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お墓参りは先祖供養ではない!?

 先祖供養のためにすること、といって、皆さんが思い浮かべるのは何であろうか?「お墓参り」を思い浮かべる方も少なくないのではないだろうか。しかし本来、お墓参りに先祖供養の意味はない。先祖供養のために必要なのは、お墓参りよりも、仏壇に手を合わせることである。そもそも、お墓と仏壇とでは、仏壇の方がはるかに歴史が古い。

 仏壇は、天武天皇が「それぞれの家毎に仏舎(ほとけのみや)を作り、即ち仏像と経とを置きて礼拝供養せよ」との詔を出したことに始まる。

 なぜこのような詔を出したかというと、「お寺に毎日のように行くのは現実的に難しいから、家で仏さんに手を合わせるようにするには、家の中にお寺のミニチュアを作ればいいよね」という考えに基づいて出されたのである。そこに、先祖供養という意味合いが与えられたのは、さらに後の話である。

 さらに、お墓参りの際に先祖供養のためにお供物をしたりする人も多いと思うが、実はそのお供物はご先祖さんのところには届いていないかもしれない。仏教教典にこんな話がある。

商人たちが衣服を持たない女餓鬼を憐んで、衣服を与えようとすると、その女はこう言った。

「あなたが手ずからこの手に与えてくださっても、私を恵むことにはなりません。ここにいる男信徒は信心深いブッダの弟子です。この人に衣服を着てもらって、それによって私に施を向けてください。そうすれば、私は幸せとなり、望むものを与えられることになるでしょう」

商人たちが言われたとおりにすると、その女餓鬼は衣服を着てあらわれた。

 これは、神がみや死別した妻、餓鬼などには、直接、施物を与えられないため、別の有徳の師や僧団などに供物を布施し、その功徳を神々や死別した妻、餓鬼などに振り向けるということである。

これが、功徳の「廻向」である。「廻向」に当たるサンスクリット語は「パリナーマ」といい、これは「振り向けること、廻施すること」という意味である。まさに、先の事例では、自分の功徳を女餓鬼に振り向けているのだ。

「廻向」にはもう一つある。例えば、阿弥陀仏は無数劫にわたって善業を積んでこられた。その功徳を衆生に振り向ける、というものである。

 先の例では、自分が積んだ功徳を女餓鬼に振り向けるというものであったのに対し、これは仏さんが積んでこられた功徳を振り向けるというものである。本来、阿弥陀仏を基調とした先祖供養は、これが一般的な先祖供養の論理である。

 日本でも施餓鬼(お盆)は比較的馴染みのあるものだと思う。あまり仏教に詳しくない人でも、「お盆休み」というのは聞いたことがあるはずだ。(そのお盆というのは、施餓鬼のこと)施餓鬼供養というのは、まさにこの廻向の論理を用いた供養なのである。

 そうなると、先祖供養も論理的には同じようなものである。仏壇という名の、家にあるミニチュア寺院の仏さんに対してお経を唱えたり、お願いしてその功徳をご先祖さんに振り向けているのである。

 であるから、先祖供養のために必要なのは、「お墓参り」より、寺院などにお布施や寄進したり、家の仏壇の本尊さんに手を合わせてお願いすることなのである。

 最近では、仏壇をおいていない家も多くなったと聞く。また、祖父や実家にあるから、自分の家にはおいてないという人もいるだろう。しかし、そもそも仏壇というのは、はじめにも述べたとおり、毎日お寺にお参りしに行くわけにはいかないからということで、家の中に仏舎をおいたものである。なので、親族の家のどこかにあれば、それでいいというものではない。

 もし、家に仏壇がなければ、最近は小さい仏壇も作られているから、ぜひ仏壇をおいてほしい。そして、その仏さんに手を合わせて、その功徳、さらには仏さんが積んでこられた功徳というものをご先祖さんに廻向してもらいたい。これが、本当の先祖供養なのである。

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