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年が明ける前(冬の夜)

一応、蕎麦とかを買ってみる。
特に帰る家がない事を寂しいとは思わない。寧ろほっとする。

昔から、年末年始のお祭り気分、というのには(それがTVであれスーパーの売り場であれ)乗れなくて、こういう「世間」というものとは薄膜一枚隔てられているように感じる(今は特に)。

TVがあるわけではないから紅白だとか、何を見るというわけでもないし、なんとなく友達と都合がつきにくくなって、「ああ、年末だものね」と思い至る。それが私のかろうじて感じる「年末の雰囲気」だ。

"当たり障りの無い儀式みたいな"「良いお年を」を言う相手も今年は居なくて、ただやんわりと時間が過ぎている、という気がするし、それは悪いことではないように思う。
少し音を絞ったお気に入りの音楽をかけて、暖房機の音を聞いて、馴染みの正体のない寂しさが隣にあって、悪くない気分。

「2021」が、次から何かの書類をかくときには「2022」になるはずで、その時にはきっと年が変わったことを実感するのだろうな、と思う。

実感がないとは言っても、仕事帰りの友達を誘って、年末で閉店の早いスーパーに滑り込んで、ちょっといつもよりも高いお蕎麦を買っていっしょに食べた。唯一の年末らしい事だ(あと、友達に餅屋でかったお餅をあげた。恋人とお雑煮を作って食べると言っていたので)。

料理を作る気力がないと言っても、さすがに蕎麦を茹でるくらいのことはできる。
冬の水は冷たくて麺にシメるのにはいいなと思う。

ざるそばだけというのもどうかと話してそれぞれ選んでみた海老天とかき揚げも載せて食べる。
海老天はいつも通りの「可能な限り見栄えを良くした(つまり中の海老はギリギリまで小さい)」ものだったけれど、かき揚げは見た通りのものだったので、トッピング対決はかき揚げの勝ちだった。

今は友達は最後の掃除?明日の準備?のために帰ってしまったので年越しは1人だ。

別に自分が選び取った孤独ではないけれど、孤独になったとしても仕方ないと思って言葉も行動も選んだ結果なので自業自得というか必然としての時間だとは思う。

ただ、何もかも疲れていて、何もない時間を過ごせること、このタイミングになってやっと何もない時間を持てるし、受け入れられるようになったと思う。

今年は本当に死ぬ様な事が何度も起きていて、その度に本当にいろんな人が助けてくれた。
救急搬送やら手術では社会の仕組みに、食べるのにも窮した時には本当に色々な友人に。
他人の善意というのがこんなふうに自分に向くのが今でも不思議に思う。
みんな、僕にそんなことをする義理も恩もないはずなのに、どうしてかはわからない。
ありがたく思うし、その善意がいつか失望に変わらない様に祈る気持ちになる。

困難な年だったけれど、良い年だったのだと思う。

個別に送れない人にも、良いお年を。2022年がみんな、友人たちにとって良い年でありますように。

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