいさつを返してくださったのは、まさにこのジムの会長、元世界チャンピオンだった。
 日本人キラーと呼ばれた南米人を左ボディストレートで窮地に追い込み世界王座を奪取された方だ。
 色白の細面に細い黒縁の眼鏡をかけたその姿からは、かつて世界チャンピオンだったオーラは感じられなかったが、そのかわり、眼鏡の奥の柔和な瞳からはとてもふところが広い優しさを僕に感じさせてくれた。

「はい!いままで運動には縁が無かったのですが、突然やってみたくなりまして・・・」
 僕はあえて言葉を濁した。自分の武術の完成のためにボクシングを習おうとしてるだなんて分かったら、ボクシングを侮辱されたと思われるかもしれない。
「そっかあ、未経験者なんだね。まあ君、背高いよな。何cmあるの?」
「180cmです!」
「うわお、体重は?」
「60kgです!」
「ふう~む、スーパーフェザー級だね。それでこの長いリーチはすごいなあ。君ならきちんと練習すればきっと強くなれるよ!」
「はい!ありがとうございます!」
 僕は素直に頭を下げた。

 僕はまず、立ち方、構え方から教わった。
 僕は右利きなので、ボクシングでは本当なら右拳を後ろに構えるオーソドックススタイルなのだが、右拳前の方が構えやすいといって、むりやりサウスポースタイルに構えさせてもらった。截拳道やその母体となった中国武術、沖縄唐手などでは利き手を前に構えるのが基本だし、僕自身も生まれて初めてのタイマンがサウスポースタイルだったからなのはいうまでも無い。
 脚を肩幅に開いて右足前に立ち、左拳を左あごの横に、右拳は左拳の軸からやや離れて自然に肘を曲げ、自分のあごの延長線上に置く。

「よし、じゃあジャブ打ってみて。ジャブわかる?君の右の拳を軽く握って素速く前に突き出して、また素速く引いて元の位置に戻す。これのくり返し。さあ、やってみて!」
「はい!」
 僕は会長にいわれたとおりジャブを打ってみた。
 拳を柔らかく握り、手首を柔軟に、腕も肘も肩も柔らかく、肩甲骨は流れるように肋骨の上を滑り、骨盤から後背筋へとつながる全ての筋肉と靱帯、骨格を連動させる。
 しゅぱっ。
 僕の右拳は鞭のように進み、また素速く元の位置に戻った。
 会長を振り返ってこれでいいかどうかを聞こうとしたら、会長の目が眼鏡の奥でまん丸くなっていた。

「あの、すみません・・・今のでよかったですか?」
「あ、ああ、いいよ!もっとたくさん打ってみて!」
 僕はジャブをくり返した。
 右拳を出すときは、左腕の肘の引き方を重視する。
 ただ単にジャブをくり出していたのでだんだん飽きてきて、ジャブを上下左右に順番に打っていくようにした。
 しまいにはとにかく疲れて腕が上がらなくなってきたので、とうとうジャブを出すのを止めて会長を振り返った。

「すみません、もういいですか?」
「ん・・・ああ、いいよ!っていうか君本当に未経験者なの?あのジャブはとてもそうは見えなかったなあ!」
 会長さん、なんだかとてもうれしそう。
「君のジャブはとにかく肩や肘が柔らかいのがいいね!バンデージを巻いてグローブをはめたらグローブってとっても重いし、最初はうまくいかないかもしれないけど、練習を積めばきっともっとよくなる!いいかい?」
「はい!お願いします!」
「ようし、そうこなくっちゃ!名前は?」
「藤原崇です!」
 かくして僕はこの元世界王者が会長をしているボクシングジムの一員となった。

 僕は放課後を彩子と共にお悩み相談室の部室で過ごした後は、日曜日をのぞいた毎日ジムに通い続けた。
 截拳道を追求するために始めたボクシングだったが、その世界はとても奥深く、精妙で、学べば学ぶほど僕はそのおもしろさに惹かれていった。

 最初に教わったのは右ジャブだ。
 直線上をなるべく正確に、素速く、右拳を往復させる。
 僕はジムの壁に隙間無く並べられた大きな鏡に自分の姿を写して自分のフォームを確認し、どうしたら自分のジャブがより正確に,かつ挙動の起こりを小さくできるかを注意して、マジックテープで止めるバンデージを巻いた右拳を前に突き出すことを、ただひたすら愚直にくり返した。
 次に教わったのは左ストレートと打ち下ろしの左。
 僕はスーパーフェザー級の体重に比して身長が高く、同じ階級の相手を想定した場合は当然自分の顔よりも下を狙い撃つことになる。
 ワンツーストレート、打ち下ろしの左。ワンツーストレート、打ち下ろしの左。
 僕はこれらのパンチを徹底的に磨き続けた。

 そんなある日、いつものようにシャドーをくり返していた僕に会長が声をかけてくれた。
「藤原くん、ちょっとこっち来て」
「はい!」
 僕は会長室に招き入れられた。
 会長室は2畳くらいの大きさの空間で、机とノートPC、電話、いすが二脚おいてあり、壁にはカレンダーや付箋がいっぱい貼ってある。

 いすに座った僕に会長が口を開いた。
「藤原くん、僕ね、君の練習をずっと見ていた。君はいまどきにしてはめずらしいくらいまじめで、真剣にボクシングに打ち込んでいることが分かったよ」
「ありがとうございます!」
 僕は頭を下げた。
「そしてね。考えた。君を普通のスタイルのボクサーにするよりも、君にいちばん合ったスタイルに育てた方がいいんじゃないかって」
「というと?」
「君はスーパーフェザー級にしてはものすごく背が高くてリーチが長い。そして手首、肘、肩の関節がとても柔らかく、素速く動く。これを利用しない手はないよね」
「はあ」
「じゃ、このビデオ観てくれる?」

 会長は机の上に置いてあるノートPCの画面を僕に見せた。
 動画サイトにアップされているボクシングの試合だ。
 およそミドル級、僕とほとんど同じくらいの身長で、僕よりずっと骨太の体格をした黒人ふたりが戦っていた。
 ひとりの黒人は両腕をあごの高さに上げる、ごく一般的な構えをしていたが、もう一方は違う。
 左前構えのオーソドックスであるにもかかわらず、左腕をあごの前に上げずに肘のところでほぼ直角にしていた。あきらかに普通のスタイルではない。

 その黒人が、長い左腕を使って鞭のようにしなるジャブを対戦者の顔面にたたき込んだ。それも単発ではなく、上下左右に打ち分け、さらにはボディも打っていく。その多彩さと、動作の柔らかさ、速さ、半端でなく重そうな威力に僕は釘付けになった。
 そして、そのボクサーはジャブで対戦者を固めると、すすっと近寄って右の打ち下ろしをガードの隙間からあごの先をかすめるようにたたき込み、あっさりとダウンを奪ってしまった。
 あおむけにキャンバスに倒れた対戦者はほとんど大の字になっている。
 口からは白いマウスピースがはみ出ていた。
 カウントするまでもないくらい明らかな1RKO勝利だ。
 そしてビデオは停まった。

「見たかい、今の試合を」
「はい、すごかったです!特に勝った選手のあのジャブがすごかった」
「そう、あれが『デトロイト・モーター・スネーク』、『ヒットマン』、トーマス・ハーンズの必殺技、フリッカージャブだよ」
 フリッカージャブ、僕も知識としては知っている。小川とのタイマンの時に僕に憑依したブルース・リー師祖が使ったジャブだ。
「このジャブは普通のジャブよりももっと難しい。手首、肘、肩の関節が柔らかくないと打てない。そしてハーンズはほとんど世界にただひとりといっていいくらいすごいボクサーだ。彼のデトロイト・スタイルを踏襲することは簡単ではないけど、君がたくさん練習をするのなら少しでもハーンズの領域に近づけるかもしれない。やってみる?」
 僕の答えは決まっていた。
「はい、やってみます!がんばります!」

 その日から毎日、僕はネットでハーンズの動画を検索し、研究して、ジムでの練習に活かそうと試みた。
 会長はあの後、こうもいっていた。
「藤原くん、たしかに君は背が高いし、リーチも長い。だが、ボクシングは階級制の格闘技だ。その意味が分かるかい?」
「階級差があるとパンチ力がものすごく違ってくるってことですか?」
「まちがってはいないけど、その答えには100点はあげられないな。僕がいいたいのは、体重が同じなら筋肉量も同じってことだ」
「?」
「つまり、筋肉量が同じなら背が高い選手よりも、背の低い選手の方が筋肉の鎧が分厚いってこと。だから藤原くん、君は君より背が低い選手よりもボディが薄い。あごも弱いだろう。そしてそんなことはボクシングに携わる者なら君の身長と階級を見ればすぐに分かることなんだ」
 愕然とした。まさかそんなことまでひと目で分かってしまうとは思ってもいなかったからだ。
「サウスポーで背が高い選手が習得しておくべきことは、相手に自分の右に回らせないようにするための右フックと、もしジャブをかいくぐってふところに潜り込まれたときのための左アッパーは絶対に覚えておかないといけないよ。わかったね」
「はい!」
 僕が覚えておくべきパンチがさらに3種類も増えた。
 僕は毎日懸命になって練習に励んだ。

 当時の僕はまだそんなに彩子に感化されてなかったし、おしゃべりは苦手だったが
 僕の練習態度を見ていた人たちが僕を見る目は明らかに違ってきていた。
 会長からマススパー(あまり真剣にならずにカンを養ったり、目慣らしをするための軽いスパーリング)をすることを許されるようになったら、僕とマスをしたいという人が大勢やって来て面食らった。日本人では僕ぐらい身長があると、もっとフィジカル(筋力などの身体能力)を強化して野球やJリーグなどに行ってしまい、ボクシングに来る人はとても少ないらしい。
 だけど僕のような長いリーチを持つボクサーとマスをして、自分よりリーチの長い選手と対戦したときのために備えておこうという熱心なボクサーはプロアマ問わず何人もいた。

 そういったボクサーたちと、最初にお互いが「お願いします」とあいさつをした上ではじめられるマススパーでは、相手は僕の長いリーチとフリッカージャブの打ち分けの多彩さに驚き、僕は僕でフリッカーをかいくぐって僕のふところに突っ込んでくる勇気ある人たちに舌を巻かされた。そこには先輩も後輩もなく、お互いを尊敬し、思いやり、その人の持っている能力や勇気を素直にたたえ合う気持ちがあった。
 そして僕はそんな人たちから僕のフィジカルの有利さをうらやましがられ、練習熱心で、ボクシングと相手に対してとにかく誠実に対応していたことを高く評価され、新しい仲間や友達が一気に増えた。
 つい先日までクラスメートたちから無視され、イジメられていたこの僕がこんなに大勢の人に慕われるなんて、とても信じられなかったけど、とにかく僕はうれしかった。
 でも、そんな僕を無視、あるいは敵視している人もいた。
 僕と同じスーパーフェザー級のプロ4回戦選手、真人(まさと)さんだ。

 僕の経験と会長の発言から考えると、ボクシングは世間からの風当たりにいじけて不良をこじらせちゃった人や、ただのケンカ自慢には到底できない格闘技だ。
 毎朝、雨が降ろうが槍が降ろうがランニングしたり、何回も何回も、千回でも万回でもジャブやワンツーをくり返したり、ガードやダッキング、ウィービング、スウェイバック、パリーなどの防御技術の訓練を積むことは強いメンタルの裏付けがなければできない。いや、そういった地味な練習を果てしなく続けることで強いメンタルができあがるのだろうか?

 でも、ろくに練習もしないのに、神様からの贈り物を受け取っちゃったおかげでめちゃくちゃ強い選手もまれにはいる。ムエタイのサーマート・パヤクァルンがいい例だ。彼はムエタイでも、国際式ボクシングでもチャンピオンになったけど、筋金入りの練習嫌いだったらしい。
 会長が言うには、パンチ力というのは生来のもので、背筋を鍛えたりして強化することはできるけど本物のハードパンチャーはその人の素質によるとのこと。
 真人さんはその数少ない本物のハードパンチャーのひとりだった。
 彼は不良だった。というか今も現役の不良なのかもしれない。高校を中退して工事現場に入り、肉体労働で身体を鍛え、お酒を飲んだ(未成年だったのに)帰り道の途中にたまたまこのボクシングジムがあったから入門したそうだ。そんないい加減な人なんだけど、持って生まれたそのハードパンチと当てカン、ハートの強さは本物だった。
 会長はパンチ力はもちろんだけど、ハート(闘魂)の強さだけはいくら教えてもどうしようもないとも言っていた。
 入門後、一年も経たずにプロデビュー。デビュー戦1R1分30秒KO勝ち。その後4回戦で3試合したのだけど全てKOで勝った。
 でも、試合開始後2分を過ぎると真人さんは明らかに動きが鈍ってスタミナ不足を露呈した。
 ろくに練習にも来なければ、自分でも走り込みをしてないからだろう。
 それでも一発いいパンチを当てたら必ず対戦相手がひっくり返ってしまったのはすごかった。
 僕は真人さんの試合のビデオを見て、心の中で彼を「ウルトラマン」と命名した。
 1R最初の2分間を過ぎるとめちゃくちゃ動きが鈍くなるからだ。
 でも必殺技を当てたら必ず勝つ。
「ウルトラマン」とはわれながらうまいあだ名をつけたものだと思う。

 そして真人さんは僕とのマスを頑なに拒否した。
「あんなひょろっちいやつなんか、おれが本気になったら10秒で終わるぜ」
 とかいっていたらしい。
 でも、僕は気にしなかった。
 真人さんやその取り巻きから無視されても、僕の仲間や友達は他にたくさんいたからだ。イジメには慣れっこになっていた僕は真人さんの敵意をスルーした。
 真人さんの身長は約170cm。僕の身長は180cm。
 この10cmの差はマスでは大きい。
 他の人に聞いてみたら、僕のパンチはまるで建物の2階から降ってくるようで、逆に自分から僕の顔面を叩こうとすると階段の下から2階の人を叩くようでとてもむずかしいとのことだった。

 会長はいつも真人さんのことを心配していた。
「あれで毎日走って、毎日練習に来れば世界だって狙えるかもしれないのになあ」
 そう嘆いていた。
 真人さんは強いことは強いけど、練習熱心では決して無かった。
 たまにやってきても、へらへらにやにやしているし。女性会員にセクハラしたりは日常茶飯。
 でも、真人さんは実際勝ち続けている。そんな時は、たとえ誰が何を言っても耳を貸そうとはしないだろう。
 会長はそのことが痛いほど分かっていたと思う。

 そして、僕が斗真さんから斗真流を習うようになったとき
 僕は会長に、今まで毎日通っていたけど、事情があって週の内2日休みますと伝えた。
「そう。がんばってね!」
 それが会長の答えだった。

 そして僕は彩子と斗真さんと3人で行うお悩み相談室の部活が終わった後、土曜日を含む週3回を斗真さんの家にある修練場をお借りして斗真流を学ぶこととなった。
 斗真さんはいつもの紅いフレームの眼鏡と、柔道着の上に合気道のような黒い袴を穿き、僕はTシャツとジャージのパンツだ。
 柔道着を買うべきかと斗真さんにたずねたら、無駄なお金を使う必要はありませんといわれた。

 まず最初はあいさつからだった。
「よろしくお願いします!斗真先生!」
「よろしくお願いします」
 広さ20畳ある修練場の、縁のない畳の上で正座して向かい合った僕たちはあいさつをした。
 そして斗真さんからの厳しい指導が始まる。
 正直言おう。斗真さんの教え方はボクシングジムよりもずっとスパルタだった。

 まず受け身。
「ボクシングでも、倒れたときは必ず自分のおへそを見るようにして後頭部をぶつけないように気をつけるそうですね。斗真流でも同じです」
 そして僕は自分で前や後ろや左右に倒れながら受け身を取るようにいわれた。
 手でを畳を叩いて受け身を取ったらしかられた。
「藤原さま!あなたはアスファルトの道路の上で倒れたとき、手でアスファルトを叩いて自らの手を痛めようとするのですか!手打ちは禁止です!」
 だが、ただ単に後ろに倒れたときに自分のおへそを見るという方法ならともかく、それ以外の場面で手打ちをしないで受け身を取ることはすごく難しい。
 僕は何度も腕や肩を畳に打ち付けて、かなり痛い思いをすることになった。
「まあ、いいでしょう。私が指導するからにはいつかコンクリートの上でも平気で受け身できるようにしてさしあげますからね」
 僕は道のりの遠さにほとんど目の前が昏くなった。

 次の日は立ち方。
「藤原さまはボクシングを習ってらっしゃいますね。でも、人間相手に想定された戦闘技術なら、その理想型は突き詰めれば必ず同じ境地に達します。ボクシングしかり、中国武術しかり、唐手しかり、全て相手は人間で、しかも人間は頭がひとつ、胴体がひとつ、腕と脚が2本ずつ、人体の構造に西洋も東洋も代わりはありません。だから藤原さまにはボクシングにも、截拳道にも必ず役立つ立ち方の基本を今日はお教えします」
「立ち方?」
「そうです。立ち方です。立つことができない人は歩みを進めることも、ましてや人を打つことなど到底できません」
「そうなんですか?」
「立つこともできない赤子に走り方を教える親がどこにいるでしょうか?」
 納得した。

 僕の足を左右の肩幅に広げて立たせた斗真さんは、僕の背中や脇腹を両掌でぐいぐいと押してきた。
 僕の足はあっさり宙に浮き、斗真さんに押し飛ばされた。
「ダメです!てんでなってない!脚は大地に根を生やした樹木のように、背骨と頭は天を貫く柱のように立つのです」
「いきなりそういわれても・・・」
「まず、ひざと足首はこの角度です。骨盤を水平にし、上体の重さを全て骨盤で受け止め、ひざと足首を使って重さを大地に逃がすのです」
 斗真さんは僕の身体をまるで完全可動のフィギュアの関節を動かすかのように、ぐいぐいと位置を決めていった。
「さあ、押しますよ」
 斗真さんが僕の脇腹に両掌を当てて押してきた。
 あれっ?
 さっきあっさり浮いた僕の身体は、まるで大地に根を生やしたようにしっかりと立っていることができた。
 別に足を踏ん張っても何もしていないのに!
 しかも、やろうと思ったその瞬間、斗真さんを逆に押し返すことすらできた。
 ものすごい効果だ。
「よし、できましたね。これができれば下半身が安定するので、自分の下半身の力とそれに加えて背筋を有効に使った強いパンチが打てるようになります」
「はい!ありがとうございます!」
「それではそのまま私が『いい』というまでずっとその姿勢を保っていてください。私はその間に乙女としての勉強をします」

 そういうなり、斗真さんは修練場の壁際、いちばん風通しのいい場所にねころんで少女マンガを読み始めた。
 マンガのタイトルは「ベルサイユのばら」池田理代子作。

 5分経った。僕はひざ、足首、骨盤、脊椎に意識を集中していたため、早くも疲れてきた。
「すみません、斗真先生。まだ立ってなくちゃダメですか」
「ダメです。もっと立っていてください」
 斗真さんはマンガから視線を移すこともなくそういった。

 15分が経った。もうかなり限界に近い。
 汗はだくだく、身体はぷるぷる震えはじめた。
「斗真先生、身体が震えてきたんですけど」
「まだです。身体が震えるのは自分の身体の位置をまだ明確に覚えられてない証拠。自分で自分自身の身体の状態がどうなっているかを感じて、自分がいちばん気持ちよく立てる立ち方を模索してください。それが上達への近道です」

 30分後、僕はとうとう精根尽き果ててあおむけにぶっ倒れた。
 そんな時でも斗真さんはマンガから目を離さなかった。

 また次の日は眼の訓練。
 僕はそれまで何回か斗真さんと組手をしたが、僕が動くとすぐ斗真さんが動き、しかもその動きの初動が全く視えない。
「後の先」というやつだ。
 僕は何回も斗真さんの一撃をカウンターで食らってひっくり返った。
「眼を鍛えるには、まず自分の動きを速くしてその軌道を眼で追うことが大事です。ボクシングでいちばん速い技は何ですか?」
「ジャブです」
「では、藤原さまはなるべくたくさんジャブを打って錬磨し、それを目で追えるようになってください。そうすれば、自然と速い動きも視えるようになりますし、藤原さまの技の速さと実力もまた上がります」
「一挙両得ですね!」
「そうです」
 斗真さんは紅いフレームの眼鏡のレンズの奥から、にこっと笑った。

「そして、自分の動きを速くするだけでなく、速い動きの物を見て眼を慣らすことも大事です」
 といって、ごそごそと何かの箱を引っ張り出してきた。
 中に入っていたのは紅や藍色や黄色などの様々な色合いをした、いくつものかわいらしいお手玉。
「これは中に小豆が入っているごく軽いお手玉ですが・・・」
 そういいながら斗真さんは自分の顔の横あたりにお手玉を握った右手を持ってきて次の瞬間、ひゅんっと右手を自分の目の前に突き出すようにして投げた。
 ぱんっ!
 斗真さんのごく小さなモーションから放たれたお手玉は、まるで弩(いしゆみ)から放たれた矢のようなものすごいスピードで修練場を横切り、壁にぶつかって落ちた。
 僕は野球のことはよく知らないが、全身の骨格と筋肉全てを連動させ、フル活用することができる斗真さんが投げるお手玉のスピードは、ほとんどプロ野球のエースピッチャーにも匹敵するのではないだろうか?
 僕は斗真さんが本物の武術家なんだとあらためて確信した。
 乙女に対してこんなこというのは失礼かもしれないが、ほとんど化け物といっていいだろう。

「では、藤原さま。そこに立って構えてください」
 斗真さんから5mほど離れて僕はあの「デトロイト・モーター・スネーク」、「ヒットマン」、トーマス・ハーンズの、あの前手の肘を90度に曲げるデトロイト・スタイルを、右手前のサウスポーに構えた。
「私がこれから藤原さまにむかってこのお手玉を投げますので避けるか、叩き落とすかして防御してください」
「はい!」
 正直、この距離で斗真さんの剛速球を避けられるとは思ってなかったが、師匠からやれといわれたら弟子はそれに従うしかない。
 そして僕は斗真さんを全面的に信頼していた。
「では、行きますよ」
「はい!」
 答えた瞬間、僕の鼻っ面にお手玉が命中した。
 僕は何とかしてダッキング(かがむこと)、ウィービング(横に身体を振ること)して飛んでくるお手玉を避けようとしたが、斗真さんが動いたと僕が感じられたのと同時に顔面にお手玉が命中するので、そのときの僕にはどうしようもなかった。
「藤原さま、これがお手玉だからいいものの、もしこれが石の塊だったらどうしますか?今ごろはとっくにおだぶつですよ。もっとがんばってください」
 と、だめ出しを食らった。

 斗真さんから斗真流を教わったら、次の日はボクシングジムに通った。
 ジャブ、ジャブ、左打ち下ろし、ジャブ、ジャブ、左打ち下ろし。
 入念にシャドーをくり返す。
 そうしていたら会長から
「よ~し、藤原くん。篠田さんとマススパーやってよ」
 と、いわれた。
 篠田さんは40代のおじさんだが、自営業をやっていて、仕事場がジムに近いため、ちょっとでも時間が空くとすぐにジムにやってきて汗を流すという、とても練習熱心な方だ。
 年齢こそ年齢だが、鍛え抜かれた左右のフックの破壊力はパンチミットを叩く音からも想像できた。

 篠田さんは身長165cm。身長180cmの僕が放つフリッカージャブを避けながら僕のふところに入り込めれば篠田さんの勝ち、2分間(アマチュアは1R2分)
 フリッカージャブを打ち続けて、篠田さんを近づけさせなければ僕の勝ちだ。
 もっともマススパーはあくまで目慣らしやタイミングを覚えるための物なので勝ち負けは本来意味が無いのだが。

 スパーリング用のいちばん重い16オンスのグローブを両拳に装着した僕たちは1m半ほどの間合いを開けて立ち、まず、あいさつをした。
「お願いします」
 おたがいのグローブを合わせる。
 そして僕は少し後ろに退いて自分の制空圏を広く保った。
 右足前、サウスポーのデトロイト・スタイルに構え、フリッカージャブをひゅっひゅっと角度を微妙に変えながら放つ。
 篠田さんは両拳をあごの前に構えるピーカブー(のぞき見)スタイルで頭を左右に振り、僕のフリッカーをかわそうとしたが・・・かわせなかった。
 僕のフリッカージャブはぽん、ぽん、ぽんと篠田さんのあごの前に構えられたグローブを軽く叩いていた。
 篠田さんは懸命に頭を振って僕のふところに入り込もうとしたが、僕がフリッカーを打ちながらも常に足を使って右に回るスピードが速いので追いつけない。
 僕のフリッカーは常に篠田さんのグローブを軽く叩き続け、そのまま2分間が過ぎてしまった。

 リングを降りた僕に会長が話しかけてきた。
「どうしたんだい藤原くん、一週間前とは反応とタイミングの良さがダンチじゃないか。なにか秘密の練習でも積んでいたのかい?」
「ええ、まあ・・・」
 ここで斗真さんとの練習を話すことはいけないことだと思った。
「まあいいよ。藤原くんが練習を続けて強くなってさえくれればそれでいいんだから」

 斗真さんの教授。またある日は座学。
 斗真さんが自らの口で僕に秘伝を伝え、僕はそれを必死になって暗記する。
(日本武術でも中国武術でも本当の奥義、秘技、秘伝は書物には記録されない。全て師匠と弟子との間で口伝えで教わる物なのだ)
 ひと区切りつくと、お手洗いに行くと称して席を立ち、隠し持っていたスマートフォンを起動して覚えている限りの重要点を全てメモした。
 録音すればいいのにと思われるかもしれないが、録音すると、あとで内容を確認するためには30分なら30分、全部聞き返さないといけない。
 そして、講義を受けてから聞き返すまでの時間が長くなれば長くなるほど記憶は薄れていく。
 話していただいた内容の、どこがいちばん重要だったかが思い出せなくなる。
 だからこそ、即座にメモを取ることが重要なのだ。
 メモは録音と違って、書いておいた物をひと目眺めるだけで内容が分かる。
 そして、説明を受けたとき、師匠である斗真さんがどんな身振り手振りをしていたかまで思い出せる。
 これが重要だと僕は思った。

 さらにある日は動画鑑賞。
 僕が父から借りてきたタブレット端末に動画サイトから落としてきた武術、格闘技動画をストレージして斗真さんと共に鑑賞し、感想や対応策を検討し合う。

 斗真さんがいうには、斗真流は昔、ある藩の裏の「御留流」(藩の外に伝えてはならない秘伝の武術のこと)だったのだが、時代が明治と代わって以来、大日本帝国のためにその武術を用いるようになり、斗真さんのひいひいお祖父さんが満州で活動していた頃には、戦闘を想定される武術とそれに対応するための技術の研究はかなり進んでいて、対ボクシング、対中国武術、日本と友好国だったタイの格闘術である古式ムエタイ、当時英国の植民地だったので、独立運動を日本が積極的に援助していたインドの武術、カラリパヤット。それこそありとあらゆる武術を研究し、自らを進化させてきたのが現在の斗真流だそうだ。
 だから、僕が持ってきた動画に対する斗真さんの評価は的確で、きびしかった。
「この人は使えますね」
「この人はダメです」
「問題外」
 こんな感じ。

 でも、強い選手はたしかに強いときちんと評価した。
 たとえば、不慮の事故で亡くなられてしまったけど、「地獄の風車」、「ダイヤモンド」と呼ばれたオランダのキックボクサー、ラモン・デッカー。一時期打倒ムエタイにいちばん近いといわれていた選手だ。
 彼は日本で、当時スーパーウェルター級だったのに、一階級上のミドル級「日本重量級キック界の至宝」と呼ばれていた選手、港太郎を右ミドルキックでコーナーに押し込んだ直後に、左右のフックの連打を浴びせてあっさりとダウンを奪ってしまった。
 最初の左フックは港のレバー(肝臓)を正確にえぐっていた。
 頭やあごを打たれるダメージはある程度時間をおけば回復するが、ボディブローで倒れたらまず立ち上がることはできないと僕は会長から教わっている。
 それでも港は懸命に立ち上がったのだが、続けざまのボディフックを食らって3ダウンを奪われKO負けしてしまった。
「このオランダ人はすごい!強いです!」
 斗真さんはわき出る興奮を抑えきれないという表情で、デッカーを賞賛した。

 そして僕が戦闘スタイルをまねしようとしている「デトロイト・モーター・スネーク」、「ヒットマン」、トーマス・ハーンズの動画を見せたときは特にすごかった。
「おお、この方が藤原さまがお手本にしているボクサーですか」
 そしてハーンズのフリッカージャブ連打から右の打ち下ろしを決めた瞬間、斗真さんの興奮は頂点に達した。かと思ったら急に冷静になった。
「素晴らしいですね、このボクサーは。私はもちろんですが、祖父の全盛期でも対戦して勝てたかどうかは分かりません」
 まるで自分自身がハーンズと戦うときのための対抗策を練っているような口調だ。
 5歳の頃から15歳になるまでお祖父さんから斗真流を習ってきた斗真さん自身がそういうくらいだから、ハーンズの実力は本当にものすごいのだろう。僕は身が引き締まるのを感じた。

「決めました!」
 斗真さんがいきなり大声を上げた。
「決めたって、何をですか?」
「藤原さま、私をボクシングジムの見学に連れて行ってください!」
「はい?」
「私はボクシングを実際に見学して、今の藤原さまにいちばん合った練習法をお教えします!」
 斗真さんの藍色の眼が、眼鏡のレンズ越しにぎらぎらと輝いている。
 僕はなぜかイヤな予感がしたが、今の斗真さんを止める適当な理屈が見つからない。
 そして、こんなにも目を輝かせている斗真さんを止めることはおそらく不可能だろう。
 弟子にとって師匠のいうことは絶対だ。
「わかりました。明日いっしょにジムに行きましょう」
「わあ、これってデートですよねデート!秋葉原以来ですわ。あのときは不躾な痴漢に水を差されましたが、今度は楽しそうです!今夜は眠れそうにないですね!」
 斗真さんはどう見ても過剰に興奮していた。
 こんな状態の斗真さんをジムに連れて行くことはかなり危険なのではないか?
 そしてその予感は現実のものとなった。

 翌日の放課後、僕たちは「お悩み相談室」の501部室に集まった。
 斗真さんは傍目から見てもはっきりわかるくらいうきうきしていた。
「千佳ちゃん、カモミールティー淹れてちょうだい」
「はいはいはい」
 彩子に命じられて、さっそく電気ポットにお水をくみに、いそいそと部室から出て行く斗真さん。
「ねえちょっと、千佳ちゃんいったいどうしちゃったの?」
 斗真さんがいなくなった部室の中、彩子が口を開いた。
「実は今日、僕が習っているボクシングジムにいっしょに行って、見学したいって」
「ふ~~~~んんん、それって千佳ちゃんにとってはデートよね。デート。それも2回目の。しばらく目を離していたら、そこまでなかよくなっていたとはねえ」
 僕の顔を覗き込む彩子。その両の瞳は鮮やかな碧色に輝いていた。
 まずい。これは彩子が何かとんでもないことをやろうとしている兆しだ。

「お待たせしました!」
 電気ポットにお水を満たしてきた斗真さんが、からからとドアの音を立てて入ってきた。
 壁際の机に電気ポットを置いて、電源ソケットを繋ぎ、カップやお茶の用意をする。
 その背中にすーっと忍び寄った彩子が、まるで歌でも歌うかのような調子で声をかけた。
「ねえ、千佳ちゃん♪こっちむーいて♪」
「はずかしがらなーいでー♪」
 お茶を淹れる準備をしていた斗真さんがびくっ!と飛び上がった。ぎぎぎぎぎと音でも立てているかのような様子で、なんとか振り返る。
「ななななな、なんですか!小野寺先輩!」
 武術家たる斗真さんに気づかれないように接近できる彩子がすごいのか、彩子の接近に気がつかないほど斗真さんが浮かれていたのか。

「ねえ千佳ちゃん、今日、藤原くんの通っているボクシングジムに見学に行くんですって?」
 彩子は斗真さんよりも20cm以上背が高い。
 彩子はその長身を蛇のようにたわめて、斗真さんのうつむいた顔を覗き込んだ。
「どどど、どうしてそれを!?」
「決まってるじゃない。藤原くんが教えてくれたのよ」
「なな、なんてことを!」
「それがどうだっていうの?それとも私にはいえないようなあ~んな事や、こ~んな事をしようだなんて、まさか企んでいたんじゃないでしょうね?」
 図星だったらしい。斗真さんの顔が真っ赤になった。
「い、いえ、そんなことはないです・・・」
「じゃあ、純粋に武術家としてボクシングを見学したいって事なのね」
「そう、です・・・」
 まるで蚊の鳴くような声で答える斗真さん。
「じゃあ、決まり」
 彩子は僕に向かって振り向いて、宣言した。
「藤原くん!私もいっしょにボクシングジムを見学に行かせてもらうわよ!」
 かくして僕は女の子2人をボクシングジムに連れて行くこととなった。

 柏駅前通りを歩いている最中、街中で彩子が僕の腕に自分の腕をからませてきた。
 そうすると、自然に僕の腕に彩子のその豊満な胸が押し当てられることになる。
 むにむに。
「おいおいおい、街中でこんなことするなよ。はずかしいだろ」
「何をいってるの。私と藤原くんは恋人同士なんだから、腕を組むくらいふつうでしょ。むしろはずかしがる方がおかしいわ」
 あくまでも堂々と振る舞う彩子。
 そして斗真さんもまた
「えいっ!」
 と、僕のもう片方の腕にしがみついてきた。
 そっちの方を向くと、斗真さんは顔を真っ赤にしていた。
 腕が重くなる。
 そして僕の心もまた重くなった。
 最近のボクシングジムは女性会員も増えてきてはいるが、やはりどうしても男の世界だというのは否定しきれない。
 以前トレーナーから聞いたことがある。ボクシングジムがいちばん混雑するのはクリスマスイブとバレンタインデーの当日だそうだ。
 僕にはその情景がありありと想像できた。
 そんな場所にお年頃の女の子2人を、たとえ見学が目的とはいえ同伴していったらどうなるだろう?
 もしかしたら、今まではなかよくしてくれていた仲間たちから、かわなくてもいい嫉妬をかうことになるかもしれない。
 でも、僕がいくらそう思っても僕の腕にしがみついてくる彩子と斗真さんは聞いてくれそうにない。
 僕は覚悟を決めて地獄の門をくぐった。
「こんにちは!よろしくお願いします!」
 僕たち3人のあいさつがきれいにハモった。
 ジム内の人々の目がいっせいに僕たちに集まった。

「おいおい、藤原くんが2人も女子を連れてきたぞ!」
「それもすげえ美人じゃねえか!」
「こっちの女の子はかわいいな!」
「藤原!うらやま死刑!」
 仲間たちは口々に感想を述べ合った。
 僕のかなり途方に暮れた表情を見れば、それどころじゃないと思っていることが分かっただろうけど、みんなの目は彩子と斗真さんに集まっていた。
「彼女たち、ボクシングを見学したいっていってたので連れてきたんです」
「おお、そうか!入門希望か!」
「これでこのジムもいっそう華やかになるな」
 僕はジムを見渡してトレーナーに会長がいるかどうかたずねたが、会長はテレビ局との打ち合わせがあってこのジムのエースである世界ランカー、大月さんと共に不在とのこと。
 僕がジムの中を見渡すと、ジムの一番奥で鏡に向かっていた真人さんがものすごい目つきで僕たちを睨んでいたのが見えた。
 まずい。よりによってこんな時に真人さんに出くわすなんて。
 イヤな予感がいっそう確かな物になった。

 僕は更衣室で練習着に着替え、マジックテープで止めるバンデージを巻き、扉を開けた。
 彩子は立ったまま周囲を物珍しそうに見渡し、斗真さんはシャドーやミット打ちをやっている会員達の様子を、一目たりとも見逃すまじとばかりに紅いフレームの眼鏡のレンズ越しに真剣なまなざしで見つめている。
 柔軟体操を終えて、鏡に向かってシャドーを始める僕。
 真人さんは、僕と3mくらい離れてシャドーを続けていたが、僕に対する敵意がふくれあがってきているのが感じられた。
 僕は早々にシャドーを切り上げて、きちんとバンデージを巻き直し、重い代わりに自分の拳を負傷から確実に守ってくれる16オンスのグローブを着けてジムの中央にぶら下げてあるサンドバッグのひとつを叩き始めた。
 ジャブ、ジャブ、ワンツー、左打ち下ろし。
 これをくり返す。
 僕のサンドバッグ打ちを観察しに斗真さんがやってきたのが分かったが、僕は目もくれずにサンドバッグ打ちに集中した。
 一心にサンドバッグを叩いていると不思議なことに周囲のことが全く気にならなくなる。
 僕はそう、まるで透明な時間を過ごしているかのようにサンドバッグ打ちに没頭していた。

 しばらくすると、「やめてください!」と、斗真さんの声が聞こえた。
 そちらに首を向けると、真人さんが斗真さんの右手首を握り、左手を腰に手を回して、斗真さんの耳元で話しかけていた。
 リング上のマススパーを見ていた彩子は離れた位置でこっちの様子をきびしい眼で眺めている。
「おいおいお嬢ちゃん、光陽学園の生徒なんだろ?あのひょろっちいのと同じ」
「手を離してください」
 まずい。真人さんは猫のふりをした虎にじゃれかかっているのに等しいことをしているのに気づいてない。
「あんな弱っちいのなんか放っといて、おれといいことしに行こうぜ。な?な?」
「弱っちい?」
「へ?」
「私の大事な弟子を、弱っちいですってぇぇぇ!」
 斗真さんの怒りが爆発した。
 右肘打ちを真人さんのみぞおちにめり込ませ、そのまま反転、みぞおちを押さえてかがみ込もうとしている真人さんのあごを左掌底で打ち上げる。左掌はそのまま真人さんの顔面をつかんで床に投げ落とした。
 ずん!
 床の上に腹筋用のマットが敷いてあったのと、斗真さんが手加減して後頭部からではなく背中から落ちるようにしたからよかったものの、もしそうでなかったら悲惨な事故が起こっていただろう。

 すぐにトレーナーと何人もの練習生が集まって真人さんを介抱し始めた。
「大丈夫か!真人!」
「う...う...」
「指は何本見える?」
 トレーナーがジャンケンのチョキを出した。
「2本見...えます...」
「よし、頭は打ってなかったようだから大事はないと思うが、しばらくジムの端っこに寝かせて休ませてやろう」
 僕と斗真さんは真人さんがジムの隅に搬送されるなか、練習生達から白い目で見られた。

「おい、君!やりすぎなんじゃないか!?」
 トレーナーの反町さんが斗真さんにいってきた。
 それもしょうがないだろう。
 何のかんのいっても真人さんはこのジムの次期エース候補だ。それを大ケガ一歩手前にまでされたら、そういうのも無理はない。
 でも、斗真さんはふてぶてしくこう答えた。
「ふん、弱いのが悪いんじゃなくって?」
「な、なんだって!?」
「いたけな乙女を手込めにしようとして逆襲をくらい、挙げ句の果てにそれを『やりすぎ』とおっしゃるなんて・・・。あなたたち、性根が腐ってますわよ!」
 斗真さんは、素速くゴムで髪を結わえると、紅いフレームの眼鏡をケースに収め、僕に手渡した。
 そしてすいっと一挙動でトップロープを飛び越え、リングに仁王立ちになって宣言した。

「みなさん、わたくしはここにいます。この斗真流継承者、斗真千佳がじかにお相手してさしあげます。みなさんは仮にもボクシングという格闘術を学ぶ者でしょう。私にいいたい事があるならば、その拳でもって語りなさい!」
 瞬間、斗真さんの普段は眼鏡越しに輝いている藍色の瞳から、まぎれもない暴力そのものがオーラとなって僕たち全員に叩きつけられた。
 僕たち全員がその殺気にびびったと思う。

「わ、わかった。でも、ここはボクシングジムでケンカをする場所じゃない。せめてグローブとヘッドギアを着けてくれ」
「ふん!軟弱ですこと!まあ、グローブは付けてさしあげますわ。あなたたちをケガさせないようにね」
「ヘッドギアは?」
「あなたたちの攻撃がわたくしに当たるとお思いで?」
 鼻先で笑った。

 当然一部の練習生達はおもしろくない。
 真人先輩は不真面目ではあったけど、その野放図な性格と勝ち続けの戦績で、それなりに人気もあったからだ。
 そんな中のひとりが斗真さんのスパーの相手に名乗り出た。
 あああ、ひどいことにならなきゃいいけど。
 彼はライト級(61kg)、斗真さんはどう見ても彼より15kgは軽い。
 上背も12cmは違う。
 ボクシングは体重制の格闘技だが、それは体重差があると攻撃力がものすごく違ってくるからだ。
 はっきりいって、斗真さんの勝ち目は全くない。
 だが、それは「ボクシング」というルールの中での話だ。
「いいか、斉藤。なんかやってても相手は女の子だ。手加減しろよ」
「はい、わかってます!」
 そしてゴングが打ち鳴らされた。
 一応アマチュアのスパーリングと言うことで1R2分ということになった。

 斉藤さんはガードを固めて相手に接近し、左右のフックを振り回すタイプだ。
 だが、斉藤さんが近づこうとするとサウスポーの斗真さんが逆に踏み込んで強い右ストレートを打ってくるのでなかなか近寄れない。
 いらいらしてきた斉藤さんはあごの下に両拳をそろえるピーカブースタイルで突っ込んだ。それをがっちりと斗真さんは受けたようだったが・・・。
 すっとスイッチしながら斉藤さんの右側にずれ込んだ。
 次の瞬間、斉藤さんが「ぐふっ」といってあごをのけぞらせた。
 そこにピーカブーのガードをすり抜ける斗真さんの右アッパーが直撃した。
 今度はうつぶせに倒れようとする斉藤さんの頭部を斗真さんの左スイングが痛打。
 もろにくらった斉藤さんはリングのロープまで吹っ飛んで失神した。
「おい!大丈夫か斉藤!」
 駆け寄るトレーナー。
「ふん。弱っちいですわねえ。つまりませんわ!」
 ふんぞり返る斗真さん。
 視えた。
 斗真さんはボクシングでは許されないダーティ・トリックを使っていた。
 斗真さんは斉藤さんの突進を正面からがっちり受けたと見せかけて斉藤さんの右側に回り、丸見えとなったレバーに肘打ちを入れたのだ。
 肘は拳と違ってグローブでカバーされてないし、骨が直接突き出ているため、まともにボディにくらったらそのダメージは計り知れない。
 ひどい。
 僕は斗真さんが僕とは比べものにならないくらい強いことを知っている。
 斉藤さん相手だって、やろうと思えば反則なしに勝てたはずなのになんでそんなことをするんだ!?

「さあ、次のお相手はまだですか?早くいらっしゃい!この腰抜けども!」
 ジムの仲間の敵意に火を付けるだけでなくガソリンをぶっかける斗真さん。
 斗真さん、いったいどうしちゃったんだ!?
 武術家っていうのは、生き残るためなら戦いを極力避ける存在じゃなかったのか!?
 今の斗真さんは明らかに常軌を逸している。
 僕は斗真さんのおじいさん、斗真弦充郎さんの言葉を思い返していた。
『あれはこれから先必ずとんでもないことをしでかすと思います。そのときはどうか、あれを止めてやってください。お願いします』
 今がその時なのか・・・。
 果たして僕は彼女を止められるのか?

「次は私がやります」
 挑戦者が現れた。
 この前、マスのお相手をしていただいた篠田さんだ。
 篠田さんは身長165cmのライト級で角張った身体つきをしている。
 そして篠田さんはさっきの斗真さんのスパーを見ている。
 まずまちがいなく手加減はしないだろう。

「ふん!さっきの方よりは歯応えがあるとお見受けしましたわ。ではどうぞ」
 斗真さんはグローブをはめた右拳でおいでおいでをした。
 応!とばかりに前に出る篠田さん。
 いつものピーカブーで突進するのかと思ったら、左ジャブを突いてこまめに前進、後退をくり返し、地道な攻めを見せた。
 接近戦になったときの斗真さんの怖さをさっきのスパーで見て取ったのだろう。
 だが、それもいつまでもは続かなかった。
「ふんっ!」
 斗真さんが闘気を吐いたのと同時に、斗真さんの右ボディが篠田さんの脇腹をえぐった。
「ぐっ」
 かがみ込むようにした篠田さんのボディを斗真さんの左右連打がどんどんどんどんと的確に打ち抜いた。以前、斗真さんに見せた動画、「地獄の風車」ラモン・デッカーの左右フックの連打のように。
 あごの苦しみは天国の苦しみ、だがボディの苦しみは地獄の苦しみだ。
 篠田さんの身体はリング上に突っ伏して動けなくなった。

 ひどい。斗真さんはまたダーティ・トリックを使った。
 篠田さんは左足前のオーソドックス、斗真さんは右足前のサウスポー。
 だから、斗真さんが自然に前足を踏み出すと、かんたんに篠田さんの左足甲を踏むことができる。彼女は篠田さんの左足を踏みながらボディを打った。
 なぜだ!?そんなことしなくても斗真さんならかんたんに勝てるはずなのに。
「どうやらここは意気地なしとごみかす共の集まりのようですね。藤原さま、帰りましょう。こんなジムで教わるよりももっと実践的で役に立つ技術をお教えさしあげます」
 やっと腑に落ちた。
 斗真さんがなぜダーティ・トリックを使ってまで僕の仲間を痛めつけたわけが。
 彼女は僕の前で『ええかっこしい』をしたかったのだ。
 ただ、そのためだけに僕の大事な仲間たちを反則技で叩きのめすなんて・・・。

 許せない。

 僕の心の奥底深く眠っている爆弾の導火線に火が点いた。

「待てよ」

 僕の心からの言葉が口から出た。

「え?」

「挑戦者ならいるよ」

「?」

「僕が挑戦者だ」

「はあ?」

 斗真さんは僕の正気を疑うような眼をして睨めつけてきた。

「田中さん、グローブを着けさせてください」

「お、おう・・・」

 僕は拳に重ねた分厚いスポンジの上に何重にもバンデージを巻いて16オンスのスパーリング用のグローブを、仲間のひとりに着けてもらった。
 こんなスパーで拳を痛めたりしたら我が身の恥だ。
 拳の上にスポンジを重ねて何重にもバンデージを巻くと、とてもひとりではグローブの装着はできない。
 僕はリングのロープの間をくぐってリングに立ち、右手前、サウスポーのデトロイト・スタイルに構えていった。

「さあ来い、斗真千佳!僕が相手だ!」

 斗真さんはしばらく自分の目が信じられないといった様子で僕を見ていたが、いきなり、ばん!と両拳を胸の前で打ち鳴らした。

「ちょっとやそっと学んだ程度で弟子が師匠を超えられるとでも?その思い上がりも含めて全て粉砕してさしあげますわよ!」

 僕たち二人は、ともに右手右足前のサウスポーに構え、リングの中央を挟んで対峙した。
 鎌のように構えた右腕をゆっくり揺らす僕。
 逆に上体を起こしたアップライトスタイルで構える斗真さん。
 瞬間、僕はフリッカージャブを放った、1、2,3連打!
 だが、その全てをダッキング、ウィービング、スウェイバックで斗真さんはかわしてみせた。
「ふん、少しはやるではないですか。ではこうです!」
 斗真さんは左足前にスイッチしながら、僕の右斜めにすごいスピードで踏み込んできた。
 反射的に僕は右ストレートを打った。
 が、次の瞬間、僕は右ストレートを出した右腕の肘の後ろを斗真さんにパリー(はじく)された。
 右ストレートに体重をかけて伸ばしきっていた僕の身体はあっさりと内側を向き、がら空きのボディを斗真さんの眼前にさらすこととなった。
「ふんっ!」
 僕のみぞおちに斗真さんの右フックが炸裂した。
 そうだ、会長が指摘してくれたように、どんなに鍛えていても僕のボディは薄い。
 ボディブローのダメージは一瞬遅れてやってくる。
 そしてうつぶせに倒れ伏しそうになっていた僕のあごを斗真さんの右ダブルのアッパーがとらえた。
 追い打ちをくらった僕はそのままリングに倒れ込んだ。

「1,2,3,4・・・」
 カウントを数える斗真さんの声が遠く響いた。
 僕の身体がごろんと天井を向いた。
「5,6,7,8・・・」
 冗談じゃない!僕はまだ・・・何もしていない!
「9,10・・・。はい、藤原さま、あなたの負けですわ。明日から修練場でみっちり斗真流を仕込んでさしあげますからね」

「11,12、13、14・・・」
 斗真さんが信じられないといった表情で僕を見つめた。
 そう、続きをカウントしていたのは僕だったからだ。
「15,16,17・・・」
 僕は両腕と両ひざを突いてキャンバスから離脱しようとしていた。
「18,19!」
 僕は再び右手前、サウスポーのデトロイト・スタイルに構えて立ち上がった。
「さあ、試合はまだまだだぞ斗真千佳!来い!来い!かかって来やがれ!」
 僕は吠えた。
「なぜ、なぜそんなにまでして戦うのですか!?勝敗は明らかです!やめてください!弟子を痛めつけたい師匠がいると思いますか!?」
「うるさい!」
 斗真さんがびくっとした。明らかに怯んでいる。
「僕にとってこのジムがどんな場所だか分かるか?ここは僕と僕の仲間が互いを尊敬し、互いに技を錬磨し、互いを高め合おうとする神聖な場所なんだ!それを多少戦闘力が強いからって土足で踏みにじるような真似をするやつは僕が絶対に許さない!」

 僕は叫びながらいきなり踏み込んで右スイングを振り回した。斗真さんがダッキングしたら左アッパーをねじ込んでやる!
 だが、それは読まれていた。
 またも僕の右腕をかいくぐって繰り出されるソーラープレクサス(みぞおち)ブロー。
 これをくらうと横隔膜の動きがじかに影響される。心臓と肺が同時に苦しくなる。
 うつむいた僕の右テンプル(こめかみ)を斗真さんの左フックが張り倒した。
 僕はリングのロープまで吹っ飛ばされた。

 意識がもうろうとしている。
 戦わなくちゃ、戦わなくちゃ、戦わなくちゃ。
 でも、もういいかな。寝ちゃえ。寝ちゃえ。寝ちゃえ。
 そんな風に落ち込んでいった僕の魂に、碧色をした光がビンタをかましてきた!

「立って!立ちなさい!藤原くん!」
 彩子だ。いつの間にか彩子がその長身をリングのロープからはみ出さんばかりにして僕に声援を送っていた。
 僕はうろんな眼で彼女を見上げた。

「さあ、立つのよ藤原くん!己と仲間の尊厳を守りたいのなら立ちなさい!どうせやるなら最後まで己の意地を貫き通しなさい!そして私に、人間の可能性とすばらしさを見せてちょうだい!」

 いつしか、僕の心は碧色した温かい輝きに満たされていた。
 彩子からの激励には全て彩子の『言霊』がこもっていたのだ。
 正直、僕の身体にはあとワンパンチ打てるかどうかの力しか残っていないだろう。
 だけど、それで十分!
 惚れた女に、ここまでいってもらえるのなら男冥利に尽きるというものだ。
 今日は「死ぬにはいい日」なのかもな。
 僕は自分がもたれかかっていたリングのロープにつかまって、よろよろとした足取りでありながらも立ち上がった。

「さあ、来い。斗真千佳。お前なんか怖くない。どんなにお前が強くったって、僕の心を変えることはできないぞ!何度ぶっ倒されても僕は必ず立ち上がってお前をぶっ殺してやる!」

 僕はあえて斗真さんを挑発した。
 小柄でリーチの短い斗真さんの戦術はほとんどが「後の先」だ。
 たとえていうなら、相手がパーを出すと見た瞬間チョキを出す。
 グーを出すとみたらすぐさまパーを出す。
 後出しジャンケンをするのが彼女の戦術だ。
 だが、ここで斗真さんに先に手を出させたらどうだろう?
 僕のリーチは斗真さんより20cm以上長い。
 斗真さんを怒らせて先に攻撃させ、それに合わせてカウンターをかましてやる。
 それが僕の戦術だった。
 だけど、斗真さんはまだ動かなかった。

「さあ来い、斗真千佳!それとも僕が怖くて手が出せねえのか!」
 さらにあおったが斗真さんはまだ動かない。

「さあ来い!このメガネドブスバカ女!」
 これはさすがに効いたらしい。
 斗真さんの肩が小刻みに震えだした。

「ふ、ふ、ふ、藤原さまの、ばかーーーーっ!」
 とうとう斗真さんが動いた。そのかわいらしい藍色の瞳を涙でいっぱいにして。
 狙い通り、スイッチしながら踏み込んでの左ストレートだ。
 ここに僕の右ロングアッパーをカウンターでぶち込んで・・・。

 あれ?

 急に身体の動きが重くなったような気がした。

 僕の動きがすごくゆるやかに感じられる。

 僕だけじゃない。

 僕に左ストレートを打ってこようとしている斗真さんの動きまでもがゆっくりにみえる。

 どくん。どくん。

 心臓が脈打つ。

 僕の右ロングアッパーが斗真さんの左ストレートと交錯する。

 どくん。どくん。

 僕の前腕が内側にねじり込むように自然に回転した。

 どくん。どくん。

 ねじるようにして進む僕の右腕によって斗真さんの左ストレートが外側にはじかれる。

 どくん。どくん。

 僕の拳が、前腕が、肘が、肩が、全てがねじり込まれるように推進する。

 どくん。どくん。

 僕の右拳は腕が伸びきる前に斗真さんの顔面を直撃し。

 どくん。

 打ち抜いた。

 その瞬間、時間の動きが正常に戻った。
 どん!
 斗真さんはまるで爆風を食らったかのようにロープまで吹っ飛んでうつぶせにぶっ倒れた。
 ジムの中を静寂が支配した。

「お、おい、今の見たか・・・」
「コ、コークスクリュー・ブロー・・・」
「それもただのコークスクリューじゃねえ!カウンターで極めやがった!」
「うそだろ?あいつまだジムに通い始めて1ヶ月も経ってねえじゃねえか」
「だけど、おれたちが全然かなわなかったあのチビ相手に・・・」
「すげえ!すげえぜ!」
 わっとジム中が沸いた。
 僕はリングに上がってきた仲間達に囲まれ、抱きしめられた。
「よくやってくれたよ!藤原!」
「やっぱお前っていいやつだったんだな!」
 歓声が周囲を満たす中、すっと人混みを分けて歩み寄ってきた人影があった。

「小野寺、また、君に助けられちゃったかな・・・」
 僕はやっとのことで微笑みながらそういった。
「いいえ、そうじゃないわ」
 彩子もまた微笑み返してくれた。
「あなたには私の力なんかもう必要ないもの。私がやったのは、あなたをただ応援しただけよ」
「そっか・・・」
 彩子はいっていた。自分が起こせる奇跡はほんの小さな物であって、それを物にできるかどうかはその奇跡を信じた自分次第だと。その奇跡すら必要ない存在になれたんだね。僕は。
 それだけで十分だ。
 僕は口には出さずに心の中で、そう彩子に話しかけた。
 たぶん、今の僕ならそれだけで彩子の意識に届くはずだ。
 彩子は僕の首に両腕を回してきた。
 周囲がいつの間にか静まり返る。
「ありがとう藤原くん、わたし、あなたの恋人でいて本当によかったわ」
 彩子の碧色に光るまなざしが近づいてきた。
 いいぜ、さあ来い。小野寺彩子。
 僕と彩子はリング上で深々とキスをした。
 僕の両腕はもうとっくに力を失っていて、彩子を抱きしめることはできなかったが。

「あ、あ、あ・・・」
「てめえら、神聖なるジムで何ていうことを!?」
「藤原!やっぱおめえいけ好かねえ!」
「藤原!うらやま死刑!」
 あっという間にリングは阿鼻叫喚の坩堝と化した。
「ねえ、ずいぶんにぎやかだけど、いったい君たち何してんの?」
 いつの間にかジムの扉を開けて入ってきていた会長が僕たちに尋ねてきた。
 すみません会長。僕に訊かないでください。

 後日、斗真さんはお祖父さんの弦充郎さんとともにジムに謝罪に訪れた。
 会長は、最初に斗真さんに無礼を働いたのはうちのジムの選手だから、こちらこそ申し訳ありませんでしたと、両者ともに頭を下げた。
 そして会長は、ボクシングでは反則だが、中には巧妙に使ってくる選手もいるダーティ・トリックに斗真流が精通していることを賞賛し
「自分たちが使わなくても、知っていれば相手が使ってきたときに防御策が取れるから」
 という理由で、プロの練習生に斗真流の技の一部を教授してはもらえないかと打診したところ、弦充郎さんの快諾を得た。
 そして弦充郎さんは女性会員のための自己防衛術のクラスまでもが新設されて、そこで教えることとなり、
「この歳になって孫のような女子(おなご)達に囲まれるとは」
 と、顔をほころばせていた。

 ある日、僕は弦充郎さんから斗真流の修練場に来るようにとジムで耳打ちされた。
 そして、指定された日時に修練場を訪れたら、神棚を背に斗真さんが正座をしていた。
 いつもの紅いフレームの眼鏡をかけている。
 僕を目にした斗真さんは畳に両手をついて深々と頭を垂れた。
「おいでくださいましてありがとうございます。藤原さま」
 僕も2mほど離れて斗真さんと向かい合い、正座した。

「このたびは武術家としてたいへんお見苦しい姿をさらしてしまい、そのうえ藤原さまのお仲間を傷つけたことを平にお詫びいたしします」
斗真さんは額を畳に擦りつけんばかりにして謝罪した。

「そして、藤原さま。私はもうあなたの先生ではいられません」
「え?」
「私を倒したときの藤原さまの『後の先』、本当にお見事でした。弟子が師匠を超えたのならお別れをするのは当たり前でしょう?」
頭を上げた斗真さんは、何かが吹っ切れたようなさっぱりとした笑顔になっていた。

「そんな・・・僕はただ斗真さんを何とか怒らせようとして必死になってやったことがたまたまうまくいっちゃっただけで」
「その必死になってやったことを実現できるのが大事なのです。いくら練習でうまくできても実際に使うときにできなければ全てダメなのです」
斗真さんはいい切った。

「藤原さまは少ない期間の練習でよくぞあの技を使えるようになったものと、私はとてもうれしかったのです。そして、祖父から話を聞きました。祖父は私が無茶をすると藤原さまに告げていたそうですね」
「はい」
「私はその話を聞かされたとき、心の底から藤原さまに対する敬愛の念が湧いてきたのです。たとえ負けるかもしれないと思っていても、それを強い心で必死に押し隠し、私の心ごと私を打倒してくださり私自身の身を焼く邪(よこしま)な恋心からもまた救ってくださったのですから。本当にありがとうございました」
斗真さんはまた頭を下げた。

「でも、お別れです」
「え?」
「私は自分自身が培ってきた武術家としての己の生き方を恋慕の情によって誤り、さらに己自身が恋する殿方と、そのお仲間さえも傷つけました。そんな私に、藤原さまのおそばにいる資格はありません」
「そんな・・・」
「ですからもう、お別れです。『お悩み相談室』も辞めます」
斗真さんはすっと一挙動で立ち上がり、僕に背を向けた。
「失礼します。もう学園でお互いを見かけても、見なかったふりをしましょう」
「待ってください斗真先生!先生はそれでいいんですか!?」
「私はもう先生ではありません。また、いちから修行のやり直しです」

 なんで、なんで、なんで僕は斗真さんとお別れしなきゃならないんだ!?
 彼女は自分では否定しているけど、本当はとてもすごい武術家だ。
 殴ったり殴られたりはあったけど、僕はもっと斗真さんに就いて習いたい。
 どうすれば彼女の気持ちを変えられる?どうすれば?どうすれば!?
 ふっと浮かんだ。

「先生がなさったことは僕の仲間を傷つけただけではありません!」
 斗真さんが振り返った。
「なん、ですって・・・」
 絶望に半ばゆがんだような表情。
「先生に叩かれたジムの仲間達がどうなったか知ってますか?全員、ものすごく真面目になったんです!」
「まさか・・・。いいえそんなことがあるはずありません!あれだけひどく叩いてしまったのに・・・」
 斗真さんの気持ちが明らかに揺らいでいた。
 そう、僕は「言霊」を声に乗せて発していたのだ。
 この土壇場を何とかしてひっくり返すにはもうこれしかなかった。

「最初に先生にぶん殴られた人いたでしょう?あの人、それまで練習サボっていたのに、斗真先生にぶん殴られた翌日から毎日練習に来るようになって、会長は目を細めて喜んでますよ。このジムに2人目の日本チャンピオンが生まれる日も近いなって。だから、斗真先生はいいこともちゃんとやってるんです!」
 真人さんが毎日練習に来るようになったのは本当だ。酒もタバコもやめて毎日走っているらしい。

「たしかに斗真先生が無茶苦茶をやったのは本当です。でも、悪いことばかりじゃない!いいこともいっぱいやってるんです!それに先生は僕のことが好きなんでしょう?ちょっとやそっと間違えたくらいであきらめないでください!僕はもっともっと必死になって斗真流を学びます!だから、お願いします!斗真先生!」
 そしてとうとう、斗真さんはひざを屈した。
 僕の「言霊」は斗真さんの心の壁を打ち砕いた。斗真さんの心があふれ出す。
「藤原さまっ!ありがとうございます!」
 斗真さんは僕のひざにすがりついて、おいおいと泣き始めた。
 僕の目からも涙があふれた。
 二人はずっと泣き続けた。

 そして、斗真家の母屋の前から庭を隔てて斗真流の修練場を外から眺めている者がいた。
「おや、小野寺殿?いかがなされましたか?」
「あ、弦充郎さん」
 彩子だった。
「弦充郎さん、やっぱり青春って甘酸っぱいですね~♪」
「ははは、たしかにそうですなあ」
 雲は高く、空は青い。
 もうすぐ夏がやってこようとしていた。

「千佳ちゃん!よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします!」
 僕と斗真さんはお互いの関係を断ち切ることは辞めようということで同意したんだけど、彼女がひとつだけ強硬に主張したことがある。
「藤原さま!今日から私のことを『千佳ちゃん』と呼んでください!」
「はぁ?」
「『千佳ちゃん』って呼んでくれないなら、斗真流は教えてあげません!」
 ぷいっと横を向く斗真さん。
 でも、紅いフレームの眼鏡の奥の藍色の瞳は横目で僕の様子をうかがっていた。
 ふむふむ、この目遣いも斗真流の秘密なのかも。あとでスマートフォンにメモしておこう。
 そして僕の返事は決まっていた。
 弟子にとって、師匠の言葉は絶対だ。
「わかりました!千佳ちゃん!」
「よろしいっ!今日からまたびしびし行きますよ~!」
 千佳ちゃんの怪気炎が上がった。

 ちなみに真人さんは千佳ちゃんにぶん殴られたその翌日から生まれ変わったかのように練習に励んでKO街道を驀進。8試合目で日本王座をKOで奪取。2年後にこのジムの2人目の世界チャンピオンとなったが、それはまた別のお話である。

第4章 了

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