国 民 (大貫隆史)
――この言葉からこぼれ落ちるものは何か
「国民」とは?
「国民」という言葉を、私たちはどんな場面で使うだろうか? もしかすると、すぐには思い浮かばないかもしれない。もちろん、「国民が一丸となってこの難局を乗り切ろう」、といった言い回しを耳にすることはある。しかしそれは、ごく一部の限られた人々(政治家など)が使うのを、例えばテレビなどで(ひょっとすると、やや「しらけ」ながら)目にする、といった感じではないだろうか。家族や友人との会話のなかで、「国民」という言葉を口にすることは、ほとんどないように思える。「いやね、ここは国民として団結しよう」などと、いったいどんな場面で使うだろう。想像することすら難しい。
これはなぜなのだろうか? どうして、「国民」という言葉は、ここまで縁遠いのだろうか? ひとつには、「国民」とはどのようなものか、手触りをもってイメージするのが、あまりにも難しいからかもしれない。日本の人口は現在のところ、約 1 億 3 千万人弱である。ひとまずは、この、あまりにも膨大な数の人々が、「日本国民」ということになるのかもしれない。しかし、「日本国民」とは、実際にどのような人々なのか、これを具体的にイメージするのは、本当に難しい。1 億 3 千万人弱の人々が、同じような生活を送っているのだろうか? みながみな、同じような考え方や感じ方をしているのだろうか? もちろん、まったく違う生活を送り、まったく違う意見や感覚をもっているわけではないだろう。なんらかの共通点はあるに違いない。しかし、家庭のあり方や仕事の違い、受けてきた教育の違い、生まれ育った地域の文化の違い、住んでいる地域の雰囲気の違い――こうした違いを数えていくと、どうも共通点より、違いの方が大きいのではないかとすら思えてくる。
つまり今の私たちは、「国民」という言葉を、「国」の「民」という、字義通りの意味でしか理解できないのかもしれない。「国」すなわち「国家」や「政府」のもとで、その生活を送る「民」すなわち人々。日本国民であれば、日本政府がその基本的人権を保障している人々、ということになるだろうか。なんとも、のっぺりとしたイメージである。日本の国民とは、日本政府によって行政サービスを受ける人々のことで、あたかも、一人一人の国民と政府が、線で繋がっているようなイメージである。日本政府から、1 億 3 千万弱もの(太いか細いかは別として)糸が出ていて、そのそれぞれが、一人一人の国民と繋がっている。その代わり、横には糸は張りめぐらされていない。つまり、国民同士の繋がりはない。おそらく、こうしたイメージがあまりに強いので、私たちは日常生活で「国民」という言葉をほとんど使わないのだろう。「国民健康保健」とか「国民年金」とか、行政サービスに関わる場面ばかりで「国民」という語が出てくるのは、こういう事情があるからに違いない。
ところが、「日本人」という言葉になると、かなり事情が異なってくる。これには注意が必要だ。私たちが「日本人」とつぶやくとき、それは、やたらと具体的なもののようだ。「日本国民」とはわけが違う。試しにインターネットで、「日本人なら」という表現を検索してみるとそれがよくわかる。「日本人なら知っておきたい礼儀作法」、「日本人なら漬物と味噌汁」など、数多くの表現が実に簡単に見つかる。「日本人」とは、こういう集団でしょ、という強烈なイメージが、どうやらあるらしい、ということである。礼儀作法などの習慣や、食生活を共有している集団が「日本人」だと、私たちはすぐに思い浮かべることができてしまう(もちろん、これはあくまでイメージの話であって、そうした共通性をもつ集団が実在するのかどうかは別問題である。この問題については後述する)。
「日本国民」と「日本人」
よく考えると、これは不思議な話である。「日本国民」と「日本人」は、ほとんど同じものを指す言葉のようにも見えてしまう。[注1] にもかかわらず実際には、その意味合いが大きく異なっているのだから。これはどういうことか? ここでひとつの仮説を立てておこう。それは、「日本国民」とは、まずは、社会的な繋がりを意味する言葉であり、その一方で、「日本人」とは、おおむね、文化的な繋がりを指し示す言葉である、という仮説だ(ここで言う「社会」も「文化」も、かなり大きな限定をこうむった言葉なのだが、それについては最後に触れる)。
もう少し言い換えておこう。「日本国民」が意味するのは、人々が生活の糧を得たり、老後の保証(国民年金)を得たり、医療制度(国民健康保険)を利用したりするために、相互に結びつく集団である。しかし、「日本人」となると違う。それは、そういう社会的な問題とはあまり縁のない集団であり、もっと文化的な共通性をもつ集団となる。例えば、パンよりお米を食べたい。握手よりお辞儀をする方がしっくりくる。バスタブのなかで洗うよりも、やはり洗い場で思う存分身体を洗いたい(今のところ私は海外で「洗い場」のある浴室を見たことがない)。こういう人々が「日本人」だ、というわけだ。
これは思った以上に深刻な事態かもしれない。なぜか? 私たちは、生き抜くために互いに結束せねばならないことがある。例えば、生まれたばかりの子どもは年長者(例えば親)がいないと、栄養を摂ることすらできず死んでしまう。大人であっても、病気のときには病気ではない人から、年老いたら年老いてない人から、助けてもらわねばならない。そんなとき私たちは、相互に強く結びつきたいと願う。しかし、そういう集団を指し示す言葉として、「国民」は、すでに述べたように、どうにも使い勝手が悪いらしい。「国民」同士が横に繋がり合って、難局を乗り切ろうとする、ということを、今はどうにもイメージしがたいのだ。では、「日本人」はどうだろう。これもすでに指摘したように、「日本人」は、あくまで文化的な繋がりを指す言葉であって、生存のための繋がりを指すには、どうにも不向きな言葉のようだ。例えば、サッカー日本代表を、「日本人が一丸となって応援しよう」と言うとき、これは、ある意味わかりやすい。スポーツという文化について語るとき、「日本人」という言葉はあまり違和感を生じさせない。ところが、「日本人が一丸となって相互に助け合おう」ということになると、途端にややこしいことになる。実際に、どうやって結びつき、どうやって助力し合うのか、うまくイメージできない。つまり、社会的な結束を考える時、「日本人」という言葉は使い勝手が良くないのである。
文化的紐帯〔ちゅうたい〕としてのネイション
「日本国民」と「日本人」は、ほとんど同じ集団を指しているようにも見える。ところが、「日本国民」と言うと社会的な集団のことになり、「日本人」と言うと文化的な集団のことになってしまう。これはとてもややこしい事態に違いない。ほぼ同じものを意味するのに、別々の言葉が使われているのだから。しかしこういうとき、その背後には、とても重要な問題が潜んでいることが多い(例えば、男性の配偶者を「主人」と呼ぶときもあれば「夫」や「パートナー」と呼ぶときもあるのはなぜか、考えてみるとよいだろう)。そうした重要な問題の所在をあぶり出すのが本項の目的なのだが、その前に、「国民」や「民族」を意味する英語の「ネイション(nation)」という言葉の系譜をたどってみることにしたい。
さて、この「ネイション」だが、これは、どのような語感をもつ言葉なのだろうか。文化人類学者のベネディクト・アンダーソンは、次のような、じつに興味深い言い方をする。
……ネイションを次のように定義することにしよう。ネイションとはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体である……。ネイションは想像されたものである。というのは、いかに小さなネイションであろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の正餐〔コミュニオン〕のイメージが生きているからである。(24 強調は原文)
驚くべきことに、アンダーソンの言う「ネイション」は、頭のなかにしか存在していない。実体はない。例えば、サッカーの日本代表を応援するとか、朝起きて全国の天気予報をテレビで見るとか、そういう「儀式」をおこなうことで、想像上のものとして生まれてくるもの、それがネイションである。テレビで日本代表を応援していると、「日本人はみんなこうやって応援しているに違いない」と、私たちはときに想像してしまうことがある。あるいは、天気予報の全国版をテレビで見ていると、「自分と同じように今日の天気を気にしている人たちが、この国にはたくさんいる」と、なんとはなしに思うことがある。しかしそれは、あくまで想像上のことに過ぎない。実際には、日本代表の勝敗に興味のない人も結構いるだろう。雨が降ったらビニール傘を買えばいいから、天気予報なんて気にしないと高をくくっている人も少なくないだろう。ひょっとするとネイションは、雪男とかツチノコに近いものなのかもしれない。実体はなくて、みんなの頭のなかにだけいる、想像上の存在としてのネイション。
別な言い方をすると、アンダーソンが言いたいのは、ネイションが文化的なものである、ということだ。ネイションとは、まずは、何らかの紐帯をもった民族的/国民的〔ナシォナル〕な集団のことである。ただし、そうした相互の繋がりは、新聞を読んだりテレビを見たりするという「儀式」によって、後から見いだされるものに過ぎない。ネイションとは、なんともつかみどころのない抽象的な存在なのだ。
だからネイションは、ひもじかったり身体の節々が痛んだりするとき、あなたに食事を分け与えたり、つらい箇所をさすってくれたりはしない。いや、ひょっとすると、そういうこともあるのかもしれないが、そうした相互の助け合いは、ネイションの主たる目的ではない。ネイションは、例えば、高齢化とか少子化とか、そういう社会的問題を解決するために、相互に結束し合う集団のことではない。それどころか、ネイションは、ひもじさや飢えを生みだすような、社会的な対立(例えば貧富の格差や階級・階層間の対立)を、覆い隠してしまうものなのかもしれない。
アンダーソンはこう断言する。
たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、ネイションは、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれる……。(24)
彼が言いたいのは、おそらくこういうことだ。ネイションという「水平」な繋がりが強調されることで、垂直の対立軸が見えにくくなってしまうのだと。横の繋がりが力説されることで、縦の対立が実際には生みだしている「不平等と搾取」がぼやけてしまう、ということである。
さて、ここでようやく本セクションで提起した問題にとりかかれそうである。「日本人」と言うと文化的な集団のことになるのはなぜか? ひとつにはこう答えられるだろう。私たちが「日本人」という言葉を使うとき、そこで含意される「紐帯」が、まずは想像上のものだからだと。「日本人〔にほんじん〕」という場合の「人〔じん〕」とは、アンダーソンの言うネイションをいまや意味している、と言ってもよい。
こうなると、「日本国民」と言うと社会的な集団のことになるのはなぜか、という問いにも答えられそうである。「日本国民」という場合の「国民」とは、少なくともアンダーソンが定義するネイションのことではない。たとえ想像上のものであろうと、ネイションは、人々のあいだの繋がりを意味する言葉である。頭のなかにしか存在しないにせよ、「日本人」同士の同胞愛とは、私たちを「水平に」つなぐものである。しかし、「国民」は、いまやそうした紐帯を喚起しない。すでに述べたように、日本国民とは、そのひとりひとりが、国家や政府と垂直に繋がっている集団のことに過ぎないのだから。
私たちの水平な繋がりは想像上のもので充分だ。そうやって繋がった集団を「日本人」と呼ぼう。「日本人」同士のそうした繋がりが実体的なものである必要はない。実体的な繋がりは、縦のものだけで充分であって、そうやって繋がった集団を「日本国民」と呼ぼう。私たちは、こういう「ことばづかい」を選択してしまったらしい。 さて、こうした「ことばづかい」にまつわる問題とは何だろうか? まずは、「横に」つながりあって、実際に助け合うとき、そうした私たちをうまく呼称するための言葉が存在しない、ということである。「日本人」では、どうやらダメなのだ。もうひとつは、「垂直」に対立しあいながらも、その解決に向けてアクションを起こすとき、そうした私たちをうまく呼称するための言葉がおなじく存在しない、ということである。「日本国民」では、どうやらダメなのだ。
この問題は、一朝一夕に解決するようなものではなさそうだ。しかし、話を戻して、英語の「ネイション」の系譜をさらにたどってみることはできるし、その作業は、ひょっとすると、私たちがいつの間にか陥ってしまった苦境を抜けだすためのヒントを与えてくれるかもしれない。
ネイションが文化的になったのはいつか?
アンダーソンが示唆するように、ネイションとは想像上のものだ、というのは確かに正しいのかもしれない。しかし、ネイションとはそもそもそういうものだったのだろうか? ネイションは、昔から想像上のものに過ぎなかったのだろうか? あなたが飢えや痛みにあえぐときに、それを助けてくれるような、社会的な紐帯としてのネイションが、存在したことは一度たりともなかったのだろうか? レイモンド・ウィリアムズはこう述べている。
「ネイション」は、言葉としては、その起源からすると、「ネイティヴ」という言葉と結びついている。私たちは、諸処の関係のなかに生まれ落ちるのだが、そうした諸関係は、典型的なかたちでは、ある場所に固定されている。この形態における紐帯は、第一義的なものであり「土地にまつわる(placeable)」ものなのだが、それは、じつに根源的な重要性をもつものであり、また、そうした重要性は、人間がつくりだしたものであり、かつ、自然に生じてきたものなのである。ただし、そうした形態の紐帯から、近代の国民国家〔ネイション・ステイト〕のようなものへの飛躍は、完全に人工的なものである。(“The Culture of Nations” 191)
「ネイション」という言葉の語源を探ってみると、アンダーソン的な「ネイション」(=人工的な紐帯)ではないものが、おぼろに見えてくる、ということである。そしてウィリアムズの言う、「人工的なもの」ではない「紐帯」とは、別段、難しい話ではない。洋の東西を問わず、同じ場所にすまう人々は、ときに助け合い、ときに真剣に対立し合いながら、相互の紐帯を成長させてきた、というよく知られた事実のことを、ウィリアムズは言っているだけなのだ。よく知られている、というのは誇張ではない。こうした「成長」を描いているのが、ウィリアムズの小説『ボーダー・カントリー(辺境)』だけではなく、実は、NHK の朝の連続テレビ小説でもあるからだ。『おしん』の酒田(山形県)から『ちゅらさん』の小浜島(沖縄県)を経て、『あまちゃん』の三陸(岩手県)にいたるまで、「土地にまつわる〔プレイサブル〕」紐帯の成長物語こそが、これら国民的ドラマの隠れた主題である。前者と後者で違うのはその力点の所在だろう。ウィリアムズの小説では、そうした紐帯が土地に固有の仕方で成長を遂げていることが強調される。朝の国民的ドラマの方では、そうした成長物語が、日本全国どの土地にも当てはまるものとして一般化されてしまう。つまり「完全に人工的なもの」へと「飛躍」してしまう。
話を戻すと、そうした「飛躍」を回避するのであれば、「土地にまつわる〔プレイサブル〕」紐帯は、純粋に想像上のものとは言えない。同じ土地に住んでいるんだから、同じような感じ方や考え方をしているんだろう、と想像するだけでは、日常的に生じてくる様々な問題を解決していけないのだから。誰がどの土地をどう利用するのか、といった対立が避けられない問題から、子どもの教育をどうするのか、といった協力が避けられない問題にいたるまで、種々の具体的な困難を乗り越えていくなかで、「土地にまつわる」紐帯は、「自然に」成長していく。
別な言い方をすると、それは、縦かつ横の紐帯であり、ひょっとすると、文化的であり社会的な紐帯なのかもしれない。つまり、人々のあいだの垂直な対立(例えば富の偏在や世代間対立)を解決していくことで成長する、という点では、それは社会的な紐帯であり、人々のあいだの水平の協力関係をつくり出すことで成長する、という点では、それは文化的なものだ、と言えるのかもしれない。
ウィリアムズが言いたいのは、こうした「土地にまつわる」紐帯が、ネイションという言葉と、あくまで語源的にであれ、結びついている、ということである。これは逆に言うと、ネイションがアンダーソン的な意味での文化的なものになるとき、そうした語源的結びつきが限りなくぼやける、ということでもある。
しかしそれは、ぼやけているだけであって完全に消えてしまったわけではない。もし完全に見えなくなってしまったなら、ウィリアムズのような議論自体が出てこないはずなのだから。ということは、たとえ微かではあっても、ネイションという言葉と「土地にまつわる」紐帯のあいだには、関連性がある。つまり、ネイションという言葉がつぶやかれるたびに、この言葉が、その語源的な意味合いをほとんど失ってしまっているということ―これが、ひそかに伝達されている、というわけだ。
そして、これと同じようなことが、「日本国民」や「日本人」という言葉にも当てはまるのだろう。こうした言葉が発せられ耳にされるとき、そこで失われてしまった意味とは何なのか、とひそかに問われているのではないか。
1 億数千万という膨大な数の人々のあいだのつながりは、はたして文化的なものなのか。それとも、社会的なものなのか。あるいは、その両方なのか。さらには、その場合の「文化」とは、「社会」とは、どういう意味の「文化」であり「社会」なのか。そこには、「土地にまつわる」紐帯は、全く含意されていないのか。「日本国民」や「日本人」という言葉の使い勝手の悪さに悩みながらも、それと同時に私たちは、こういう「第一義的」な問いを、こっそりと発しているのかもしれない。
[注1] これはあくまで「見える」だけであって、もちろん、「日本国民」と「日本人」が指し示しているものはイコールではない。後者に含まれることを拒みつつ前者に含まれることを許容ないしは要求する人々が、私たちのなかにはいるのであって、そうした人々による経験こそが、以下の仮説の提起を促すものに他ならず、希望のリソースに他ならない。
参 考 文 献 (リンク先をご覧ください)
〈著者紹介〉
大貫隆史(おおぬき たかし)
東北大学文学研究科准教授。
専門は 20 世紀の英文化・文学。
単著に『「わたしのソーシャリズム」へ――二〇世紀イギリス文化とレイモンド・ウィリアムズ』(研究社)、共著に『愛と戦いのイギリス文化史 1951–2010 年』(慶應義塾大学出版会)、『現代批評理論のすべて』(新書館)、訳書にレイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて――文化研究I』(共訳、みすず書房、2013年)『想像力の時制――文化研究II』(共訳、みすず書房、2016年)など。
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