性蔑信仰に対する理論的見解

*これは執筆中の記事です
性蔑信仰(性忌信仰)に対する各思想家の理論的見解を記載していく。

ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)

ルソーは『エミール』(1762)で、男性が欲望を抱いた際、これを滅法示せば「男性は女性に抑圧され犠牲となり、死に追い込まれるような目に合いながら、決して抵抗することが出来ない」と述べた。また、性蔑信仰を「不変の自然法」だと説き、「自然は女性には容易に欲望を刺激する力を与え、男性には容易に欲望を満足させる力を与えず」これによって「男性はいやおうなしに女性の気分へ依存させられ、女性を喜ばせようと努めることを強制される」と述べた。さらに、「たとえ女性がこの権力を悪用したとしても女性からそれを剝奪することは出来ない。仮に女性がそれを失うものであればとうの昔に失っていたに違いない」と論じ、「女性は男性を支配している」ことを示した。

自然は差別なしに両性にいずれも同様に相手に言い寄ることを命じている、だから、最初に欲望を抱いたものが、最初にこれを滅法示すべきである、などと誰が考えられよう。それはなんと奇妙な判断力の退廃であろう!こうした目論見は両性に極めて異なる結果をもたらすのに、両性ともに同じ大胆さでこれに身をゆだねることが自然といえようか。共同の営みの受け持ちには大変な違いがあるのだから、自然が男性に強制している節制を、女性が慎みによって強制されなかったとすれば、やがては両性共に身を亡ぼす結果となり、人類が自己を維持するために与えられた手段によって滅亡してしまうだろうということが何故見て取れないのか?女性は容易に男性の官能を揺さぶり、心の奥底にあるほとんど消えてしまった欲情の残り火を搔き立てることができるのだから、この地上のどこか不幸な風土に、哲学がこの慣習を導入したとすれば、とりわけ男性よりも女性が多く生まれる暑い国では、男性は女性に抑圧され結局その犠牲となり、皆死に追い込まれるような目に合いながら、決してそれに抵抗することが出来ない、ということになるだろう。
(中略)
従ってここに性別の構造の第三の帰結、それは見掛けは実に堅固すなわち達者でも、実際は実に弱味に依存しているということである。そしてこれは騎士道の軽薄な慣習によるものでも、保護者の誇り高き寛大さによるものでもなく、不変の自然法によるものである。自然は女性には容易に欲望を刺激する力を与え、男性には容易に欲望を満足させる力を与えずに、男性をいやおうなしに女性の気分へ依存させ、しからば男性は自分を実に堅固にすることを女性に承知してもらうために、女性を喜ばせようと努めることを強制されるのである。
(中略)
この権力は女性のものであり、たとえ女性がそれを悪用したとしても女性からそれを剝奪することは出来ない。仮に女性がそれを失うものであればとうの昔に失っていたに違いないのである。

『エミール』(1762年) 第五篇 より

ジョレミ・ベンサム(1748~1832)

ベンサムは『道徳および立法の諸原理序説』(1789)で、色欲に無性に避難の印をつけることを「陳腐な道徳観」だと批判し、それは「物事に適用されたときはあやまり、名称に適用されたときは真実ではあるが無意味」だと述べた。また、「人類に真の奉仕をしたいのであれば、性的欲望が色欲という名称に値する事情を示さなければならない」と述べた。

性的欲望の結果が悪いと考えられるならば、色欲という名称が与えられる。そこで色欲はいつでも悪い動機である。それは何故かといえば、その動機の結果が悪くなければ、その動機は色欲とは呼ばれないし、またそのように呼ばれてはならないからである。
従って真相は、私が「色欲は悪い動機である」という場合に、それは色欲という言葉の意味にだけ関係をもった主張であり。同一の動機について用いられる性的欲望という別の言葉で言い換えれば、その主張は誤りになるということである。ここに我々はあらゆる陳腐な道徳観の空しさを知る。陳腐な道徳観は色欲、残虐、貪欲などという名称に避難の印をつけるだけである。それは物事に適用されたときには誤りである。それが名称に適用されたときには実際には真実ではあるが、しかし無意味である。貴方が人類に真の奉仕をしたいのであれば、性的欲望が色欲という名称に、不快感が残虐という名称に、金銭的関心が貪欲という名称に値する事情を彼らに示さなければならない。

『道徳および立法の諸原理序説』(1789) 第十章 動機について-第三節 快楽と苦痛の目録に対応する諸動機の目録

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