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コンドームをした言葉

相変わらず会話における思考スピードが格段に遅く、家に帰り、寝る前に「あの場面では違う回答の方が良かった」と後悔することがあります。
即興性のあるものが昔から苦手で、何をするにも緻密まではいかないけど筋書きや台本を用意することがほとんど。プレゼンは間の取り方や手の位置まで考えるし、上司との飲み会でも「今日は何を話そうか」と考えを巡らせ、酔って饒舌になるまでの間を持たす大体のトピックスをスマホのメモ機能に入れておくことがあります。
引き出しの容量はあれど、引き出すスピードが極めてゆっくりという欠点があります。
逆にこうしてnoteで過去の事をウダウダと書くのは、引き出しの中をゆっくりと探る行為でもあるので得意だったりします。

山雅界隈で様々な事情で去ってしまった人と話すと、黒い部分が見えてきます。株式会社松本山雅の部分、応援団体の部分、サポーター間の部分。人によって様々です。僕がイマイチそういった部分を感じない。10年単位で山雅に関われてしまっているのは、恐らく深く考えない、山雅関係の友人・知人が極めて少ない、情報格差があるからだと思います。
先日、会社として生まれ変わるために外部の人材を取り入れるというニュースに改善する兆しを感じてしまったことは先見の無さかもしれいない。

色々な問題についてTwitterではオブラートに包んだというか、避妊するかの様に実像は見えても薄い被膜に包まれたかの様なツイートが多くあります。そして、それらを極めて埋没性の高いTwitterというツールにしか残していないのがほとんどです。
世の中の事、興味の無いことをイマイチ深く理解していない僕は何故確かな質量として残さないのかと疑問に思います。その疑問を確かにしたのは落合陽一さんのある言葉です。

質量のあるものは壊れる
質量のないものは忘れる

この世のあらゆるものがこの事象に当てはまると思います。
Twitterでオブラートに包んだ発言を見ると、気持ちを分かって欲しい部分と気持ちを隠しておきたい部分が同居しているのかと理解しています。しかし、日本人の1日の平均ツイート数は26回で届けたい対象人物のフォロー数が多ければ届けたい気持ちは埋もれて薄くなっていきます。直接会って話したとしても誤りは発生するのに、薄い被膜に包まれた言葉なんて他人が分かる訳がありません。
少し前から「情報に質量を残す」と自分への課題を設けて、こうしてnoteを始めてから半年くらい経ちますが、既に過去の内容と矛盾していることは多々あります。それを一貫性の無い発言と捉えられてしまわれたらそれまでですが、寧ろ半年前の脳と身体を持った人間はいるのだろうかと思います。もしいるとすれば、五感から入る全ての情報が遮断され、無重力空間において仮死状態でいた人だけだと思います。爪や髪の毛が伸びたり、嫌なことを忘れたりと常に人間の細胞は生まれ変わっているので、思考の矛盾が起きるのは当たり前ということが分かると思います。
つまり「情報に質量を残した」としても半年後、或いは明日には情報が形骸化し「質量として残した情報が壊れる」ことは往々にしてあります。だから伝えたい事があるのであれば新聞や書籍の様に情報に質量を残すことを続けなければいけません。

無論、質量を持たないものは忘れ去られます。
戦争があった事実は書籍や教科書に残り続けますが、個人の脳に記憶されたものはその人が死んでしまえばこの世から消失してしまいます。戦争に限らず、質量を残せていないが故に情報に寿命が生まれ、記憶資源を容易く消失させていたことは多々あります。
人間の死と共に、世の中から忘れ去られてしまうのです。
山雅という組織の中で「これは悪い」と思ったものを持ち続けていても意味がありません。「悪い」を理由に組織を去った後も「悪い」は組織に残り続け、一時忘れ去られたり、誰も手を付けられないまでに肥大化することは御自身がよく分かっていることです。
もし「悪い」が嫌で変えたいのであれば「悪い」を言葉にして、多くの人に届ける必要があります。一度言葉にしただけで変わる可能性もあるし、寧ろ変わらない可能性の方が高い。そこで世の中に伝わらなかったり、自分自身が折れてしまうようであれば逆に諦めがついて次に行ける。
あれはダメこれはダメとツイートし続ける方がダサいというか。

暗に言った所で何も変わりはしないし、他人からしたら知ったこっちゃない。
だからこそ自分のメディア、自分の言葉で、思う方向に変えて行く必要があると思っています。
その手間と愛するものが壊れてゆく姿を見るのはどっちが苦痛かで天秤にかければ答えは出てくる。

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