ベーシックインカム、21世紀の資本主義の礎か

 旧聞に付すが2016年の6月5日にはスイスで全国民に収入を保障するベーシックインカムを導入するかの国民投票が行われた。圧倒的多数(78%)で否決されたが、重要なのはこのアイデアが提示する現在の経済の限界と惹起する将来の経済、すなわち人間のあり方なので、以下ベーシックインカムの可能性と限界を論じてみたい。
 ベーシックインカム(以下BI)は年齢、性別、有・無職を問わず国が一定の金額を国民に提供するという破格の措置である。すでにフィンランド、カナダのケベック州で行われているが、スイスが特筆すべきなのは、一人に一か月2500スイスフラン(約27万円)と日本の大卒初任給を大幅に上回る金額を支給することである。
 働かない人にも支給されるので一見ユートピア的方策だが、自由経済を信奉する人たちからも支持されている。曰く、煩瑣になった社会保障の手続きはそれに従事する官僚を肥大化させ結果的にコストがかかり、粗雑な審査によって保障をもらう必要のない人がもらい必要とする人がもらえなくなっているので、すべての社会保障を一掃しBIにまとめれば結果的に国家支出が低くなる、と。
 さらに企業は解雇時に離別費用をほぼゼロに出来るから(だって失業したって国が所得を保障するから)、労働市場の流動性を高められ結果的に失業率を下げられるという。また所得が保障されているので労働者はブラック企業で働く必要がなく、企業もおのずと雇用環境を整えなければ市場から淘汰されてしまう。さらには所得が保障されているので、「就活」をわざわざ都市でする必要がないので、都市集中化が防げ過疎化に歯止めが掛かるという。
 素晴らしい着想だがじゃあどうやってファイナンスするのか、となると途端に歯切れが悪くなる。イギリスの週刊経済新聞エコノミストの算出だとこのスイスの提案ではGDPの30%を調達しなければならないという。経済学者がいう桃源郷、要するに絵に描いた餅である。従って現在フィンランドなどで施行されているBIは5万円程度、要するに単なる手当で終わっている。 ただオイラが興奮しているのは、先進国では慎ましい生活をするためのまっとうな職業が近年なくなってきており、日本のように賃金を低くし失業率を抑えるか、欧州のように手当を与え高失業率に甘んじるかのどちらかになっているが、21世紀にてこの二つのタイプの取りこぼしの多い社会保障に頼っていて果たしていいのか、とBIの概念は―その実効性はともかく―疑問を我々に投げかけるのである。
 そもそも社会保障とは19世紀にナポレオンやビスマルクなどの強権政治がブルジョアなどに政治的に対抗するために直接被搾取階級労働者に働きかけるポピュリズム的措置として生まれたのであった。
 またフーコーの人工を管理するbio-pouvoirを持ち出すまでもなく、19世紀から大々的になった産業資本主義は好不況の波があり、労働者を解雇することは―奴隷、農奴とは違って―必然となり、だが復帰する時まで「生かせて」おかなければなく、さらに労働者は消費の担い手でもあったので、社会保障が必要だったのである。
 21世紀の(先進国の)経済はもはや工場やオフィスで一律に働く労働者を必要としない(ギグ・エコノミー!)。国の富は一部の必ずしも国民ではない金融屋や情報産業の坊やたちによって作られる。多くの労働者は失業し中産階級は崩壊中だ。それに呼応し社会保障制度は肥大化し、国家は疲弊している。
 もちろん国家なぞ消滅してもいいと開き直ってもいいが、功利主義的政治的算術からしても国民の困窮化は社会不安を生み治安維持にコストがかかり、また経済的疲弊を生きることは当然人間の尊厳を損なうことになり、義務論的倫理からすれば当然許されないであろう。。
 スイスのBIの国民投票は言ってみれば、この時代遅れの19世紀的経済パラダイムに一石を投じるものだと思う。現代の経済は19世紀にはじまり20世紀に全面化した大量雇用の一律の産業を主とした経済と違い、世界市場に素早く反応しなければならない小規模の企業を中心にしたサーヴィス業が中心であり、労働市場は弾力的でなければならず、非雇用期間の手当てという旧弊な社会保障では対応できない。
 もしかしたらベーシックインカムとは、誰もが自由に市場に参入・退出でき、簡単に新たな市場を形成できるような可塑性を持った新たな資本主義への窓口かも知れない。
 しかし悔しいではないか、『第三の男』でオーソン・ウェルズに500年の平和は鳩時計しか生まなかった、と言われた世界一つまらないと思われている人畜無害のスイスがもしかしたら新しい経済パラダイムの可能性を示せるなんて!

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