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マネジメント(大貫隆史・河野真太郎)

――この語は「管理」を免れているか

「管理」と「マネジメント」

 筆者はマネジメントの専門家ではない。いや正確には、用語としての「マネジメント」について専門的知見を有していない、と言うべきか。にもかかわらず、この言葉をキーワードとするのには、もちろん充分な理由がある。

 一つの理由は、マネジメントを、専門家の間にのみ通用する用語〔ターム〕と言って済ませられなくなった、ということだ。たとえば、「マネジメント・サイクル」という用語を頻繁に使うのは、おそらく専門家だけだろう。ところが、マネジメントという言葉となると、ずいぶん事情が変わってくる。インターネット上で少し検索してみるだけでも、「プロジェクトのマネジメント」、「心のマネジメント」、「からだのマネジメント」、「資産のマネジメント」といった用例が、多数でてくる。マネジメントは、私たちが日常的に使う言葉〔ワード〕なのだ。

 もうひとつの理由は、マネジメントという言葉に、ある重大な変化が映しだされている、というものである。簡単な実験をしてみよう。先ほど列挙した用例における「マネジメント」を、強引に翻訳して「管理」という言葉で置き換えてみるとどうなるだろうか?そうすると、何かが違ってこないだろうか? 「心のマネジメント」と「心の管理」では、明らかにニュアンスが異なる。「からだのマネジメント」と「からだの管理」でも、ずいぶん意味あいが異なる。そしてこの違いには、私たちが経験している、ある重大な変化が隠されているのである。本項目の最大の目的は、この変化を明らかにすることだ。

 とはいえ、それを指摘する前に、まず英語の management という言葉を、辞書で引いてみることにしよう。

1 マネージするあるいはマネージされるプロセスないしは事例 2 a 商業や公的事業などの専門的運営 b それにたずさわる人々 c 理事会。取締役会(The Oxford Concise Dictionary and Oxford Thesaurus[CD-ROM版]より試訳のうえ抜粋)

カタカナのマネジメントと、英語の management の違いは明らかだろう。「心やからだのマネジメント」という言い方には、「取締役会」や「経営層」という意味あいはひとまず見当たらない。「マネジメント」は、基本的に、“management” の一番目の語義にかかわっている。

 それでは、マネジメントというカタカナ語の意味を容易に確定できるかというと、話はそれほど簡単ではない。上記の試訳においては、「マネージ」とあえてカタカナのままにしておいた。というのも、manage をカタカナ語以外で翻訳することが、かなり困難なためである。具体的に、この言葉を用いた用例と、その訳を見ていこう。

・run a tightly managed factory
厳重に管理された工場を経営する
・The railroads are being well managed.
その鉄道はうまく経営されている
・The Soviet economy was centrally managed.
ソビエト経済は中央に管理されていた
(『新編英和活用大事典』[CD-ROM版]より抜粋)

この三つの用例におけるmanage(d)という動詞は、どれも、「管理」「経営」という訳語がしっくりくるものである。しかし、つぎのような例文はどうだろう。

・Many teachers can barely manage a conversation in English.
英会話をうまく操れない教員が多い
・The exam was difficult, but he managed (it) all right.
試験は難しかったがなんとかうまくいった
・How can you manage on such a small income?
どうやってそんなにわずかな収入でやりくりできるんだ? (同上)

いずれも、「管理」や「経営」という訳語では、まともな日本語にはならないことに注意が必要だ。「英会話」や「試験」や「わずかな収入」という、難しいものを、なんとか切り抜けるという行為もまた、manage は意味している。これも、動詞 manage の重要な語義である。

 しかし厄介なのは、この二つの語義が、お互いにはっきりと切り離されていないことだろう。いや正確には、後者の「切り抜ける」という語義が、前者の「管理、経営」という語義に浸透しているケースがあることだろう。先の用例に戻ろう。これらの例には、「工場」「鉄道」「経済」という簡単ではないものを、なんとかして「経営」ないしは「管理」する、というニュアンスがからみついているように見えるのだ。

 もう一度確認すると、英語の manage には「難しいものを、なんとか切り抜ける」という意味が強く作用している。問題は、この意味が、manage を「管理(する)」という日本語に訳した場合でも、きちんと残存するかどうか、という点にある。『日本国語大辞典』を参照してみよう。

①管轄、処理すること。とりしきること。とりしまり。
②法律上、財産を保存し、また、その性質を変更しない範囲内でその利用、改良をはかること。
③ものの状態、性質などがかわらないよう、保ち続けること。「品質の管理」「自分の体を管理する」
④事務を経営し、設備の維持、管轄にあたること。
(『日本国語大辞典』「管理」/ジャパンナレッジ〈オンラインデータベース〉より抜粋)

Management と「管理」の違いを、強引にまとめるとこうなる。両者とも、「組織を運営すること」という意味では、明らかに重複している。ただし、前者とは異なり「管理」には、状態が悪化しないように「保ち続ける」という意味や、違反や逸脱がないよう「とりしまり」を行うという意味が存在している。

 このまとめに従うのであれば、「プロジェクトの管理」と「プロジェクトのマネジメント」の違いはこうなる。前者では、規定通りのやり方の保持が目指されていることになるだろうし、場合によっては、規定を破らないように監督する、という含みも生じてくるかもしれない。その一方で、「プロジェクトのマネジメント」という言い方が強く含意するのは、その仕事が直面する困難をなんとかしてくぐり抜けることである。ほぼ同じことが、「心身の管理」と「心やからだのマネジメント」の違いにも言えよう。前者では、心身の状態を悪化させないことに力点が置かれている。後者では、ある困難を切り抜けるべく、心やからだを、いわば「やりくり」することに力点が置かれる。

管理からの逃走

 マネジメントというカタカナ語の輪郭を、ごく大まかに見定めてきたわけだが、その上で提出してみたいのは、私たちはなぜ、「管理」ではなく「マネジメント」という言葉を好むようになったのだろうか、という問いである。

 今、手もとに『こころのマネジメント』という本がある。人事管理の専門家ではなく、職場の「マネージャー」(この著者が「管理職」という言葉をけっして使わないことはじつに興味深い)向けに平易な文章で書かれたこの本には、つぎのような一節がある。

もし「マネジメント」という言葉が「管理」と訳されるような意味のものであるならば、「こころのマネジメント」、すなわち「こころの管理」などというものは、決してあるべきではないと思います。しかし、私は、これからの時代の「マネジメント」とは、こうした「管理」という意味のものではなく、もっと違った意味のものになっていくと考えています。(田坂188-90)

先に確認したように、「管理」には「管理社会」という言葉に見られるような、ネガティヴな響きがあるのだ。その一方で、マネジメントには、肯定的なニュアンスが伴っている。このニュアンスの違いを、よりはっきり示しているのが、つぎに引用する一節である。

海外でトラブルに巻き込まれたときは、「誰のせいだ?」というような後ろ向きな問いをいくら繰り返してもまるで時間の無駄なのである。それより「この窮状からどう脱出するか?」という前向きの問いにシフトしないといけない。この「他罰的問い」から「遂行的問い」へのシフトができるかできないかにリスクマネジメントの要諦はある。[注1]

この書き手が暗に批判しているのは、「管理」という言葉だとも言えよう。「誰のせいだ?」とは、「とりしまり」を行おうとする人々=管理者たちの発想である。その一方、「窮状」という困難を「前向き」にくぐり抜けようとする人々は、「マネジメント」という言葉のほうを好む。この書き手の意図を、こう読みかえることもできるだろう。

 とすると、マネジメントという言葉に込められた願望が、おぼろげながら見えてくる。この言葉は、他人から(あるいは組織やシステムから)管理されたくない、という願望を反映しているのかもしれないのだ。悪いのは誰か、という管理の発想(「他罰的問い」)ではなく、自分は何をすべきか、という「前向き」のそれ(「遂行的問い」)へのシフトが、マネジメントという言葉には反映されている。

 これは全くもって歓迎すべき事態だ、という言い方も可能だろう。他者やシステムの管理からの解放が、実現しているかどうかわからないとしても、少なくとも望まれているのだから。

 しかし注意すべきなのは、先の書き手がほめそやす「遂行的問い」、つまり、自分は何を為すべきかという問いが重視されるようになったのには、歴史的な事情がある、ということなのだ。

悲劇的経験としてのマネジメント

 ごく手短に言うと、それは、企業における組織のあり方の変容である。リュック・ボルタンスキーとイヴ・チアペッロは、1960 年代から 90 年代にかけてのマネジメント言説(経営学で言われていたこと、とひとまず考えてよい)を分析した、フランスの社会学者たちである。二人は、この時期に、企業の理想的なあり方が、ピラミッド型から水平型(ネットワーク型)へと変化したことを指摘し、つぎのように述べている。

この新しい世界[水平型組織]においては、いかなることも可能である。というのも、そこでは、創造性、反応性、柔軟性が新しいキャッチフレーズとなるからだ。ある部局に所属したり、上司の権威に完全に従属したりすることで、制約をこうむるものはいまや誰もいない。ルメール(1994)が夢想するのは、上司を完全に廃止することである……。(Boltanski and Chiapello 90)

これはもちろんマネジメント言説の理想に過ぎないのだが、それにしても、ピラミッド型を採用せずに、どうやって企業は秩序を維持するのだろうか?ボルタンスキーたちの答えを言いかえるのであれば、それは、個人が個人を、自分が自分をマネジメントすることによって、ということになろう。ここでは「管理」という言葉は適切さを欠く(『こころのマネジメント』の著者が「管理」職という言葉を執拗に回避したことを思い出そう)。個人は、組織から管理されるのではなく、自らを「やりくり」して難局を乗りこえる、つまり自らをマネジメントするのである。もちろん、素人でも容易に考えつくことだが、ピラミッド型組織からネットワーク型組織に転換することで、利益は出しやすくなるだろう。なにしろ、高額の給与を恒常的に必要とする「管理」職の数を減らすことができるし、社員の自己マネジメントのほうが社員の「管理」よりも、安くつくのだから。

 しかし、それよりも問題なのは、自分をマネジメントしつづけることが、ときとして大変な困難をもたらす点である。前向きに、自分の為すべきことを絶えず考え、「創造性、反応性、柔軟性」を自ら不断に養っていくのは、他人や組織に管理されるよりも、つねに簡単で望ましいことだと、私たちはためらいなく断言できるだろうか? 「創造性、反応性、柔軟性」は、職場のなかでのみ身につく能力ではない。それは、コミュニケーションによって身に付け維持しつづける能力なのだ。そして、そのコミュニケーションは、職場でも、職場を離れても、そして、夜中に見る夢のなかさえも、すなわち、文字どおり「24 時間」実践しつづけるものである。それでもなお、それが簡単で望ましいと、ためらいなく断言できるだろうか?

 さらに、やや唐突に聞こえるかもしれないが、先の問いを、地方自治体と国家(中央政府)との対比に当てはめて考えてみよう。自治体が自らのすべきことを休みなく考えつづけるのは、中央政府から管理されるよりも、つねに簡単で望ましいことだと、今の私たちは即座に断言できるだろうか?(断言する場合、ニュー・パブリック・マネジメント[NPM]の導入が叫ばれることになる。

 そう断言したくなるとすれば、マネジメントが、現代においてひとつの「命令」になっている、倫理になっているということだ。この命令・倫理はじつに巧妙なものだ。なにしろそれは、管理から逃走したいという、私たちの骨の髄までしみこんだ感情を基礎とするのだから。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、言葉は違いこそすれ(フーコーの場合はマネジメントではなく「統治性〔ガヴァメンタリティ〕」であり、経済人〔ホモ・エコノミクス〕の合理性である)、この自由への欲望が、私たちの自由をうばっていることを論じている(『生政治の誕生』)。「自由であれ」「自律的・合理的な経済人であれ」という命令に私たちが従っているとすれば、皮肉なことに、その点で私たちは自由ではない。管理よりもマネジメントという言葉を好む私たちは、「自由であれ」という命令・倫理によって管理されている。

 であれば、マネジメントという言葉の使用を即刻中止して、管理という言葉を正直に使おう、と言いたいわけではない。むしろマネジメントという言葉には可能性がある、と言いたいのだ。より正確には、この言葉に込められた願望には可能性がある、と言いたいのである。

 管理からマネジメントへ、すなわち、ピラミッド型組織から水平型・ネットワーク型組織へ、という変化を私たちは経験してきたし、今も経験しつつある。この経験は、管理の経験同様、悲劇的なものである。マネジメントに失敗し、「創造性、反応性、柔軟性」を失うとき、個人は抑鬱状態を(カトリーヌ・マラブー)、自治体は破産を迎えるのだから。

 しかし私たちは、こうした出来事のみを経験しているわけではない。それと同時に、願いや望みもまた、経験している。「起きてほしいと私たちが思ったことも、経験」(Williams, Border Country 281)なのだ。マネジメントをめぐる経験のなかには、管理から逃れたいという願望が含まれていることはすでに見た。ただしそれは、あらゆる管理から逃れたい、という願望だけではない(この願望が今のところ実現不可能であることもすでに見た)。それは、ある特定の管理から逃れたい、という願望でもあるのだ。ということは、こうも言えることになる。私たちがマネジメントという言葉を好むとき、そこでは同時に、より良い管理より民主的な管理が望まれていると。そしてこの願いが実現するとき、管理とマネジメントという言葉がその意味を相互に規定しあっている限り、管理だけではなく、マネジメントという言葉の意味も変化するのである。

[注1]「内田樹の研究室」(二〇〇四年八月二〇日)より引用。
http://blog.tatsuru.com/archives/000317.php[傍点は引用者による]

参 考 文 献 (リンク先をご覧ください)

出典:『文化と社会を読む 批評キーワード辞典』

 〈著者紹介〉
大貫隆史(おおぬき たかし)
東北大学文学研究科准教授。
専門は 20 世紀の英文化・文学。
単著に『「わたしのソーシャリズム」へ――二〇世紀イギリス文化とレイモンド・ウィリアムズ』(研究社)、共著に『愛と戦いのイギリス文化史 1951–2010 年』(慶應義塾大学出版会)、『現代批評理論のすべて』(新書館)、訳書に(レイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて――文化研究I』(共訳、みすず書房、2013年)『想像力の時制――文化研究II』(共訳、みすず書房、2016年)など。


河野 真太郎(こうの しんたろう)
専修大学国際コミュニケーション学部教授。
専門はイギリスの文化と社会、新自由主義と文化。

著書に『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)など。共編著に『終わらないフェミニズム――「働く」女たちの言葉と欲望』(研究社)、『愛と戦いのイギリス文化史――1951-2010年』(慶応義塾大学出版会、2011年)など。訳書に『暗い世界――ウェールズ短編集』(堀之内出版)、(レイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて――文化研究I』(共訳、みすず書房、2013年)『想像力の時制――文化研究II』(共訳、みすず書房、2016年)など。

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