見出し画像

コミュニケーション(大貫隆史・河野真太郎)

――カタカナ語に潜む罠

日本語のなかのカタカナ語

 最初に、いわゆる「カタカナ語」をめぐる問題について、ごく簡単に言及しておいたほうがよいかもしれない。

 私たちがカタカナを使うのは、どんな場合だろうか? 外国の人名(「ジョン・ブル」)、地名(「イーストエンド」)などの固有名を標記するとき、私たちはためらいなくカタカナを用いる。ただし、固有名詞ではない言葉をカタカナ語で表記するとき、何らかの「ひっかかり」を感じることがある。

 こうした「ひっかかり」――これを「抵抗」と呼ぶことにしよう――には、いくつかの型があるかもしれない。ひらがなや漢字でも表記可能かもしれないのに、それをあえてカタカナで表記する場合(たとえば、「効率」ではなく「エフィシエンシー」とする)。これは、英語圏であれば、英語ではなくわざわざラテン語で表現して、場合にもよるけれど、「卓越性」(平たく言うと、自分には教養があること)を誇示するやり方に近いのかもしれない。「エフィシエンシー」と言われて、なんとはなしに軽い苛立ちを覚えるのは、そこでの卓越性の誇示(「自分は英語を使える人間だ」または「これは『効率』とは違う専門用語だ」)に対して、何らかの抵抗を私たちが感じるためだろう(かなり脱線してしまうけれど、カタカナ語を乱発して笑いを誘うテレビタレントは、こういう卓越性の誇示を、うまく脱臼しているのかもしれない)。

 あるいは、ひらがなや漢字に言いかえるのが困難な場合にも、やはり抵抗が生じてしまうことがある。その代表例が「コミュニケーション」だ。「コミュニケーション」とはどういうものか、私たちはよくわかっていない。これほど頻繁に使っている言葉であるにもかかわらず、その意味は曖昧なのである。

 中央教育審議会は、大学卒業までに涵養すべき「学士力」の一部として、「コミュニケーション・スキル」を挙げている。これはどういうものだろうか? 「学士課程教育の構築に向けて(答申)」(2008 年)にはこうある。「日本語と特定の外国語を用いて、読み、書き、聞き、話すことができる」と。ということは、いわゆる四技能(reading/writing/listening/speaking)が、「コミュニケーション・スキル」の内容なのだろうか?

 この解釈が正しければ、「話し上手」な人間は、「コミュニケーション能力」の高い人間ということになる。ところが、「聞き上手な人」は疑いなく褒め言葉である一方、「話し上手」は、ときに、相手をけなす言葉となる。「話し上手」なうちはよいけれど、度を越して「あの人は話がうまいから、気をつけよう」になると、これは完全に悪口の対象だ。その「話がうまい人」は、コミュニケーションがうまいわけではない、とさえ評価されてしまうかもしれない。矛盾も甚だしい。また、非常によく本が読める人ならどうだろうか。これも実のところ、「コミュニケーション能力」の高い人とみなされる可能性は低い。

 こういう事態が起きるから、カタカナ語は厄介だ。つまり、カタカナ語が決定打として使用されるとき、別の言葉で説明しても実はよくわからないものに、とりあえずの名前を付けるという対応がなされていることが多い。いや、よく考えてみると、カタカナ語以外の言葉でも、同様のことは頻繁に見られる。たとえば、「空気を読む」というフレーズを私たちはかなり用いるようになった。しかし、その「空気」とは、どのようなものなのか、厳密に定義するのはきわめて難しい。「雰囲気」と言いかえられるとしても、では、「雰囲気」とは何か、と聞かれてしまうと、答えに窮してしまう。「空気」や「雰囲気」とは、「よくわからないもの」なのである。それに対して、私たちは暫定的に名前を付けて使用している。

 およそ言葉によるやりとりというものは、不安定なのである。その意味を私たちがあらかじめ完全に理解している言葉は、実は存在しない。だからこそ私たちは、言葉それ自体のはたらきについて、注意を払わねばならない。さもないと、意図することなく、他人を傷つけたりしてしまうし、ときには、居心地の悪い社会さえつくり出してしまう。これを避けるためには、まずは、私たちが使っている言葉の輪郭を浮き彫りにする必要があるだろう。私たちの問題を解決する鍵〔キー〕となる言葉〔ワード〕であるのなら、それがカタカナ語であるかないかは、あまり重要ではないのだ。

日本語としての「コミュニケーション」

 最大の日本語辞典である『日本国語大辞典 第二版』は、「コミュニケーション」について、以下のように定義している。

  特定の刺激によって互いにある意味内容を交換すること。人間社会においては、言語、文字、身ぶりなど、種々のシンボルをなかだちとして複雑かつ頻繁な意味内容の伝達、交換が行なわれ、これによって共同生活が成り立っている。(2001 年、強調引用者)

正直なところ、この記述はかなり難しい。専門的な記述とさえ言ってよいかもしれない。とはいえ、傍点を付した部分に注目してほしい。コミュニケーションとは、読み、書き、聞き、話す行為だけを指す言葉ではない。

 「交換」、これが鍵だ。別な言いかたをすると、一方的に発信すること、一方的に受信することだけでは、コミュニケーションとはならない。お互いに何かをやりとりすること、これがコミュニケーション、ということになろう。

 同辞典に用例として記載されている丸山真男の言葉を参照してみよう。「法律学、政治学、経済学というような本来密接な関連をもつ学問分野の間でさえコミュニケーションがあまりないという状態です」(『日本の思想』 1961 年)。この、コミュニケーション=双方向のやりとり、という意味あいは、20 世紀末にも見いだすことができる。「そのような自閉や感傷を吹き飛ばすためにも、やはり横断的なコミュニケーションが求められている」(浅田彰、1999年)といった具合に。

 こうして考えてみると、中教審の掲げる「コミュニケーション・スキル」の内実も、おぼろげながらわかってくるかもしれない。彼らが求める「コミュニケーション能力」とは、単に一方向的に「話す」能力だけではなく、双方向的に相手が内容を理解できるように「話す」能力なのだ。

 ところが、コミュニケーションのこうした意味付け――これを現在の「支配的」意味付けと呼んでおこう――は、この言葉の意味付けの一部を構成するものに過ぎない。三度も依拠することになるが、『日本国語大辞典』には、1914 年の用例も記載されている。

コンミュニケーション Communication(英)通信。交通。書信。交通機関。(勝屋英造『外来語辞典』)

手もとの学習用英和辞典を開いてほしい。“Communication” は多義的な言葉なのだ。いや、日本語の「コミュニケーション」も、負けず多義的である。たとえば、「マスコミ」という言葉を私たちは使う。そして、「マス・コミュニケーション」とは、「非常に大きな数の人々〔マス〕」に対して、何らかの事柄を「通信・報道〔コミュニケーション〕」することなのだ。とすると、こういう疑問も生じてくるかもしれない。「マスコミ」の「コミュニケーション」は、双方向ではなく、一方向的なものではないかと。

 レイモンド・ウィリアムズが指摘するように、“communication” には、「双方向性」と「一方向性」の両方が存在している(『キーワード辞典』)。『日本の思想』の丸山真男が「マス・コミュニケーション」を批判して、「コミュニケーション」を称揚したとき、彼は何を言おうとしていたのだろうか? 「~学」という「タコツボ」に閉塞するのではなく、お互いにやりとりすることの重要性を丸山は説いた。おそらく彼は、「マス・コミュニケーション」の「一方向性」を打破して、「コミュニケーション」の「双方向性」に可能性を見いだそうとしていたのだろう。今からは想像しにくいことだが、当時の「コミュニケーション」の支配的意味付けは、「一方向通信」だったのかもしれない。一九六一年の丸山真男は、それに抵抗しようとした。

 それで、双方向的で民主的なコミュニケーションが成立したなら、大いに結構ではないか、という意見もあるだろう。新たなメディアによって、これまで声をもたなかった人々が発信できるようになったのだから、と。しかし、1961 年に「横断的なコミュニケーション」を叫ぶことと、1999 年に叫ぶことは、まったく意味が違う。20 世紀末、双方向的なコミュニケーションは、まだまだ珍しいことだったのだろうか? 横断的なコミュニケーションは、「できればやってほしい」ことだったのだろうか? これらの問いに、ためらいなくすべてイエスと答えられるのであれば、事態は単純である。ところが、いまや、双方向的コミュニケーションは、誰しもに要求されるものなのだ。私たちは、昼夜の別なく、24 時間それを実践しつづけねばならない。コミュニケーションは、努力目標ではなく、万人に課せられた義務である。このとき、「コミュニケーション」という言葉の意味は、1960年代のそれから、遠く隔たっている。いつのまにか、「コミュニケーション」は私たちを拘束する何かになっている。この変化のありようを知るためには、「生きるために働くこと」と「コミュニケーション」の関係を考察せねばならない。

働くこととコミュニケーション

 「コミュニケーション能力」は現在、働く者にとって、もっとも重要とみなされている。試しに、ネット書店で、「コミュニケーション」を検索欄に打ちこんでみるとよい。上位を占めるのは、いわゆるビジネス書(ひと昔前の呼び方では「ハウツー本」)のたぐいである。「新入社員に求めるもの」といった調査でも、「コミュニケーション力」はつねに上位にある。なかには「あいさつ力」などという、ちょっと吹き出してしまうような能力が登場する調査もあるが、あいさつとはまさに、言語学者ロマーン・ヤーコブソンのコミュニケーション・モデルにおける「交感的」メッセージ(「私はコミュニケーションをする用意がありますよ」ということだけを伝えるメッセージ)である。

 このように、現代の労働者はコミュニケーションを強制されている。ただしここでも、「コミュニケーション」は、そのもっとも広い意味におけるそれではない。あくまで、前に述べた「双方向的コミュニケーション」なのである。日本の企業では、「指示待ちはダメ」ということがよく言われる。これを言いかえれば「受信をしているだけではダメ」ということであろう。労働者は、命令を受信したら、それを自律的に解釈し、適切な行動に移さなければならない(つまり、「発信」せねばならない)。

 労働者は、と述べたが、コミュニケーションは、労働に限らず私たちの生活のすべてを覆っているようにも思える。それがどれほど根深いかを理解するためにも、「双方向的コミュニケーション」をすべて絶った生活を想像してほしい。おそらく、(これはあくまで典型でしかないが)「ひきこもり」といったイメージがその極端な例だろう。

 「ひきこもり」というのは、かならずしも、もっとも広い意味でのコミュニケーションを絶った人ではない。おそらく「受信」はしている。テレビを見る。雑誌を読む。インターネットを閲覧する。しかし、現在支配的なコミュニケーション空間において、受信だけすることは、コミュニケーションとはみなされない。発信も含めた、双方向的コミュニケーションがあってこそ、社会に存在しているとみなされるのである。

 だから私たちは、双方向的なコミュニケーションの回路に開かれていることを、必死で示そうとする。その結果、逆説的なことだが、世の中には無意味なメッセージが氾濫することになる。どういうことか。ここでも先ほどの「交感的メッセージ」がキーワードになる。つまり、「私は双方向的コミュニケーションに開かれていますよ」ということを示すためだけのメッセージが氾濫することになるのだ。自分のケータイの送信フォルダを、または自分のブログのエントリーやコメント欄を見返してみればよい。「おはよう」、「いま何してる?」、「別に」、「おやすみ」――私たちは、ときとして、こうしたごく単純な(そして無意味な)メッセージを受信し送信することに、奇妙なやすらぎを覚える。その一方で、「意味のありすぎる」コミュニケーションばかりをつづけることには、耐えられなくなっている。(精神科医・批評家の斉藤環はこれを、「毛づくろい的コミュニケーション」と、巧みな比喩を用いて呼んでいる(「インターネット・カーニヴァル」)。毛づくろい的コミュニケーションを適度に行えることは、ひきこもりからの脱出にとって重要だとの主旨である。)

 さてそうすると、労働の場で求められるものと、それ以外の生活で求められるものが、非常に似ていることになる。新入社員にコミュニケーション力を求めるのは、現代の若者のコミュニケーション力が低下しているからだろうか。けっしてそうではない。それどころか、現代の若者は非常に旺盛〔おうせい〕なコミュニケーションを行っている。おそらく、変わったのは新入社員のほうではなく、労働の場のほうである。労働市場は、私たちに、コミュニケーション力を「売る」ように求めてきているのだ。(正当な価格で買ってくれるかどうかは保証のかぎりではないが。)

ポストフォーディズムとコミュニケーション

 以上のような事態は、ポストフォーディズムという名で呼ばれることがある。イタリアの経済学者クリスティアン・マラッツィや、同じくイタリアの哲学者パオロ・ヴィルノは、ポストフォーディズム状況においてコミュニケーションが重要になったことを指摘している。ポストフォーディズムとは何か。それは文字どおりには「フォーディズム以降」を意味するので、先に「フォーディズム」を理解する必要があるだろう。この言葉は、自動車メーカーのフォードに由来している。フォードは、規格化された製品を、工場で大量生産する方式を確立した。それは福祉国家体制での完全雇用・高賃金を基礎とする大量生産・大量消費を前提とするのだが、労働の場そのものの典型イメージは、ベルトコンベアのそばで行われる機械的な労働である。そこでは労働者は、おしゃべりをしてはならない。自律的な判断も求められない。中央集権的に管理された生産システム内の部品となることが求められるのだ。チャーリー・チャップリンの『モダン・タイムス』を想起してもらってもいいだろう。

 これに対するポストフォーディズムは、規格品を大量に生産し、在庫を大量に保持するのではない。それは、市場の需要にフレキシブルに対応するために、在庫を減らし、「オンデマンド」で「ジャストインタイム」な生産を行う。つまり、需要量にできるだけ応じた量の生産をし、ムダを減らそうとする。コストを最小化するために、部品ばかりか、労働力もまた、必要デマンドに応じて集められる(もしくは手放される)。雇用と賃金は、めまぐるしく変化する市場の需要に応じて調整される。労働組合は弱体化され、雇用は不安定になる。西欧諸国においては、そしてさらにはグローバルに、このポストフォーディズムは 1980 年代の新自由主義の登場と軌を一にしたと言っていいだろう。新自由主義とは、一般的に、国家が福祉を受けもち、市場に介入する福祉国家体制とは対照的なものとされる。新自由主義は、国家の市場への介入を弱め、自由競争を肯定する。日本では 1990 年代以降の「民営化」の波や、「自己責任」論の隆盛、「格差社会」の到来などを考えればよい。

 実のところ、ポストフォーディズムの雛形となるのは、1950 年代のトヨタ自動車における、いわゆる「トヨティズム」もしくは「トヨタ生産方式」であった。現在では先ほど述べた「ジャストインタイム生産方式」とも言われる「かんばん方式」は、「作りすぎ」や「在庫」、「不良品」など七つの「ムダ」を排除する方式として考案された。この方式は、フォーディズム的なオートメーション化との差異化をはかって、自動化ならぬ「自働化」と呼ばれる。品質管理を、つまり不良品を減らすことを目的とし、工場の現場で異常が起こった場合に、生産ラインを一旦止めて、その不具合が起こったセクターで自律的に問題解決を図っていくということ、これが自働化である。現在がポストフォーディズム状況であるとして、それはトヨティズムが社会のあらゆる場所へと浸透した結果であるとも言える。

 この「自働化」のキーワードがコミュニケーションだ。労働の現場において、上からの指示をだまって実行しているだけでは、良しとされない。私たちは、積極的に相互コミュニケーションをとり、現場の改善をすることが求められる。

 中央集権的労働から、「自働的」な労働へ。あるいは、黙々と労働するあり方から、個々の現場が自律的にコミュニケーションをとりあう労働へ。これが、フォーディズムからポストフォーディズムへの移行である。フォーディズムと違い、労働者は職場でおしゃべりすることが推奨される。いや、それどころか、適切なコミュニケーションをとる能力と実践を、いまや私たちは強いられている。これが、一方向的通信としてのコミュニケーションから、双方向的通信としてのコミュニケーションへの移行と並行関係にあるのは偶然ではあるまい。個々の労働者をみた場合、求められるのはコミュニケーション能力に加えて、柔軟性フレキシビリテイ、自己マネジメント能力、自律性である。というと、どれも個人にとってすばらしい資質だ、と思われるかもしれない。しかし、パオロ・ヴィルノが指摘するように、従来「仕事」とは切り離された個人の資質であったはずのこういった資質が、いつのまにか労働へとくりこまれて「資源」とされ、「資本」とされてしまったのならば、そうも言ってはいられないはずだ。それらの能力がすばらしい、という思い込み自体が、いったいどこから出てきたのか、そしてその思い込みによって得をするのはいったい誰なのかを、考える必要がありそうだ。

コミュニケーションの可能性

 最初に述べたとおり、労働者に求められるコミュニケーション力と、日常的なコミュニケーション力との間に、区別はなくなっている。これはある意味、当たり前である。当のコミュニケーション力は、個々の人間がもっている能力なのであり、その個々の人間は労働者のこともあればそうでないこともあるのだから。しかし、もしかすると、労働とそれ以外の生活の間の、肝心の区別があいまいになってきているのかもしれない。働いていないときに(そのようなときがあるとして)、自分は労働とはまったく関係のないことをしていると、自信をもって言えるだろうか? コミュニケーション能力を高め、いつでも使えるように、潜在的に保持しなければならないという意味では、雇用状態と失業状態との間に区別はないのかもしれない(そして、雇用と失業の間の垣根を低くすることこそ、ポストフォーディズムのねらいである)。これは絶望的なヴィジョンだ。

 だからこそ、柔軟な双方向的コミュニケーション以外のコミュニケーションを「思い出す」ことが、重要なのである。また、個人の潜在的能力としてのコミュニケーション能力、という、現在支配的な意味以外の意味を、「思い出す」ことが重要なのだ。ここで、能力ではなく、行為・パフォーマンスとしてのコミュニケーションに力点を移すだけでは不十分である。また、コミュニケーションの媒体〔メデイア〕のみに目を向けることも、不十分だ。おそらく、「コミュニケーション」の支配的な意味が前提としている、「コミュニケーション能力をもち、それを行使してほかの個人とコミュニケーションする個人」という考え方そのものを再考する必要があるだろう。そこで焦点が当たるのは、「コミュニケーション」の類語、「コミュニティ」である。

参 考 文 献 (リンク先をご覧ください)

出典:『文化と社会を読む 批評キーワード辞典』

〈著者紹介〉
大貫隆史(おおぬき たかし)
東北大学文学研究科准教授。
専門は 20 世紀の英文化・文学。

単著に『「わたしのソーシャリズム」へ――二〇世紀イギリス文化とレイモンド・ウィリアムズ』(研究社)、共著に『愛と戦いのイギリス文化史 1951–2010 年』(慶應義塾大学出版会)、『現代批評理論のすべて』(新書館)、訳書にレイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて――文化研究I』(共訳、みすず書房、2013年)『想像力の時制――文化研究II』(共訳、みすず書房、2016年)など。

河野 真太郎(こうの しんたろう)
専修大学国際コミュニケーション学部教授。
専門はイギリスの文化と社会、新自由主義と文化。

著書に『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)など。共編著に『終わらないフェミニズム――「働く」女たちの言葉と欲望』(研究社)、『愛と戦いのイギリス文化史――1951-2010年』(慶応義塾大学出版会、2011年)など。訳書に『暗い世界――ウェールズ短編集』(堀之内出版)、(レイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて――文化研究I』(共訳、みすず書房、2013年)『想像力の時制――文化研究II』(共訳、みすず書房、2016年)など

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?