書籍メモ: RANGE 知識の「幅」が最強の武器になる
を読みました。というか長い間ずっと読んでいてやっと読み終わった。実践的にキャリアや生き方を考える上で大事な本なので是非人にお勧めしたい本になった。
著者のデイビッド・エプスタインといえば、TEDの動画は何かみたことがあって印象的だったのだけどこうして科学や教育にも強く関わってくれるとは。日本版の解説を中室さんがされているのもピリッとして非常に良い印象。
今TEDのページを見に行ったら、この本のテーマでもTEDに出ているようでそれはこれから見てみようかと。
メッセージともっと深掘りして欲しかった点
さてこの本のメッセージは「常に遅すぎることはない」ということだったのかな、と。何かに特化した専門性を育まなくては、できるだけ早くから大量の時間を使わなくてはという専門性の神話に対して、少なくとも「ブレークスルー」という観点ではそれが全く意味がないことを繰り返し繰り返し指摘してくれた。
この本でもっと深掘りしてくれたらいいのにな、と思う点は「人生の満足度」という観点と「authenticity」という観点。土曜日の朝の実験の下りなどでも出てくるのだけど、単にrangeがあればよいという話よりも、自分の真なる好奇心を大事にできる場所や習慣を育めるかということがキーなのでは。
そういう意味では、「ブレークスルーのために」RANGEを出す、ということではなく、人がもっている全体性とか興味の発散を素直にちゃんと追いかけることが結果としてブレークスルーに繋がるのでは、と自分は読んだ。
気になった言葉を改めて眺めてみると、個人のキャリアやあり方と言うだけではなくて団体の運営や社会変革にもつながる沢山のアイディアと勇気をもらった素敵な読書体験だった。
気になった言葉をいくつか引用。
No.というのはKindleでの場所。すべて冒頭のRANGEより。
最近ソーシャル業界で流行中の「エンドゲーム」、その本来の使い方がチェスなどの終盤戦をさすということをそもそも知らなかったのでメモ(をしたのでは当時の自分)
最も応用が聞いてレジリエンスが発達するはずの「ルールを見つける力」。それを奪う教育が様々な場所でされていることに心が痛む。
これはロシアの近代化の描写で、近代化が進んだ村と辺境の村の考え方のコンセプトの対比を書いてあるくだり。カンボジアの村に縁のある自分としても共感があるところであった。どんな問いをもつか、どんなカテゴリを分けるかということも自分の接している環境に依存するということである。
僕は常々頑張る力は環境が与えてくれた技術だ、と思っているものの、思考の枠や考えかたそのものも環境が与えてくれる技術である、ということなのだろう。ますます「能力」だけで人を区別することがいかに一面的なのか、ということでもある。
そもそも自分の狭い観察範囲だと、就職活動で色々と悩むほどは「大学」「学部」というものは悩まずに決めている印象がある。そもそも気合いを入れて選んだ(というか選ばれるご縁のあった)会社ですら、上司ガチャがあり、配属ガチャがある。それに人生を預けるのは不条理だな、と思ってしまう。まぁ大学も学部も決めずに中退し、就職活動もしなかった自分の偏見かも知れないけども。
著者は不安定な世の中で、ポータブルなスキルは思考することや学習することであって今までの「専門性」ではないと繰り返し説いていて基本的には共感。自分が専門性がないことで変に焦る必要はない。逆に専門性があることで縛られすぎるのもよくない。自由な精神を希求したいところ。
これまさにその通りで、世にある多くの教育研究(outcome指標が点数だったり生涯年収だったりする)ものがそもそも余り意味がないことでもある。そんなことのため(だけ)に教育しているわけじゃないんですけど、っていう。
といいつつ団体を経営していても本当に難しい課題で、「あり方」や「決め方」「学び方」をトレーニングするような教育機関の場合、短中期的に数値化できないものが学びの成果となるので、経営の学習のループを別のことで回さなくてはいけなくなる。この辺りは自分の人生の課題の1つとして今後も取り組んで行きたい。
その後に出てくる「アイディアとは輸出入である」というくだりにも共通する。ここは「アナロジー」の大切さを説いている箇所で、人がアイディアを考えるときに「距離のある参照点」を設定することの大事さをおしえてくれている。
それは越境をしてカンボジアに来ている自分。そしてものづくりも教育にも、現場にも一部の政策にも関わっている自分も日々感じることである。遠いと思っていたモノが繋がったときに脳味噌がカタルシスを覚えるというか強烈に記憶する感じ。
人生がスポーツと違う(この本の言い方でいえば火星人のテニスをしなきゃいけない)とき、果たして組織のメタファーはスポーツチームで良いのだろうか。プロフェッショナルと働きたいと思う時の自分の「プロフェッショナル」の参照点は過度に複雑度の少ないスポーツに依存していないか。
スポーツをやるように気持ち良くお互いを高め合って、成長していくそんなプロフェッショナルな働き方に憧れる一方で、そんなことではどうにもならない遅延で繋がる町内会みたいなものにも関わっている中でときにふと組織に関する問いが現れてくる。
「このパフォーマンスが低いスタッフをプロスポーツチームのメタファーでご退場頂くべきか、町内会のメタファーでincludeしつづけるか」
そんな簡単に答えがある問いでもないのだろう。これからも悩み続けるような気がする。
スーパーレディ、ヘッセルバインの活躍の話の中で、先輩から聞いて彼女も大事にしているフレーズがこちら。意味は「心を大きく開いておけば、どんな経験からでも何かを学べる」ということだそうだけど、バスケットを空にする、心を空にして大きく開けておく、ということそのものが技術だな、と僕は感じる。ラディカルセルフケア。それは学びのセンサーを活性化させることでもある。
スーパースターと化しているダックワースが提唱したグリット。割と外部妥当性が弱いのでは、という点と、文脈依存性が高いのではという批判が寄せられている。
まぁその概念が有意かどうかと、実際世の中に与えるインパクトが大きいかどうかはどれくらい相関するのかわからない(そういう研究あるのかな)とはいえ、非認知能力に関わる自分としては非常に慎重になりたいところ。他山の石。
自分が何者か、どうありたいのか、どうケアをするかというテーマは人生をかけてゆっくり取り組むテーマだと思うんだけど、「自分自身の研究者」というフレーズや、小さな問いを立てて実験するという感覚が良かったのでメモ。インターン生とかから人生相談をされることってまぁまぁあるんだけど、次回くらいにどや顔で「自分自身の研究者になるんだ!」って言っていると思うので温かく見守ってください。
深掘りする人、色々な世界を俯瞰できる人どちらがすぐれているか、どちらでなくては人生上手くいかないか、という僕らの志向の癖を見事に綺麗に掃除してくれるパワフルな一発。ダイソンだけに。(別人です)
色んな人に自分の癖と役割があるわけだから、焦る必要は無い。
どんな漫画家が活躍しているかを調べるとジャンルの幅が有意だったよ、という話。純粋な興味やご縁に振り回されて生きていていいんだよ、という気持ちに。
チームが革新性を殺すのは良く言われることで、心理指摘安全性をあげて、同調圧力を下げ、意思決定より学びにフォーカスすることで回避できそう。個人だけでは大きな仕事できないので。
ほぼすべての草の根NGOに言えることでもある大事な台詞。個別最適が全体最適をもたらすどころか逆行することがあるわけで、どちらも見れる人(鳥的な人)の話を聞く覚悟は大事です。
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