マスカラ劇場

カーテンを開け、花の水やりをする君
コーヒーを飲みながら、それを見る僕
これが今の、2人の朝の習慣である
うるさいアラームを止め、おはようのキス
焼きたてのトーストの香りに包まれ、ギリギリまで笑いあう
そんな、付き合いたての頃の朝とは
すっかり変わってしまったけれど
君と過ごす 何気ない一日
心地の良い幸せな一日が始まる

「行ってきます」
そう言って今日も玄関で抱きしめ合った
いつものように仕事へ行く
いつものように家事を始める
いつものように2人の時間が流れていく

「忘れ物」と戻ってきた僕
「ん?」と困り顔の君
「あ、もうひとつ忘れもの」とキスをする僕
フフッと照れる君
付き合いたての頃の2人のように
照れ、笑いあい
そして…
「はい。行ってらっしゃい」
とまたキスをして君を送り出した

最寄りの駅まで徒歩8分
そして電車に15分間揺られる
乗り換えは無い

♪ブーブッブッ♪
このパターンのバイブレーションを設定しているのは1人だけだ

「今日もくれぐれも事故とか気を付けるんだよ。
行ってらっしゃい。 私」

「分かってるよ。いつもありがとう。
行ってきます。 僕」

♪ブーブッブッ♪

「今日も外は暑いの? 私」

そう言えば、文面の最後に「私」や「僕」をつけるのは僕達だけの特徴だ
いつだかの昔に
「“2人だけの”って嬉しいじゃん」と君が決めた
心配性の君から始まったメールはなんとなく一日中続く
恒例のことだ

今朝のキスについては触れないんだなぁ
なんて思いながら返信を打つ

「暑いよ。まだ夏だね。
外に出るときは気を付けてね?
もう倒れたりしないようにね? 僕」

あなたが仕事に向かってから
何気なくテレビをつける私
そして一人、いつものように遅めの朝食を準備する
あなたが好きなブルーベリーのジャム
気づけば私の朝には欠かせなくなってた

付き合ってから今もずっと、変わらないことがある
それはあなたが職場に着くと
「無事に着いたよ 僕」と必ずメールをくれること
だけどたまに待ちきれなくて先に私からメールしてしまう日もある
そして今日も
「朝のキス、ビックリしたけど嬉しかったよ 私」
そう打ちかけたけどやっぱちょっと照れ臭くて
何でもない内容を送ってしまった
♪ブーブッブッ♪

あなたはいつも約束を忘れずに私たちだけの返事をくれる
暑さに弱い私の体調も気にかけてくれる

決めた
朝のこと、あなたが帰ってきたら自分の口で伝えよう

今日は検査結果が出る日だ
ただ日中の暑さで少し倒れただけなのに…
医者に検査を勧められ、大袈裟だと思っていた私
言われるがままに受けた検査

どうせ大したことない
帰りに駅前のケーキ屋さんでも寄って帰ろう
いつも通りの化粧をして、彼に買ってもらった日傘をさして家を出た
日傘をさしながらにやける私

病院に着いて早々、待合室ではなく別室に呼ばれた
「あっ、検査結果聞くだけだから早いのね」と思った私

「失礼します」
そこには、パソコン越しに険しい顔をした医者がこっちを見ていた
そのあと私は言葉を失った

半年?長くて一年?
理解が出来ず、思わず笑ってしまった
でも、頬には涙の跡が…
帰り道スマホを開く
彼とのやり取りの途中だった

「今日ケーキ買って帰るね。それと家に帰ったら伝えたいことある 私」
朝のことを家に帰ったら自分の口で伝えよう
それがまさか、こんな報告になるとは…
「どうしよう、言えるかな私…」
笑いながらも涙が止まらない

電車に15分揺られ、8分ほど歩く、いつもと同じ帰り道
「もうすぐ着くよ 僕」
いつも通りのあなたの帰りを待つ、いつもと違う私
「分かった。待ってる 私」

「ただいま」
「…おかえり」
「どうしたの?そんな暗い顔して」
「話があるって言ったじゃん?」
スーツを掛け、冷蔵庫を開けて
いつものビールに手を伸ばす彼の背中に話しかけた
「うん。なんかあったの?」
「あのね…別れたいんだ…」

長い沈黙が2人の時を止める
永遠にも感じるこの沈黙を彼のありきたりな質問が遮る
「なんで?」
「好きじゃなくなったんだ…」

あなたに初めて嘘をついた
あなたにとっての私との時間を
凡庸なラブストーリーのままにしておきたくて…
男女が出会って別れる、どこにでもあるラブストーリー

僕たちの過ごした時間は特別だった
ほかの誰とも違う僕たちだけのありきたりな時間
ありきたりなキス
君を凡庸なラブストーリーで終わらせたくなかった
こんなことなら始まらなきゃよかった…

fin.

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